登城日 1回目 2004年 3月16日(火)晴
2回目 2008年 4月16日(水)曇 他
難易度 ☆
場所 浜松市中区元城町100-2
徳川家康が17年間居城とした出世城です。
【浜松城の概要】
浜松城は、三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。
家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。
母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。
家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。
有名な姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦もこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。
家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。
当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ヶ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一線に並び、梯郭式の築城法に属している。
その他作左曲輪、出丸等もあった。
この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴氏によって天守が築かれたといわれているが、家康のあとは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩政約260年の間に再任を含めて、25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大坂城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、なかでも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。
そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。
明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に新天守閣が再建された。
昭和34年6月18日浜松城跡は市の史跡に指定された。
(現地パンフレットより)
縄張図。
まずは、大手門から。
模型で見る。
この辺りに大手門があった。 大手門ビルの前に碑と説明板が建っています。 旧東海道を東へ。
ビオラ田町の西側付近に角櫓が建っていた。
説明板等はありません。 角櫓の跡は解りませんが、裏側を北へ向かって歩いて行くと、三の丸に沿って地形に段差が見られます。
石垣は往時の物かどうかは解りません。 石垣はさらに北へ続きます。
本丸の石垣とは違う積み方の石垣です。 三の丸を東西に貫通する市役所通り。 ビルの定礎板に、ここが下馬場だったと書いてありました。 三の丸に沿ってさらに北へ。 浜信本店の東側の坂付近に瓦門があった。 一筋北へ。
元目町には下垂口があった。
道路が往時を偲ばせます。
この北側が曳馬城です。 今度は二の丸へ向かいます。
瓦門へ戻り西へ進む。
大手通りの向こうに二の丸裏門があった。 市役所敷地の東側に二の丸の碑が建っています。 大手通りの碑。 この辺りに二の丸表門があり、御殿が現在の市役所駐車場と元城小学校にかけて建っていた。 二の丸御殿絵図。 説明板。
この辺りに榎門があった。
(市役所南の立体駐車場の中にも浜松城下の古図が掛かっていました。) 今度は本丸へ向かいます。
市役所の西側。
この付近に菱櫓があり、左側の現浜松城登城口付近に鉄門があったが、本丸は半分削られて公園の散策道
なってしまったりして往時を偲び難くなってしまいました。 鉄門の西側に多聞櫓があったと云うが、こちらも地形の改変で良く解りません。
鉄門も再建計画があるとか。
忠実に再建をお願いしたいものです。 本丸の様子。 本丸跡の碑。 説明板。 中央に若き日の徳川家康が立つ。
若くは見えないが… 本丸の北に富士見櫓が建っていた。 富士見櫓は再建予定。
復元予定図によると、こんな櫓だったらしい。 行ってみる。
富士見櫓跡。 発掘したら北側からも石垣が出てきた。 鯱瓦も出てきました。
早期再建が望まれます。 天守曲輪へ向かいます。 天守曲輪には立派な石垣が残っています。 これは、400年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。
登ったり石を引き抜くことは絶対にしないで下さい。
<浜松市> 天守門から入る。 ここも天守門を再建予定。
復元予想図。 天守門北側の石垣。 石垣上から天守門跡を見る。 ここからも鯱瓦などが出てきました。 天守門復元にあたり犠牲になった桜。
かわいそう… 天守閣の北側は立ち入り禁止。 今度は南へ。 天守曲輪の様子。 説明板。 土塁が廻る。 天守曲輪東側武者走上から天守門跡を見る。 反対側(南側)を見る。 天守曲輪南側武者走上から見る。 天守曲輪西側武者走上から見る。
この辺りは屏風折れ。 井戸。 説明板。 それでは天守閣へ向かいます。
(つづく)