三田城(摂津国) | 三日月の館

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登城日 1回目 1997年頃
      2回目 2009年10月17日(土)晴
難易度 ☆
場所  兵庫県三田市屋敷町2-20

 

赤松氏一族の有馬氏の居城


三田城周辺は、中世から近世にかけて有馬郡の中心地として栄えた。
【三田城の概要】

南北朝時代に赤松氏が有馬郡に侵入、その後赤松氏の一族であった有馬氏が有馬郡を領有していた。

その頃は三田の中心地は中世三田城東野上城(山城)で赤松円心の四男である赤松氏範が築城したと言われている。

その後、赤松円心の三男赤松則祐の五男である有馬義祐が有馬郡の守護になり、以後子孫が代々領有した。

しかし、この有馬氏の居城が何処であった確かな史料はない。

三田城の築城時期に関しては多説あり、どの説が正しいのかは不明である。

『三田城史』によると、車瀬城を築いたのが有馬村秀(摂津有馬氏七代)としている。

また、天正10年(1582)に山崎片家が城主だった時に、家臣の車瀬政右衛門が縄張りをしたので「車瀬城」と呼ばれるようになったとも伝わっている。

武庫川には今も「車瀬橋」の名が残っている。

また『三田市史』によると有馬則景(分家初代)が車瀬に居館を造ったのが始まりともされている。

荒木平太夫が2万石で領し三田城を築城、金心寺周辺を城下町に整備したとも言われている。

有馬国秀(摂津有馬氏八代)の時に荒木村重の支配下に入るが、天正3年(1575)に不義の疑いがかかり自刃して果ててしまう。

有馬氏の嫡流はここで絶えてしまう。

その後三田城には、荒木氏の一人荒木平太夫が入城する。

しかし、有岡城の戦いで荒木村重が織田信長に背くと、天正6年(1578)に羽柴秀吉、明智光秀、筒井氏らの武将に攻められ落城したようである。

その後池田氏、三好秀次が三田城の城主となったが、天正10年(1582)に近江国から入封した山崎片家が2万2千石で、次いでその息子山崎家盛が城主となり、三田城を修築した慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで山崎家盛は西軍に加担したため、因幡国若桜鬼ヶ城へ転封。

次に三田城の城主となったのは、有馬氏の分家筋である淡河城主有馬則頼(分家三代)で、慶長6年(1601)に2万石で入城した。

有馬氏は旧領を回復したが、元和6年(1620)久留米藩に21万石に加増転封、有馬氏の三田支配は終焉をむかえる。

次に三田城の城主となったのは出羽国上山城から松平重直が寛永3年(1626)に入城した。

しかし、そのわずか6年後の寛永10年(1633)豊後国の龍王城へ移封される。

その後、九鬼水軍で名が通っている九鬼久隆が志摩国の鳥羽城から三田城に3万6千石で移封され、260年間九鬼氏の支配が続き明治維新を迎えた。

九鬼氏は城主格であったが、一国一城令の後と言うことで遠慮して、有馬則頼の城跡に陣屋を構えました。

現在は三田小学校の前に石碑があり、小学校と有馬高校の間に堀が残っています。

 

歴史散歩コースを参考に歩くとよい。
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武庫川に架かる車瀬橋。
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車瀬橋から三田城を見る。
これが武庫川か~
ここら辺は小さな川だなぁ。
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車瀬橋を渡ったところに城下町があった。
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法務局三田出張所。
御下屋敷跡。
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説明板。

敷地内に、庭の築山と石燈籠がそのまま残る。
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御下屋敷の黒門が、三田城の西(天神3丁目)にある金心寺の山門として移築現存している。
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金心寺には三田(さんだ)の地名の由来が書かれていました。
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創建当時が大伽藍だったらしい。
説明板。

三田城付近(屋敷町)にあった。
現在跡地には、三田市立歴史資料収蔵センターが建っている。
ここは必見です!

説明板。
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境内には往時の礎石が残る。
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現在地へ移転後の本堂。
何か小さい。
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三田城へ向かう坂道。
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旧九鬼家住宅。
三田藩の家老職を代々つとめた九鬼家の当主で鉄道技師だった九鬼隆範が明治初期に建てた全国でも数少ない擬洋風建築の建物。
東京で九鬼隆範が設計図を描き三田に送ったが、建てる業者は洋風建築など見たこと無いため、苦労しながら建てたら和洋折衷の家が出来てしまったそうです。
県の有形文化財に指定されている
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2階の様子。
畳に洋風の壁。
実は、壁紙が無かったのでふすまが貼ってある。
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ギリシャ風の柱の中はこのようになっている。
中は空洞で全くの飾りだそうです。
外国人さえ見たことない人が造っているのだから、しょうがないですね。
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九鬼家住宅の隣には、日本初の民間博物館があった。
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坂を登ると三田御池がある。
鳥羽城時代を忘れないために、ここで水軍の訓練をしていたとか。
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九鬼水軍の日本丸。
こんな船を浮かべたのでしょうか。
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三田御池の北側が本丸跡。その後陣屋が建てられた。
今は三田小学校になっている。
校長室の下に御台所跡が残ってるそうです。
校門前に碑が建っている。
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古地図。
かつては、本丸に天守閣が建っていたとか。
その後も、江戸城を上回る大きさの天守閣を再建しようとしたという。
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本丸と二の丸の間の空堀。
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水堀もある。
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二の丸は有馬高校の敷地となっている。
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有馬高校の北側は断崖絶壁。
三田城は、舌状の崖地に建てられているのがわかる。
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三田天満神社。
三田藩主の御祈願所だった。
奥の三田天神公園に、今でも九鬼家一族が年一回集まるそうです。
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城下の西山2丁目にある心月院。
九鬼家の菩提寺です。
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九鬼家一族の墓が建ち並ぶ。
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位置図。

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三田ってベッドタウンで、三田牛で有名な「三田屋本店やすらぎの郷」があるところぐらいしかイメージが無かったのですが、意外と見どころがあったんですね。
新発見でした。