赤坂氷川神社 その2(東京都港区) | 三日月の館

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境内図。

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楼門から入ると、正面に社殿。

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社殿は都重宝です。

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説明板。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dd-61/kanezane3/folder/463061/05/12507305/img_154?1403102365

社殿の中を見上げれば格天井絵があり、襖絵や屏風などの社宝もあるそうです。

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社殿東側に参集所。

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参集所南側の黒門。

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参集所を取り壊して新しい社務所を新築するそうです。

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木に結ばれたおみくじ。

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社殿の東側。

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額堂。

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説明。

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【港区の文化財 奉納絵馬7点】

柴田是真筆の「猩猩」、河鍋暁斎筆の「還城楽」、月岡芳年筆の「猩猩の山車」、河竹黙阿弥書の短歌「いくとせを ふれときれぬは 光ります 氷川の富の 鈴にしらるる」、黙阿弥の娘・鳥女筆の「挿花・百合と薔薇」およびこの図に添えられた長女・糸女書の短冊「夏しらぬ利益も あつき氷かな」、それに九代目市川団十郎書の「老せぬや 薬乃名をも菊の水 盃そろひて友に逢そうれしき」の6面と絵馬の奉納者名を記した一面の計7点の絵馬です。
団十郎の絵馬には「己卯」、すなわち明治12年(1879)の年紀があり、制作年代を知ることができます。

 

中に『ま組』火消し絵馬。

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説明板。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dd-61/kanezane3/folder/463061/05/12507305/img_155?1403103918

隣りに収蔵庫。

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社殿前へ戻る。

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楼門から出る。

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楼門から参道を見る。

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楼門東側。

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楠と銀杏を明治維新100年記念植樹したようだ。

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楼門西側。

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石燈籠説明。

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【港区の文化財 氷川神社の石燈籠 4基】

門外の2基は、遷座の年に岡崎城主老中水野忠之が奉納したものです。
水野忠之は吉宗が行った享保の改革の前年を主導した老中です。
幕府財政の立て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。
岡崎藩水野家は吉良邸討入り後の赤穂浪士9人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。

平成7年3月27日
港区文化財総合目録登録

港区教育委員会

 

境内西側へ。
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西側の境内入り口。
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入り口脇。
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山口稲荷神社。
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祭器庫。
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境内西側を北へ進む。
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桶新稲荷神社。
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桶新稲荷神社脇から出る。
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西に聳えるのは東京ミッドタウン。
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境内の西側の坂を北へ下りて行く。
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坂の名前は本氷川坂。
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【本氷川坂(もとひかわざか)】

坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。
社は明治16年4月、氷川神社に合祀された。
元氷川坂とも書いた。

 

坂の途中から振り返る。

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坂の下。
東側に勝海舟邸跡

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最後に御朱印。

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何故かはまってしまった、赤坂氷川神社でした。

 

(おまけ)

 

北へ行った所にある赤坂サカス。

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その北側に鈴降稲荷神社があります。

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路地のような参道を進む。

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マンション入り口西側に鎮座。

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由緒書。

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【鈴降稲荷神社】

降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一体がその氏子であった。
元禄8年、この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。
その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月4日徳川家の武運長久を祈願したお札を将軍に献上のため登城するならわしがあった。
明治13年社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治25年内陣を土蔵造りとしたが大正12年の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正14年赤坂氷川神社境内稲荷社へ合祀された。
今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
往古からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。
花園院正和年中、稲荷の神7歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。
又一説には天正10年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。
家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して、四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。

 

社殿。

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社殿から参道を見る。

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