所在地 京都市東山区泉湧寺山内町28
山号 光明山
宗派 真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建 寛治元年(1087)
開基 橘俊綱
先日ご紹介した戒光寺本堂と墓地の間に何故か即成院という泉湧寺の塔頭が挟まっています。
泉湧寺の大きな総門の脇に山門があります。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/b9/37/j/o0400030014659894061.jpg?caw=800)
説明板。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/f4/e5/j/o0400030014659894066.jpg?caw=800)
山号を光明山とする真言宗泉湧寺派の寺である。
寺伝によれば、正暦3年(992)、恵心僧都(源信)により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とする。
寛治年間(1087~1094)に橘俊綱(藤原頼通の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍らに移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれていた。
宇治川を挟んで向かい側には父、藤原頼通の宇治殿改め平等院が建っており、父子相呼応するような寺院建立の経緯である。
文禄3年(1594)、豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治時代に至って泉湧寺山内に再興され、即成院と呼ばれるようになった。
本堂には、仏像群としての形式は極めて珍しい阿弥陀如来像並びに二十五菩薩像(重要文化財)が安置され、境内には平安時代の武将であり、弓の名手であった那須与一の墓と伝えられる石造宝塔がある。
寺伝によれば、与一は出陣する途中、病に罹ったが当院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦い(源平の戦い)で戦功をたてたので、仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられている。
京都市
山門を入ったところにある地蔵堂。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/a7/90/j/o0400030014659894072.jpg?caw=800)
向かい側にある手水舎。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/82/52/j/o0400030014659894076.jpg?caw=800)
与一の手洗い所と云う。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/e9/a2/j/o0400030014659894082.jpg?caw=800)
本堂。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/c6/97/j/o0400030014659894090.jpg?caw=800)
重要文化財の木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像が安置されている。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/71/34/j/o0400030014659894099.jpg?caw=800)
そして、本堂の裏手に那須与一の墓所があります。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/55/14/j/o0400030014659894104.jpg?caw=800)
那須与一の墓と伝えられる石造宝塔。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/ba/03/j/o0400030014659894111.jpg?caw=800)
石造宝塔を拡大。
寺の移転とともに移ってきたとか…
重たかったことでしょう。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/48/07/j/o0400030014659894116.jpg?caw=800)
以前、黒羽城を訪ねた時に、那須与一ゆかりの地を知りましたが、墓所は京都にあったとは知りませんでした。
最後に御朱印。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/2f/ab/j/o0300040014659894126.jpg?caw=800)
このお寺も、今は泉湧寺の塔頭の一つに過ぎない寺ですが、勿体ない程の歴史を持ったお寺でした。
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