(もどる)
現天守閣は昭和33年に建設された。
入り口から見下ろす。
ここから有料。
天守台の穴蔵には井戸があった。
説明板。
もう一つ。
天守閣から本丸・二の丸方面を見る。
出丸・大手門方面を見る。
西側、八幡台を見る。
行ってみる。
説明板。
天守台より一段高い。
北から見る。
高くなっているのが解かる。
(通常は立ち入り禁止区域)
天守台。
現天守閣は天守台に比べて小さいのが解かる。
建設当時の浜松市の予算の関係で小さい天守が建てられた。
天守台の大きさからすると、松江城並みの大きさだったとか。
石垣説明板。
それでも年月が立ち、何となく様になってきたような。
埋門から天守曲輪を出る。
埋門北側の石垣は所々崩れている。
埋門を下から見る。
埋門南側の屏風折れの石垣。
埋門下のトイレ。
歴代城主の家紋付き。
天守曲輪をぐるっと一周してみる。
南西隅。
南面。
立派な高石垣。
南東隅。
手前の石垣は本丸土塁を切断した後に積まれたものだろう。
東南出隅。
また天守門へ戻って来た。
振り返る。
石垣はさらに北へ。
北面は立ち入り禁止。
見れないので模型で見る。
今度は、天守曲輪の南にあった清水曲輪へ。
かつての様子を模型で見る。
天守曲輪の倍以上の曲輪だった。
どうもここも削られてしまったようだ。
この辺りに清水門があった。
そして、清水門から少し西へ行った辺りに銭櫓が建っていた。
清水門の南の土塁上に鎧掛松があった。
当時の土塁は無くなり、現在の鎧掛松は三代目。
説明板。
西へ行き、銭櫓の南には馬冷といわれる池があった。
鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬の体を冷やしたところと云う。
この池の北側に外端城門があった。
そして、その北に端城門があった。
清水曲輪の西にある西端城曲輪から端城門付近を見る。
地形も改変されて何も残っていない。
さらに西へ。
浜松美術館の西側に作左曲輪があった。
説明板。
本多作左衛門重次の屋敷があったことから名付けられた。
こちらが浜松城の搦手と云う。
この辺りは高い土塁や深い堀があるわけではありません。
浜松城の曲輪図を見ると、南と西は堀で囲まれているのですが、北と西の城域がどうもはっきりしません。
作佐曲輪の外側、姫街道沿いは屋敷街だったとも。
こちらからの攻撃は大丈夫だったのだろうか?
現在は立派な交番が守ってくれています。
最後に出丸へ行ってみる。
天守曲輪から見た出丸。
出丸には現在浜松市中央図書館の敷地となっています。
東の入り口に「浜松城出丸跡」の碑が建っています。
ここも空堀に囲まれていたというが全く痕跡が見つけられませんでした。
浜松城を後にする。
天守曲輪付近は100名城に入れてもいいくらいの遺構ですが、その他があまりにも改変されすぎていて想像力が全く湧かない、もったいない城でした。
よって、事前に浜松市役所内の教育委員会で本等を購入してから廻るとよいでしょう!
(本は大変充実した内容です。)
(おまけ)
家康の散歩道。
1番目が、徳川秀忠の誕生井。
遠鉄西鹿島線遠州病院駅の脇にある。
誕生井。
説明板。
本物は西約50mの所にあったという。
家康の散歩道で迷子になったら、街灯の最上にある羊歯印を辿るとよい。
車の街なので、横断歩道も無い交差点もあります。
上ばかり見て足元が疎かにならないように気をつけて下さい。