曳馬城(遠江国) | 三日月の館

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登城日 1回目 2004年 3月16日(火)晴
      2回目 2009年 6月18日(木)曇
難易度 ☆
場所   静岡県浜松市中区元城町

 

築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。

斯波氏と今川氏が抗争すると、この地を支配していた大河内貞綱は斯波氏に味方するが今川氏に敗れた。

その後は今川氏親の配下・飯尾氏がこの地を支配することになる。

永正11年(1514)、飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が城主になったともいわれる。

乗連は今川氏に引き続き仕え、桶狭間の戦いにも参加する。

桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死すると、今川氏の衰退が始めるが、この時期に飯尾氏の当主も乗連から子の連竜へと移り変わる。

今川氏の衰退後、城主・飯尾連竜が今川氏真に反旗を翻すと、永禄8年(1565)には駿府軍に攻囲され多大な損害を被るが、陥落こそ免れた。

この時、駿府軍からの和議勧告を受諾した連竜は、戦後に今川氏再属の為、駿府への大赦御礼に出向いた。

ところが、和議とは謀略で、連竜は誘殺されてしまった。

以後の曳馬城は、連竜の未亡人・お田鶴の方を中心とした飯尾氏の残党によって守られた。

だが、徳川家康によってその弱体化を見透かされると、永禄11年(1568)の年末には攻略されてしまう。

城主を謀殺されて今川氏を頼みとしなくなった城内は、すでに徳川派と武田派に分裂しており、その徳川氏への内応者によって早期陥落したといわれる。

(wikipediaより) 

 

曳馬城跡は浜松城から国道152号線を挟んだ東側にあります。
東照宮が目印です。

 

浜松城天守閣から。

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国立公文書館にある遠州浜松城図より抜粋。
美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市)が、享保年間(1716-36)に書写させ、代々同藩に伝えられていた地図。
古城との表記があります。

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浜松城跡にある安政年間(1854-1859)の地図。
馬は曳くのは縁起が悪いので、引馬城に変わっています。

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浜松城天守閣にある模型。
米蔵が置かれていたようです。

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曳馬城遠景。
このあたりに明光寺口があったのでしょう。

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曳馬城本丸跡を西から見る。(前回のもの)
歩道橋から撮影しましたが、今は無いです。

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南から見る。
このあたりは屋敷が建っていたのでしょうか。

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本丸跡には東照宮が鎮座しています。

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曳馬城跡の碑。

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東照宮由緒書。

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東照宮へ参拝。
一段高くなっています。

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参拝している人は見かけませんでした。
虫が凄かったです。

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土塁でもあるかと思いましたが、解らなかったです。

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本丸跡から南を見下ろす。

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曳馬城の東側。
絵図にある道(空堀?)の跡ですかね?
日隈地蔵尊があります。

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日隈地蔵尊を北へ。
北東から見た曳馬城。
手前は外堀があったのでしょう。
その後、遠鉄奥山線が走っていましたが、今は道路になっています。

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玄黙口跡。

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浜松は、第二次世界大戦時に空襲で壊滅的な被害を受けてしまったので、街の様子がすっかり変ってしまって良く解らないです。
浜松城の本丸付近が残ったのは奇跡です。

 

(おまけ)

 

玄黙口から少し北東へ行ったところにある椿姫観音。

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観音前の碑。
元曳馬城主お田鶴の方を祀る。

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中の様子。

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本尊椿媛観音。

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説明。

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【椿姫観音由来記】

この御堂のは椿媛観音堂と言い御堂の中には、椿姫観音(お田鶴の方)が祭られています。
戦国時代、この地方は、今川家の領地として、飯尾豊前守乗竜(第4代引馬城主)が支配しておりましたが、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ戦死すると、今川家の力は、急速に衰え衰退が始まります。
今川義元から氏真に代が替わると、徳川家康は、今川家の弱体に目を付け、徳川家に味方するよう、何度も要請する。
城内は今川派、徳川派に分裂。
今川氏真は、飯尾豊前守乗竜が、徳川方に付いたとし、今川家に対する謀反だとして、引馬城に攻め込むが、容易に陥落しなかった。
そこで氏真は策を講じ和睦と見せかけ乗竜を駿府城に呼び出し暗殺する。永禄8年(1565)
浜松城に残されたのは、城主乗竜の嫡男義廣公、その母お田鶴の方(幼い義廣公の代わり第5代引馬城主となる。)であった。
又とない絶好の時、家康は、永禄11年(1568)引馬城に攻め込む。
引馬城は、小城ではあるが、地理的にみて、どうしても手に入れたい城である。
軍事力に勝る家康軍を相手に、大奮闘の兵、しかし武力に勝る家康軍の前には…
落城寸前のさなか、緋縅の鎧に白柄のなぎがた、丈なす黒髪に純白の鉢巻きのお田鶴の方、それを取り巻く、白鉢巻き、たすき掛け、刃を手にした18人の侍女、主君お田鶴の方を守り壮絶な戦い、引馬城の最後を飾る戦いであった。
この辺り一帯がその戦場となり力尽きたお田鶴の方は、侍女18名と共に戦死した。
女の身でありながら、あっ晴れな最後であり不憫である。
家康は、この地に、お田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り塚を築き、祠を建てました。
家康の正室築山御前も塚の周りに百本余りの椿の木を植え、供養を営みました。
椿は毎年、美しい花を咲かせ付近の人々は、この塚を椿姫塚(又はお台塚)と呼び追善供養を捧げました。
その場所が、ここより5mくらい西北、田の中の10坪余りの台地であったと言い伝えられています。
元亀元年(1570)徳川家康は岡崎城から遠江国引馬へ本拠地を移し城名・地名ともども「浜松」と改めた。
家康は17年間浜松に居城、天正14年(1586)本拠を浜松から駿府へ移した。
この御堂は昭和19年に建立しましたが、戦時中、浜松大空襲で焼落ち、昭和27年に再建したものである。
近年はお堂には、観音様を祭り、椿姫観音として、椿姫の御遺徳を偲び、冥福を祈り、元浜町の更なる発展と町民の平和な生活を願い、毎年11月23日には町内挙げて追悼供養をしています。

【浜松祭の起源】

この御堂に祭られている椿姫(引馬城主正室お田鶴の方)と引馬城主飯尾豊前守乗竜公の嫡男義廣公の誕生を、城主をはじめ城下の人々は一同にこれを祝い、特に入野村の佐橋甚五郎なる者が嫡男の名前”義廣”と書いた大凧をお城近くで揚げ、奉祝した。
これが基となり、この地方では、家で長男が誕生すると大凧を揚げ、町をあげてお祝いするようになった。
これが浜松祭の始まりと言われています。

椿姫観音堂史跡保存会

 

観音堂に「凧揚祭生の親」と書かれていました。

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毎年GW期間中に行われる浜松まつりの起源がこことは。