所在地 京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595
山号 大椿山
宗派 臨済宗建仁寺派
本尊 薬師如来
創建 伝・延暦年間(782~805)
開基 伝・慶俊僧都
赤松政則ゆかりの寺 |
この世とあの世の境にある寺です。
大椿山(たいちんざん)と号する建仁寺の塔頭で「六道さん」として親しまれている。
この付近は、かつて死者を鳥辺野(東山区南部の阿弥陀ヶ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地)へ葬送する際の野辺送りの場所で、「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。
六道とは、仏教で、すべての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁が冥土へ通った入口であったという伝説が残されている。
創建についての詳細は明らかではないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。
室町前期の正平年間(1346-70)に建仁寺の僧、良聡によって再興され、臨済宗に改められた。
薬師堂に本尊の木造薬師如来坐像(重要文化財)を安置し、閻魔堂に小野篁の作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁像が祀られている。
毎年8月7日から10日までの4日間は「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を撞く参拝者でにぎわう。
京都市
JR京都駅から市バスに乗って清水道バス停下車。
東大路通と八坂通が交わる交差点に「←六道まいり 六道珍皇寺」と書いてあるのですが…
八坂道を行くと、開いていない北門へ行ってしまう。
よって、一筋南の清水道交差点を西へ。
清水道の北側に山門があります。
(ややこしい…)
愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや
実に恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを
(謡曲「熊野(ゆや)清水詣」より)
山門前には「六道の辻」の碑。
この世とあの世の境(接点)の辻が、古来よりこのあたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。
遣隋使を務めた小野妹子の末裔である平安時代の公卿、小野篁(たかむら)が夜毎冥府通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたとの伝説が残る。
山門を入って右側に薬師堂。
国の重要文化財である木造薬師如来坐像を安置。
(通常非公開)
隣りが閻魔堂(篁堂)。
右側に等身大の小野篁立像(江戸時代作)。
「わたの原 八十志摩かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」
(小倉百人一首より)
左側に閻魔大王坐像(小野篁作)。
さらに北隣りに迎え鐘。
この鐘は当寺の開基である慶俊僧都が造らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くにあたり、この鐘を3年のあいだ地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ったが、留守を守る寺僧は待ちきれず、1年半ばかりたって掘り出して鐘をついたところ、はるかに唐国にある僧都のところまで聞こえたので、僧都は「あの鐘は3年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして6時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」といって大変残念がったという。
奥に東門。
外側から見る。
迎え鐘の反対側に水子地蔵尊。
正面に本堂。
本堂東側の庭。
庭に小野篁が冥府への入口として使っていたという井戸がある。
(出口は大覚寺門前にある)
本堂裏の北門への道。
本堂内部の様子。
本堂には、寺宝珍皇寺参詣曼陀羅図がある。
そして…
右側は、赤松政則自筆の扁額「大昌院」。
左側は、江戸時代に日光奉行赤松信濃守則泰が先祖の供養として奉納した刀「上総介藤原兼重」。
ともに寺宝なので撮影はここまで。
赤松政則と六道珍皇寺との関係は父時勝に遡る。
嘉吉の乱で赤松家が一旦滅亡した折、赤松満祐の甥時勝が建仁寺の塔頭大昌院のもとに預けられ出家を遂げたことにより一命をとり止めた。
その後、赤松家を再興した赤松政則が父時勝の17回忌を大昌院で営み、応仁・文明の乱で荒廃していた大昌院を再興するとともに、自ら額字を書いたと云う。
その後、明治7年に六道珍皇寺が大昌院に吸収され、同26年に大昌院が六道珍皇寺へ名を戻し、寺宝として現在に伝わる。
これら寺宝は通常非公開ですが、極たまに見ることが出来ます。
さて、毎年8月7日から10日までの4日間「六道まいり」が行われる。
山門前の清水道は歩行者天国となる。
屋台で賑わう。
山門から入る。
通常非公開の木造薬師如来坐像を拝む。
参詣順序に従い進みます。
高野槙を買う。
水塔婆に戒名を書いてもらい、
迎え鐘を撞く。
綱を引いて鳴らすのが特徴です。
水塔婆を線香で清め、
地蔵尊霊前にて水回向の後その場に納めて置く。
ついでに隣りに置いてある通常非公開の寺宝「熊野観心十界図」を見る。
本堂前の「三界萬霊供養塔」。
その裏は群霊塔。
東門から出る。
最後に御朱印。
「六道さん」の名で親しまれる六道珍皇寺でした。
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