平清盛が夢見た国際貿易都市福原京の港です。
清盛ゆかりのまち兵庫。
「兵庫津の道」としてPR中。
兵庫の町は、平安時代の昔から、良好な港のある町として知られていました。
平清盛の時代には、中国・宋との貿易の拠点として港の大修築工事が行われ、福原には一時都が置かれたこともあります。
後に兵庫の町は兵庫津と呼ばれるようになり、海陸要衝の地として発展していくことになります。
室町時代には中国・明との貿易、江戸時代には瀬戸内海有数の港町として大いににぎわいました。
「兵庫津の道」はこのような歴史を持つ兵庫区南部地域の史跡を結ぶ道路の愛称として一般公募の中から選ばれました。
町のいたるところに案内板が設置してある。
まず、永沢町にある厳島神社へ。
当神社は、治承4年(1180)に平清盛公によって福原遷都、兵庫築港の行なわれた時、兵庫の町や港の発展と住民の繁栄を祈願し平家一門の氏神として深く崇敬している安芸の国、厳島神社を此の所に勧請したものと云う。
ここは清盛七福神の一つ「お洒落辯天」
社殿。
南東へ進み、阪神高速3号神戸線の高架の南に鎮座する七宮神社へ。
港神戸の八守護神のうちの一つ。
社殿。
平清盛が経ヶ島築造の工事を進めるにあたり、暴風雨でなかなか進まないのを不審に思い、調べたところ、築造に必要な土砂を取っていた塩槌山に住む神が怒って暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し祀ったところ、無事築造できたと云われている。
南下した所にある築島来迎寺。
境内に松王丸供養塔と妓王と妓女の墓がある。
説明板。
二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であるとの確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし、潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは竜神の怒りである。30人の人柱と一切経を書写した石を沈めると成就するであろう」と言上した。
そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕えさせたが、肉親の悲歎は大きかった。
このとき、清盛の侍童で香川の城主、田井民部氏の嫡男松王17歳が「人柱のことは罪が深い。わたしひとりを身代わりに沈めて下さい」と申し出た。
応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築島造営は完成した。
現在の神戸港の生い立ちである。
天皇は大いに感動されて、松王の菩提を永く弔うため当寺を建立し、念仏の道場とされた。
【妓王妓女の塔】
妓王と妓女は姉妹でともに京堀川の白拍子であった。
清盛の寵愛を得て優雅な日を送っていたが、清盛の心が仏御前に傾くに及び世の無常を歎き、嵯峨野に庵(いまの妓王寺)を結び仏門に入った。
その後、平家が壇の浦で破れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(当寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。
神戸の発展の犠牲となった松王丸くん。
来迎寺の西、新川沿いに古代大輪田泊の石椋が移設保存されている。
説明板。
この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。
大輪田の泊は、平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、中央政府から派遣された造大輪田船瀬(泊)使が泊の造営や修築にあたり、修築後は国司が運営管理を行っていた様子が記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。
平成17年3月
神戸市教育委員会 兵庫区役所
平清盛の頃の兵庫津は『大輪田泊』と呼ばれていた。
石椋は港湾施設の一つらしい。
石椋はさらに南で発見された。
古代大輪田泊の石椋の南、新川に架かる入江橋に清盛くんがいる。
平安時代には平清盛によって経が島建設などの大修築工事が行われ、日宋貿易の拠点となりました。
その後、大輪田泊は兵庫津と呼ばれ勘合貿易(明)の中心舞台として国内で第一の港として賑わい、そして、明治元年には兵庫港が開港され、今日の神戸港発展の基礎となりました。
「清盛がいなければ現在の兵庫の発展はなかった」と、平清盛を地域のシンボルとしてPRすることを決め、平成17年に清盛像(きよもりくん)を制作し、ここ入江橋の傍らに設置しました。
入江橋から西へ行き能福寺へ。
戦前まで日本三大大仏の一つであった兵庫大仏が復元されている。
瀧善三郎正信の碑。
幕末に武士道を貫いた人らしい。
そして、境内には平清盛の墓と伝わる平相國廟がある。
説明板。
能福寺を出て南下。
和田の笠松。
時宗を開いた一遍上人の墓がある真光寺。
さらに南下すると、清盛塚がある。
説明板。
かつてはここも清盛の墓ではないかと言われていた。
琵琶塚を併設。
平清盛像。
清盛橋を渡ってさらに南下し薬仙寺へ。
後醍醐天皇御薬水・薬師出現古跡湧水。
説明板。
境内に萱の御所跡の碑が建つ。
平清盛が後白河法皇を幽閉した場所で、元はこの場所から北東約100mのところに建っていたが、運河開削で水没したことによりこの地へ移設された。
大輪田橋を見る。
最後に大輪田橋から兵庫津を見る。
以上、見所たくさんで紹介しきれない兵庫津でした。