白洲次郎の眠る街・三田(兵庫県三田市) | 三日月の館

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三田城を見に三田市へ行ったのですが、街の人は不思議な目で見ます。
そして、異口同音に言います。
「三田(さんだ)と言えば、白洲次郎ですよ。」
白洲次郎?
テレビで取り上げられたり、本屋で単行本が並んでいたりして、最近良く耳にするようになりましたが、実際どんな人か良く知りませんでした。

 

【白洲次郎とは】

明治35年(1902)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。

神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学へ留学。

神戸一中以来の新友の今日出海は、「育ちのよい野人」と評している。父分平の事業倒産のために帰国した。

帰国後は英字新聞社や商社に勤め、昭和4年(1929)に樺山伯爵家の令嬢正子と結婚した。

外国出張が多く当時の駐英大使であった吉田茂とは24歳も離れていたがウマが合い、大使館を定宿にした。

吉田茂は樺山家の親戚であった。

日本の軍国化を懸念して昭和15年(1940)には仕事を辞め、東京近郊鶴川(東京都町田市)に古い農家を買って「武相荘(ぶあいそう)」と名づけ農業に専念した。

戦後、吉田茂の外相・首相時代に請われ終戦連絡中央事務局参与に就き、占領軍総司令部(GHQ)との折衝を行った。

臆することなく常識に則した正論を主張し、、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという。

最大の仕事は日本国憲法の成立に深くかかわったことで、憲法誕生の生き証人と言われた。

吉田茂が退陣した後は、貿易庁(通産省)長官、東北電力会長等を歴任。

昭和60年(1985)11月28日死去。高級車は生涯を通じての趣味であり、80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じ、また、トヨタの新型車のアドバイスなども行っていた。

また、日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている。(wikipediaより抜粋)

 

ところで、白洲次郎と三田の関係はというと、本人自身が三田で生まれ育ったわけではないのですが、白洲家は三田九鬼藩代々の儒官の家系で、幕末には藩政に大きく関わったのです。
祖父白洲退蔵は、藩校「造士館」の教授を務めていた。
藩校「造士館」跡。
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説明板。
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白洲退蔵は、儒学を修めたが、嘉永7年(1854)の黒船来航時には、浦賀まで出かけて情報を収集している三田藩の識者であった。
藩主九鬼隆義は、退蔵の人柄と学識に感銘を受け下座に下りて師への礼をとったといわれている。
門閥(九鬼海軍の出ではなく、白洲家は丹後地方の出らしく、藩の要職に就いていなかった)でない退蔵の藩政参画によって三田藩は藩政改革を進めると共に財政再建にも力を尽くし藩の窮状を救った。
明治元年(1868)には大参事(従来の家老職に相当)となり、戊辰戦争勃発を機に三田へ戻っていた川本幸民を師として藩士に洋学を学ばせ、一方で、福沢諭吉が三田藩のブレーンであったことから、九鬼隆義の意向もあり彼の啓蒙書を大量に購入。郷学で学ぶ若者達に頒布するといったこともしている。
川本幸民の出生地。
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説明板。
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三田城にある川本幸民の顕彰碑。
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説明板。
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英蘭塾跡。
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説明板。
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しかし、白洲退蔵とその意を受けた小寺泰次郎の進める厳しい政策が農民の反発を受け、明治2年(1869)の農民一揆の一因となったといわれる。
小寺泰次郎出生地。

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屋敷跡は公園になっていました。
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説明板。
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廃藩置県後、旧藩主九鬼隆義と小寺泰次郎とともに、神戸で化学品や薬品などを輸入する商社「志摩三商会」を設立した。
明治15年(1882)8月には、九鬼隆義と福沢諭吉の推薦もあって、横浜正金銀行(後、東京銀行と改称。現在の三菱東京UFJ銀行。)の官選取締役副頭取となり、明治16年1月には頭取になっている。
その後、岐阜県大書記官を務めたが、明治23年(1890)には官を辞し旧主九鬼隆義の家宰を務め、翌年隆義他界まで寝食を忘れて看病した。
8か月後には退蔵自身も死去している。
白洲家の屋敷跡。
昨年発見された。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/excavation/p6krdf0000001lof.html
現在、マンション建設中でした。
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説明板。
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白洲退蔵の子が白洲文平で、その子が白洲次郎である。

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説明パンフレット。
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白洲家・樺山家・吉田家系譜
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白洲家と三田関わりが大きかったことがおわかりいただけたかと思います。
以上からか、白洲家の墓が九鬼家の菩提寺である心月院にあり、白洲次郎夫妻もここに眠っています。
心月院にあった白洲次郎夫妻の説明板。

白洲次郎夫妻の墓。
次郎が夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。
実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。
そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

三田(さんだ)と三田(みた)は地名の由来が違うため、直接関係無かったのですが、不思議と三田(さんだ)出身の摂津有馬家の久留米藩江戸上屋敷が三田(みた)にありましたし、三田藩のブレーンが三田(みた)に慶応義塾を創設する福沢諭吉というように、その後深く関係するようになった。
ややこしいなぁ。

 

いや~、ここに来るまで全く知りませんでした。
思わぬ収穫でした。

 

(おまけ)


毎度おなじみのマンホール。
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三田市のマスコット、きじのキッピーが描かれている。