佐用都比賣神社(兵庫県佐用郡佐用町) | 三日月の館

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所在地  兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261

主祭神  狭依毘賣命

創建    不詳

 

佐用の名の由来の神社です。

 

御由緒。

【佐用都比賣神社御由緒】

 

御祭神、狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。

相殿、素盞鳴大神、大国主大神、春日大神、八幡大神を合せ祀る。
創立は往古にして、続日本後記に「第54代仁明天皇嘉祥2年(紀元1507年、西暦847年)11月官社に預る」と記されている。

更に延喜式内神明帳(紀元1587年、西暦927年)に「第60代醍醐天皇の御代延喜式内社に預る」と記されている。

播磨風土記(元明天皇紀元1373年、西暦713年)に讃容郡と言いう所以は大神妹妋二柱。

各競いて國を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿を捕え其の腹を割きて、其の血を種とうえ仍ち一夜の間に苗生いぬ。

即ち取り植えしめきここに大神、汝妹は五月夜植るかもと勅りたまい他処に去りましき。

故に、五月夜郷と号ふ。
神の名、賛用都比賣命、今讃容の町田に有也と記されている。
古来当地方の開祖佐用姫大明神として昔は御神領地が七町七反もあり官祭されていたものであるが豊臣の兵火にてことごとく焼失し、すいびしたが農業、商業、武術、安産、縁結、鎮火の神として広く信仰されて来た。

国司領主が代々崇敬した神社で、赤松円心、及び兄の孫・別所五郎左衛門敦範(利神城主)、池田三左衛門輝政(白鷲城主)、池田出羽守(利神城主)等が崇社とした。

その他、山中鹿之助が当地に来た時、尼子家再興を祈念して石燈籠を奉建した事、宮本武蔵が諸国修行に出かける時、当社に木刀

二振りを捧げ17日間参籠してその武運を祈願して出立した事等が伝書にみとめられる。
万治3年(紀元2320年、西紀1660年)松平石見守が拝殿を再築、元禄14年9月(紀元2361年、西紀1701年)領主松平久之烝が金子百両 米十五石を献じ現在の本殿を再建した。
大正13年県社に昇格し、大正15年現在の拝殿幣殿を氏子並びに一般崇敬者の寄進金約25000円と氏子の出人夫約500人をもって改築し更に神域も拡張された。
戦後は頓に霊験あらたかとなり、病難、交通安全、安産、厄除等、御加護を蒙るもの数多く崇敬者は遠く大阪、広島方面に及んでいる。
北条時頼奉納歌
  何所とも知らで道にぞやみぬべき
   はれまも見えぬ佐用の朝霧

 

参道から。

一の鳥居。

社標。

説明板。

注連縄柱。

手水舎。

塩川神社。

ここに境内図。

二の鳥居。

播磨風土記・続日本後紀記載神社標。

絵馬堂。

神札授与所。

佐用姫稲荷神社。

右の狛犬。

左の狛犬。

拝殿。

開眼之梅。

説明板。

社殿東側の天満神社。

片宮神社(奥ノ院 伯母宮神社)。

社殿西側の若宮神社。

奥に水神社。

通りを挟んで、

社務所。

境内を出る。

赤松氏も山中鹿之介も崇敬した佐用都比賣神社でした。

 

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