京都守護職上屋敷跡(京都市上京区) | 三日月の館

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場所 京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町1

 

京都守護職の上屋敷が、現在の京都府庁の地にありました。

 

【京都守護職】 

幕末期の江戸幕府の職名。 

安政元年(1854)ペリー来航に対応して、外国勢力と京都朝廷との直接交渉を断つため、彦根藩主井伊直弼を京都守護の名目で上京させたのが先例であるが、万延元年(1860)直弼が暗殺され彦根藩の地位が低下した。 

一方京都の政情不安が増大すると、幕府は京都守護職を制度化し、会津藩主松平容保を文久2年(1862)これに任じた。 

朝廷や諸大名の監視、京都の治安取締りを主たる任務としたが、新選組を配下とし、治安出動の名目で流血の恐怖政治を展開した。 

元治元年(1864)の第一次長州征伐のとき越前福井藩主松平慶永にかわったが、まもなく松平容保が復帰し、王政復古まで続いた。 

役料5万石。 

(Yahoo!百科事典より)

 

京都守護職に任ぜられた会津藩主松平容保は、京都市左京区にある黒谷金戒光明寺内を本陣とした。

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京都守護職は、京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、京都の治安維持に当たった。
しかし、京都所司代・京都町奉行はあまり役に立たなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。
ゆえに黒谷は新選組発祥の地でもあります。

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文久3年(1863)に、現在の京都府庁・第二日赤病院・梅屋校におよぶ広大な敷地を買収し、上屋敷を建設した。

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入り口の橋。
堀跡でしょうか。

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入り口の脇に石碑が建っています。

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説明板。

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【京都守護職上屋敷跡】

幕末京都の警備を命じられた京都守護職は、市中に数ヶ所の広大な屋敷を構えました。
現在の府庁にあたる敷地もその1つで、この敷地は「上屋敷」跡にあたり、度重なる増改築を経て慶応元年(1865)に完成しました。
規模は現在の敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったと言われています。

京都府

 

当時の屋敷は残っていませんが、門が2つ市内に移築現存しています。
まず、正門。
二条城前の京都国際ホテル裏にひっそりと建っています。

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もうひとつが、平安神宮に。

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応天門を西へ少し行った駐車場の所にこちらもひっそりと建っていました。

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京都守護職は、慶応4年(1868)12月新政府によって廃止された。

 

(おまけ)

 

その後、京都守護職上屋敷跡には京都府庁が建てられました。
(玄関正面の木は容保桜)

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建物は国の重要文化財に指定されています。

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玄関を入ると、府庁舎の1世紀が説明されています。

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府庁舎建設『前史』

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_59423322_82?1274612624_

「京都府中学校」から府庁舎へ

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_59423322_83?1274612624_

その後の府庁舎

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_59423322_84?1274612624_

明治の府庁舎

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_59423322_85?1274612624_

京都府中学校から府庁舎へ

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_59423322_86?1274612624_

府庁舎正面。

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府庁舎側面。

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屋根飾り。

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1階の廊下。

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2階の知事室。

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ここで、歴代の知事が執務をしていた。

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知事室の手前は食堂。

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貴重な建物だとは知らなかったです。

 

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