自由に生きよう | 神・まぐわい極め道

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まぐわいをとうしてアラカン夫婦が本当の愛を循環させる世界平和に在り続けるブログ

かなり久しぶりの投稿になりました。

ちづるです。

 

今日は少し深めのお話をお伝えできたらと思います。

 

突然ですが、ブログのタイトルを変えました。

 

 

 

ありのまま遊縁地

 

 

 

私は地球はそんな場所だと思っています。

 

そんな地球であってほしいという願いを込めてブログのタイトルを変えました。

 

 

 

それぞれがありのままで生き

出会い

すれ違い

また出会い

 

出会ったところで何かが生まれ

生まれないまま何かがそのまま粛々と起きている。

 

 

それが地球。

 

それが自然。

 

 

 

だけどぉ。。

今の人って「あるがままで生きよう」となかなか思えないですよね?

 

以前の私はそうでした。

 

 

あるがままでいると

 

人に嫌われる

 

嫌がられる

 

迷惑になる

 

浮いてしまう

 

避けられてしまう

 

壊されてしまう

 

否定されてしまう

 

 

さまざまなことがくっついてくるから

自分の中から湧いて来た衝動

内なる声

 

抑えて、修正し、

衝動を「単なる行為」に変更させてしまっていました。

 

でも、その単なる行為には全然喜びがない!

面白くもなんともない。

逆に、面倒で苦しくてつまらなくて。。

 

そりゃそうでしょう。

 

だって。

 

本当の本当の私じゃないから。

 

湧いてくる衝動こそが本当の本当の自分なのに。

 

 

私がよく「本当の本当の私」という言葉を口にします。

 

本当が一回だけじゃなく

本当の本当の私と本当の2回重ねています。

 

本当の本当の私とは「起きていること全て」ということ。

 

ここを細かく解説していると、今日のテーマから大きく膨らみ過ぎるのでまた今度にしますが、本当の私のさらに深い

本当の本当の私の声を人は無視しやすく生きています。

 

 

話を元に戻しますが、

湧いてくる衝動を変換させてやる単なる行為は

全然喜びが感じられません。

苦痛や面倒臭さがあるだけ。

 

そのわけは、本当の本当の私の声を無視しているから、という至ってシンプルな理由。

 

 

別の言い方をすれば

衝動を抑えることって

 

今のままじゃだめだ。

今のままではいけない。

もっと、こうしなくては。

さらに、これをやっていかねば。。。

 

そう自分に言い聞かせていることになるわけです。

 

自分に条件を付けて、

その行為をし、

挙句にはその結果を

誰かに証明しなくては

自分が存在している意味も価値もない。

 

そこまで自分を追い詰めるとどうなるか?

 

 

不自由しかない。

 

 

 

誰かにいくら

そのまま良い

あるがままで良いと言われても

 

何もできない

 

うまくやれない

 

失敗してしまう

 

行為から逃げてしまう

 

やれない自分を責めてしまう。

 

それは行為をしようとするから。

 

 

起きることは流れに行為にはしようとしている段階で別の人格がいるのがわかるだろうか?

 

あるがままというのは状態であり

起きていることにそのままの私を表現し続けている状態。

 

あるがままでいようとする行為ではないのです。

 

いいも悪いも無い。

 

ノージャッジであり続ける。

 

私でいい。

 

これが私だ!

 

こんな状態こそがあるがまま。

 

 

でも、あるがままが素直にできない人にとっては、

あるがままでいようとすることから始めることが必要になるわけです。

 

 

でも、我慢し続けたり、抑圧し続けて生きている人にとって

あるがままという状態がわからない。。

 

 

そんな人のためにあるがままを感じられるのが瞑想という状態の感覚

 

 

 

とは言ってもそもそも瞑想を勘違いしやすい人が多いかなと思うんですよね。

 

 

瞑想って胡座を組みじっと座ることだけが瞑想じゃ無いのです。

 

それは瞑想という状態を作りやすい形式に過ぎないだけ。

 

 

瞑想とは起きている状態であり、やるものじゃない

 

 

そう!あるがままと同じなのです。

 

起きるものを待ち、その状態に委ね続ける。

 

瞑想していると思考が湧いてくることもあります。

 

それは湧いて来ているのです。

だから、思考に捕まりさえしなければ、湧いてくるものを止めようとしなくていいんです。

 

すると思考が突然止まり、瞑想状態に入るのです。

 

だから、走っていても

歩いていても

ご飯を作っていても

電車に乗っていても

瞑想状態の感覚を知っていれば

その状態に持っていくことができるのです。

 

私たちが生きているこの地球は大自然。

 

私もその自然の一部。

 

雨が降り、霧になり、雲が生まれ、川の水になることを止められないような自然の仕組みの中に

私という肉体を持った自然の一部がいるだけ。

 

だから雨が降ることを止められないように

私の中から湧いてくるものを本当は止められないのです。

 

その「止めない」続けていると

「地球と私」という境目のない状態になるのです。

 

それは瞑想状態の感覚に似ているというか

同じというか。

 

 

私がいるようでいないから

瞑想と言えるのか?

 

うーん。そこは私の感覚なので言い切れないところがあるのですが。。

 

ま、今日の結論。

 

 

グダグダ自分をジャッジすることが多いなら

瞑想をしたらいい!ってことかな。

 

瞑想を難しく考えなくていいってことも言いないかな。

 

要はありのままで生きられる私になって

もっと自由に生きようよ!ってことを言いたいのです。

 

 

久しぶりのブログで書きたかったこと。

 

自由でいよう。

 

自由という状態は自分自身で作れるのだから。

 

 

 

 

 

さ。今日も楽しみましょうかね。。

 

あなたの今日に笑いが起きますように!

 

 

久しぶりのブログ投稿

 

 

 

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