登城日 2011年 8月11日(木)晴
難易度 ☆
場所 京都市右京区西院乾町 他
上杉本洛中洛外図屏風に描かれた城です。
小泉城は京都盆地のほぼ中央にあったが、洛中唯一の戦国時代の城郭で、山陰道への出口にあたる丹波口の押えとして築城されたものと想われる。
天文15~18年の京都の景観を描いたものと推定されている『上杉本洛中洛外図屏風』に「さいのしろ」として当城が描写されているのが初見である。 続いて『言継日記』の同19年4月17日条に「細川右京兆人数、山中より未明出京す。西院小泉城へ取り懸りこれを責む」とあるように、三善長慶が細川晴元に対抗するため洛中の押さえとして新たに修築したものと推定される。
長慶は山城国人の被官小泉秀清を城将足利義輝の籠もる霊山城へ合流した。
しかし翌天文22年に入ると長慶と義輝とが不和になり、同年7月、義輝の軍勢は再び秀清の籠もる小泉城を包囲・攻撃した。
この時義輝は下京の町中から結橋を徴発して大規模な包囲網を敷いたが、攻め手の内藤彦七らの攻撃が遅れたため三好方の軍勢の後巻にあって義輝勢は敗退した。
このように結橋を攻撃手段に用いていることから、当時は相当な規模を有する環濠式平城の形態を採っていたと考えられる。
以後、長慶・久秀らの支配下に同じく小泉秀清が守っていたが、永禄9年(1566)7月、三好三人衆に攻め落とされ、秀清は大津に没落した。
陥落時の守備人員は200人とされている(『言継日記』同月13日条)
当城について、『山城名勝志』は「西院小泉城 土人曰く、西院村四条北側、総て土手、西三町許り藪あり。小泉城阯なり。少々堀の形残ると云々」と記し、『中古京師内外地図』では、四条宇多小路西北付近に描かれている。
しかし、現在は宅地化が激しく現存の遺構は確認しえない。
現在、西院春日社の南方にある艮・巽・乾・坤という町名はあるいは当城の四至に因んだものであろうか。
(日本城郭大系11より)
(財)京都市埋蔵文化財研究会のHPによると、西院乾町付近(933)にあったようだ。
最寄駅は阪急京都線西院駅。
西院駅の西、四条通と佐井通が交差する四条春日(佐井)の交差点。
ここから西に西院小泉城があったという。
四条通を西へ。
西院小泉城の中心付近。
城の痕跡は見当らなかったが、付近の町名に艮(北東・春日町に吸収)・巽(南東)・乾(北西)・坤(南西)があり、まるで当城の四隅を示しているかのよう。
養老田(よろた)川を渡る。
この川が西院小泉城の西限のようだ。
南限は綾小路通か。
東南隅を阪急京都線が通る。
(トンネル入り口に「天人併其功」の額が掛かる。)
この辺りは北矢掛町。
この町名も西院小泉城と関係あるのかな。
やっぱり、何も解らない西院小泉城でした。
(おまけ)
阪急京都線の西院駅は「さいいん」と読む。
一方、西大路四条の東に位置する嵐電の西院駅。
こちらは「さい」と読む。
駅名や地名につく西院は、平安時代にこの辺りに淳和天皇の離宮「淳和院」があり、別名を「西院」と呼ばれたことに由来する。
四条春日(佐井)の交差点の北東に位置する家電量販店Joshin。
この建物の西側、佐井通に面して説明板が貼られています。
淳和院は西院ともよばれ、現在の地名のもとになっている。
淳和院の位置は、四条大路(現在の四条通)の北、道祖大路(現在の佐井通)の東で、大正時代までこの北方にあった通称「飯の山(いいのやま)」が淳和院にあった池の中島であったという説に従えば、南北516m・東西252mの広大な敷地を占めていたことになる。
淳和天皇は、天長10年(833)に位を仁明天皇に譲り、上皇となって承和7年(840)になくなるまでこの院で過ごされた。
淳和天皇が亡くなった後、皇后正子がこの院を寺とし、以後は仏教道場として使用された。
「日本三代実録」によると、貞観16年(874)4月19日夜半、淳和院から出火、火の勢いは激しく、内裏(現在の千本丸太町の北方)にまで火の粉が飛んだと記されている。
その後、淳和院は再建されたが、規模や廃絶した時期については明らかではない。
当ビル建設前の平成4~5年にかけて発掘調査が行われ、南北17m・東西10mもある大規模な建物跡をはじめとする掘立柱建物跡群、四条大路や道祖大路の側溝、門跡などがみつかっている。
遺物としては平安時代の瓦が大量に出土したほか、土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器などの日常品や、中国から輸入された当時の貴重品である壷の破片などがある。
また銅の鋳物の滓、鋳型の破片、未製品の釘、家具などに使用する金具などが多数出土しており、付近には金物を製作する工房が存在した可能性もある。
今回の発掘調査によって淳和院の西南の一角が明らかとなり、平安時代前期の天皇家の後院を知る上で重要な成果を得ることができた。
発掘調査全景(北方より撮影)。
遺構平面実測図。
付近の町名は、西院西淳和院町。
西大路通を挟んで東側の町名は、西院東淳和院町。
西院春日神社境内には、淳和院の礎石が残る。
四条春日(佐井)の交差点の南側の地名は「西院松井町」。
淳和院内にあった別亭「松院」跡。
松院はその後松井寺となり、寺はいつしか廃寺。
地名のみが残った。
西大路四条交差点の北東。
四条通に面して高山寺がある。
ここも淳和院跡の一部。
山門前に碑が建つ。
反対側の寺名の石碑には「西院之河原旧跡」の文字。
境内の様子。
平安時代、この辺りは近くを流れていた佐比川の河原で、埋葬の地だったと云う。
「くろだにを はやたちいでて こうさんじ さいのかわらを まもるみほとけ」
境内には賽の河原を見守っていたであろう地蔵菩薩像がたくさんあった。
高山寺を後にする。
この寺の東側に秀吉によって造られた御土居があった。
京都の寺ですが拝観料が無料なので境内を覗く人はいるのですが、反対に寺僧が見当らなかったので、詳細は解りませんでした。
最後に…
「わにのにわ」
淳和院にあった庭ではありません。
定食屋のようです。