場所 京都市上京区松之下町57-13
加藤清正の屋敷があったと云う。
あれ~、石碑が変わってる
以前は小松帯刀寓居参考地だったのに…
説明板。
【聚楽城 加藤清正邸跡伝承地】
当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたります。
「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ一条邸跡とされます(中古京師内外地図)。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地です。
応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦いました。
そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡しました(応仁記)。
以後洛中の寺社・貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅しました。
羽柴(豊臣)政権期には、秀吉・秀次の聚楽城からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設されました。
当地付近は、西隣地「主計町」の地名によって加藤主計頭清正邸跡と伝承されます。
尼崎本「洛中洛外図」には、正親町小路(現中立売通)と思われる道路(図の「一条戻り橋」は誤りか)と堀川交差点東入ル北側に「加藤主計殿」とあり、その傍証といえます。
徳川時代には、少なくとも文久3年(1863)以前筑前福岡黒田屋敷となりました。
なお当地の向かいは、小出伊勢や上行寺、ついで五摂家筆頭の近衛家堀川邸が建設されました。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地でした。
2018年6月特定非営利活動法人京都歴史地理同考会
理事長 中村武生
碑の西側には前回同様、「此付 近応仁の乱洛中最初合戦地」と書かれていました。
その横の面に「此北 近衛堀川屋敷跡」と書かれています。
碑の東側には、「源頼光 藤原道綱母子 一条邸跡」と書かれています。
その横の面に「筑前福岡黒田屋敷跡」と書かれています。
小松帯刀の寓居は上京区森之木町にあったことが解り、2015年に撤去されたとか。
今度は大丈夫か?
いいかげんに石碑を建てないで欲しい
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