長建寺(京都市伏見区) | 三日月の館

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所在地  京都市伏見区東柳町511
山号   東光山
宗派   真言宗醍醐派
本尊   八臂弁財天
創建   元禄12年(1699)
開基   建部内匠頭政宇

 

京阪中書島駅から東へ約3分ほどのところにあります。

 

【長建寺について】
長建寺は、東光山と号し、真言宗醍醐派に属する。
八臂弁才天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られている。
元禄12年(1699)ときの伏見奉行建部内匠頭政宇が中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた。
弁才天は、音楽をもって衆生を救う女神で、福徳・知恵・財宝をもたらす七福神の一つとして多くの人々の信仰を集めている。
当寺で毎年7月第4日曜日の夜に行われる「弁天祭」は、かつては、淀川に御輿や篝船がくり出す舟渡御が盛大に行われていたが、淀川の河流が変わったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えている。
現在は、弁天祭と2月節分祭には、醍醐派修験道の最高の神髄として紫燈大護摩修行が行われており、正月には、現世利益を授かるため多くの参拝者で賑う。
また、古銭型のお守り「宝貝守り」は、江戸時代より今に伝えられている。
(現地説明板より)

 

珍しい山門。

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建築学上貴重な門だそうです。

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ジュディ・オングさんがこの山門を版画にして奉納しているそうです。

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山門を潜って右手にまた説明板がありました。

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長建寺古図。

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左手にはおみくじの元祖。
めずらしい形をしていますね。

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本堂。
中に八臂弁財天がいっらしゃるのだろう。
京都で御本尊が弁財天という寺はここしかないそうです。

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本堂手前には、先日伏見名水めぐりでご紹介した閼伽水がある。

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大きな手洗石は、即成就院から移したもの。

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カエルだそうです。
E.T.に見えますね。

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境内に中書島についての説明板がありました。

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【中書島とは】
中書島は秀吉が伏見城にいたころ部下の大名「賤ヶ岳の七本槍」で活躍した朝散太夫中務少輔「脇坂安治」の邸宅(現在地)があった。
中務を中国風に中書とするところから脇坂侯を敬称して「中書さん」と呼んだのが地名のおこりである。
脇坂家は播州龍野の城主維新まで380年も続いた。
ここ中書島は脇坂侯下屋敷と呼んでいる。
元禄7年(1694)まで存在したと伝えられている。
殿様屋敷にふさわしく松の大木が沢山繁っていたが昭和20年(1945)戦争で手入れが出来ず枯らしてしまった。
時は変わり元禄12年(1699)時の伏見奉行建部内匠頭政宇播州林田播窪山城主(現在の姫路市林田町)の手によって長建寺は建立された。
彼の政策はこの門から北、宝来橋、今福橋にかけて大歓楽地とした。
江戸幕府は伏見を直轄地とした。
特に建部奉行在任15年間正徳4年(1714)までは伏見は日本一の大都会であった。
現在の伏見の町並みはこの人のおかげである。
明治に入っても伏見は軍人さんの町として大正・昭和(昭和20年敗戦まで)大発展伏見市であった時代もある。
戦後当地出身の小説家西口克巳の小説「廓」がベストセラーになり日活映画「無法一代」で全国に紹介された。
立派な遊郭建築の建物もかなりあったが、今では解体されあとかたもなくなった。
ただ高浜虚子もこの土地の全盛時代の昭和の初めごろ訪れ一句残している。

 

なるほど、中書島は脇坂安治の屋敷跡が名の由来だったんですね。
長建寺の南側は、葭島矢倉町という町名でした。
櫓でも建っていたのでしょうか?

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長建寺の門前には宇治川派流が流れています。
伏見城の外堀の役目もしていました。

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ここは辧天浜という。

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かつては三十石船が行き来し、大変な賑わいだった。
また、長建寺周辺には中書島遊郭があったそうです。

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最後に御朱印?

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今日はお寺に誰も居ず、この紙が置いてありました。

 

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