六波羅(京都市東山区) | 三日月の館

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場所 京都市東山区松原通大和大路東入る轆轤町

 

平家一門の屋敷があった所です。

 

【六波羅】 

六波羅(ろくはら)は京都市東山区松原通付近。

鴨川の東岸、五条と七条の間の地で、現在は空也上人開山の六波羅蜜寺がある。 

平安時代以来の歴史上の要地。 

平正盛がここに邸宅六波羅殿(亭)を創設し、孫の清盛が、初め方一町ほどであったものを20余町までに造作して、平家一門が居住した。 

このため、平氏政権のことを六波羅政権とよぶ。 

鎌倉時代になると源頼朝がここに京都の邸宅をつくった。 

承久の乱(1221)後は南北の六波羅探題を設置して、京都政界の監視、西国の訴訟事務などの政務を執行する幕府の一大分身機関とした。 

また、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏が陣を構え、旧探題の職員をはじめ多くの御家人を吸収した地ともなった。 

なお、六波羅密寺内に六波羅探題府址の石碑がある。 

(Yahoo!百科事典より)

 

旧洛東中学校跡地に今年開校した東山開睛館。
公立の小中一貫校。

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この付近に平氏一門の屋敷である六波羅第と鎌倉時代には六波羅探題があった。
付近の地図。

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地名に名残が見られる。
東山開睛館があるのが多門町。
六波羅邸の東に向かって開かれた惣門があったことに由来。

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門脇町。
惣門の脇に平教盛邸の門脇殿があったことに由来。

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その北にある三盛町。
旧町名を泉殿町といい、平清盛の泉殿があったことに由来。

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門脇町・三盛町の西にあるのが池殿町。
平清盛の継母である池禅尼が暮らし、平頼盛が引き継いだ邸宅があったことに由来。
平清盛の娘徳子が安徳天皇を出産したのはこの邸宅と云う。

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さらに西へ。
北御門町。

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西御門町。

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ともに泉殿の北門と西門があったことに由来。
弓矢町は工人たちが兵器を製造していた場所に由来。

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地名以外には、建仁寺に平教盛の館門(平重盛の館門とも)だったと伝わる勅使門がある。
国の重要文化財。

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また、旧洛東中学校の校門脇に「平氏六波羅第・六波羅探題府址」の碑が建っていた。
しかし、校舎再建の為一旦撤去。
平成23年4月に東山開睛館として開校と共に校門脇に再度建てられた。

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と、思ったら、数ヶ月後には六波羅密寺へ。

 

所在地  京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町
山号   補陀洛山
宗派   真言宗智山派
本尊   十一面観音(国宝)
創建   天暦5年(951)
開基   空也

 

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今は、境内入り口脇に移設されている。

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説明板。

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【六波羅密寺】

天暦5年(951)、疾病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第17番所札所として古くから信仰を集めている。
空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。
空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。
往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。
宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛坐像、長快作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶坐像も所蔵している。
年中行事として、正月三が日の皇服茶、8月の萬燈会、かくれ念仏として知られる12月の空也踊躍念仏(国の重要無形民俗文化財)が有名である。

京都市

 

本尊十一面観音像は国宝。
12年に1回、辰年に御開帳される。
ということは来年かな?

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教科書でおなじみの空也上人像(国の重要文化財)や、

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平清盛像(国の重要文化財)が宝物館にある。

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境内にある阿古屋塚。

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説明板。

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そして隣は平清盛の塚。
平清盛の墓所は、この他に神戸市兵庫区の能福寺と清盛塚、京都市北区の祇王寺、山口県下関市彦島の清盛塚が伝わる。
平成20年(2008)の様子。

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平成22年(2010)の様子。
屋根がつきました。

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来年はもっと賑やかになりそう。
夏には萬燈会が行われる。

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境内の大文字。

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迎鐘。

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我が国最初の地下の大つりがねだそうです。

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日本最古の都七福神の一つ福寿弁財天。

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現在の六波羅密寺の境内は大変狭いが、廃仏毀釈前の江戸時代までは大伽藍であったと云う。
平成23年(2011)8月20日には、西隣の元六原小学校の発掘調査現場で現地説明会が行われました。

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説明会の様子。
専門的であまりよく解らなかったが、六波羅密寺の北限を示す遺構が出てきたようだった。

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遺構平面概略図。

堀が検出。
堀は薬研堀だったそうです。
城郭寺院みたい。

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築地や門跡も検出。

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飛鳥時代、平安時代から、

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室町時代のものが多数出土。

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寺域の北限は元六原小と西福寺の境辺りであったようだ。

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もう聞くことが出来ないであろう六原小学校の校歌。

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さて、この六波羅という地名は、仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するとか。
六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行をいい、波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることだそうです。
最後に御朱印。

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また、この六波羅密寺付近の町名は轆轤町。

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ここから東は、かつては鳥辺野と呼ばれる葬送の地だったので髑髏(どくろ)が沢山転がっていたことから髑髏原と呼ばれるようになり、やがて六波羅や六原に変わったとも。

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今ではそんなことはとても想像出来ない六波羅でした。

 

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