130 諏訪高島城 その1(信濃国) | 三日月の館

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登城日 1回目 1993年 秋
      2回目 2003年 4月20日(日)晴
      3回目 2003年 9月28日(日)晴
難易度 ☆
場所   諏訪市高島1-20-1

 

中世、諏訪氏は現市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。 

諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、天正18年(1590)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。 

高吉は、文禄元年(1592)から慶長3年(1593)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。 

その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。 

高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。 

慶長6年(1601)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。 

再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。 

江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。

天明6年(1786)に石垣などが補修されている。 

寛永3年(1626)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。

南の丸を増設し、監禁場所とした。 

以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。 

明治4年(1871)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。 

明治8年(1875)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、明治9年(1876)高島公園として一般に開放され、明治33年(1900)に諏訪護國神社が建てられる。 

現在は二の丸、三の丸が宅地となり、昭和45年(1970)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

 (wikipediaより) 

 

諏訪高島城へは、JR中央本線上諏訪駅から南へ約10分歩いて行くと着きます。

 

三の丸橋や中門橋のような名称が残るものの、二の丸、三の丸は宅地化されて良く解りませんでした。
本丸には石垣と堀が残っています。
再建された天守閣。(写真は前回のもの)
天守は独立式望楼型3重5階で、初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられた。
各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺であった。
現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館となっている。
日没後に撮影したので、ちょっと画像に加工を入れています。
この日は桜が満開で、花見客がたくさんいました。

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天守を別角度から。
遠目から見るとなかなかいいんですが…

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本丸西側は堀が埋まっていて、違和感がある。
天守台石垣は立派。

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冠木門から本丸へ入城。

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冠木門を裏から。

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いざ、天守閣へ。
近くで見ると、木だと思った部分は木製では無い様子。
かなり残念。

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天守から北を見る。
正面の山が茶臼山でしょうか。

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西を見る。
かつては諏訪湖に浮かぶ浮城であったが、諏訪湖岸は大分西に移動している。

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本丸を見る。

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本丸北側の堀を見る。
北東隅には隅櫓が復元されている。

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冠木門橋から見た天守閣。

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本丸から見た隅櫓。

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隅櫓を北から。

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本丸堀は東側にも残っています。

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三の丸の門が市内に現存しているそうです。
天守閣はもっと忠実に復元してほしい。
本丸周辺の堀も復元してほしい。
そうしたら、また行ってみたい城になることでしょう。