赤松義村の墓 | 三日月の館

三日月の館

yahoo!ブログのアメブロ版です。

立よりて 影もうつさし 流ては 
 浮世を出る 谷川の水


室津で殺害された播磨・備前・美作守護赤松義村の墓は2ヶ所伝わる。

①常光寺

所在地  兵庫県加古川市神野町神野332-1
山号   天徳山
宗派   臨済宗妙心寺派
本尊   十一面観世音菩薩
創建   建武3年(1336)
開基   足利尊氏

 

境内の北にある五輪塔が赤松義村の云う。

 

JR加古川駅前から神姫バス甲南加古川病院行きバスに乗り、東神野バス停下車。
神野小学校の東に常安寺があります。

イメージ 1

立派な山門。

イメージ 2

方丈。
建武3年(1336)足利尊氏が開基したそうで、足利家の家紋が付いていた。
その後、慶安元年(1648)赤松氏の後裔である南室禅師を姫路の慶雲寺より招請し、中興開山の祖とした。
この時、山号を「平原山」から「天徳山」に改めた。

イメージ 3

そして、境内の北に五輪塔。

イメージ 4

五輪塔。

イメージ 5

説明板。

イメージ 6

置塩城主で室津で殺害された赤松義村の五輪塔が、何故この場所にあるかは不明。

②浄安寺

所在地  兵庫県姫路市夢前町又坂371-2
山号   不明
宗派   臨済宗妙心寺派
本尊   不明
創建   不明
開基   不明

 

置塩城の西、城郭のような石垣を持った寺院の一画に供養塔がある。

 

JR姫路駅前から神姫バス前之庄方面行きに乗り。又坂バス停下車。
バス停からちょっと西へ歩く。
置塩城を仰ぎ見る。
ここまで遥々来たのに登らないのは何となく勿体ない…

イメージ 7

石垣が聳える浄安寺。

イメージ 8

本堂。

イメージ 9

そして、境内の一画に伝・赤松義村の供養塔がある。

イメージ 10

説明板。

イメージ 11
【浄安寺宝篋印塔(伝・赤松義村供養塔)】

赤松義村は室町時代の播磨・備前・美作の守護で置塩城二代目城主。
赤松七条政資の子。
正室は赤松政則の娘。
政則の養子となり明応5年(1496)、惣領家を相続した。
幼少期は管領細川家の出身で先代政則室であった洞松院が後見として朱印状を発行し領国を支配した。
室町幕府内部で足利義材・義澄の抗争が起きると義澄を支持し、この遺児(後の義晴)を置塩に迎えて保護・養育した。
永正14年(1517)頃になると守護権力の強化に努めたが、この動きが重臣浦上村宗の反発を招いた。
永正16年、義村は村宗を三石城(岡山県備前市)に攻めたが敗北。
その後も村宗に敗北を重ね、翌年嫡子道祖松丸(後の晴政)を引渡し隠居した。
永正18年、再び挙兵したが捕らえられ室津(たつの市)に幽閉された。
同年9月17日夜、村宗の刺客に襲われ壮絶な最期を遂げた。
なお、義村は和歌に堪能で歌人冷泉為広とも親交があった。
また「播磨十水」を定めたとされる。
この宝篋印塔の基礎に「永正十五年戌寅十二月二十八日 月渓祥光大居士」の銘あり、義村の院号が「祥光院」であることから供養塔とみられる。
「永正十五年」の年紀は建立時の没年説に基づいているのであろうか。

平成19年7月
浄安寺

 

供養塔。

イメージ 12

基礎に何か書いてあるが、読めない。

イメージ 13

最後にもう一回供養塔を見る。

イメージ 14

場所的にはこちらの方が妥当性があるように思われるが、永正15年(1518)は、浦上村宗が三石城へ退去してしまった頃。
没年と少し乖離がある。


この供養塔が建立されたのは、だいぶ後なのかもしれない。

家督は遺児の才末丸(道祖松丸?、のちの赤松晴政)が継ぎ、守護家としての赤松氏の名目上の存続は許されたが、赤松家はこののち衰退の一途をたどることになる。