久昌院(京都市東山区) | 三日月の館

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所在地  京都市東山区大和大路四条下ル4丁目小松町597
山号   -
宗派   臨済宗建仁寺派
本尊   -
創建   慶長13年(1608)
開基   三江紹益

 

赤松円心の眠る寺

 

京阪祇園四条駅の東南に臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺があります。
その一画に、塔頭の一つである久昌院があります。
境内見取図。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_28?1348408765_
久昌院は、奥平信昌・松平忠明が、三江紹益(さんこうしょうえき、1572−1650年)を開基として創建した。
慶長年中に高松軒を合した。
奥平家の菩提寺である。
久昌院とは奥平信昌の戒名である。
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瓦には左三つ巴の模様が。
赤松家の家紋かと思ったが、防火の意味であり、考えすぎだそうです。
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中を覗いてみる。
久昌院は非公開です。
 
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今回、特別に中へ入ることが出来ました。
住職はご高齢であり、一般公開にはとても対応出来ないとのことです。
従いまして、このブログで拝観していただきたいと思います。

 

と、言いましてもいろいろご説明を聞いているうちに時間が過ぎ、僅か数枚しか撮れませんでした。
門の横には鐘がありました。
この鐘が創建当時より伝わるものらしく、戦時中の供出命令も拒み現存する貴重なものだそうです。
この鐘に対して京都市から財政支援があり、この久昌院の維持管理費になっているそうです。
(写真撮り忘れました。鐘は門から覗けば見えそうです。)
鐘の横にお庭への入口があります。
お庭に入ると方丈が見えました。
さすがに、中までは入れませんでした。
この中に、浮田一蕙の書いた「長篠合戦障壁画」があるのでしょう。

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別角度。
きれいなお庭に足を踏み入れる場所が無く、近場からの撮影となってしまいました。
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久昌院の庭。
松で少し隠れていますが、東山を借景としています。
財政難で庭が無くなったり、庭が狭くなったため建物と池の間が接近してしまう寺が多い中、このような庭を維持できたことは素晴らしいとのこと。
苔は自然に生えており、水を撒いたりしていないとのこと。
お庭の手入れこまめに行っている結果だそうです。
二段の生垣の右側が高くなっているのは、NTTのビルが出来たため、隠すためにしたそうです。
(まったく!)
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さて、庭の奥には墓地があります。
奥平信昌夫妻の霊屋。
周囲には鳥居家の人々のお墓があります。
長篠の合戦での鳥居強右衛門の活躍が、奥平家の興隆の一因となったことから、その後も鳥居家の人々は重用されたとのことです。
建仁寺の方丈の裏には、関ヶ原の戦い後に捕縛した安国寺恵瓊の首塚があり、同じ建仁寺の境内に敵味方が眠るとは、何とも因果なことですね。
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そして、いよいよ…

 

赤松円心の墓

 

です。
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もともと、赤松家の菩提寺であった建仁寺の塔頭の一つである大昌院にあったそうですが、大昌院は廃れ、残った末寺の六道珍皇寺付近に無残な姿で転がっていたものを、同じ赤松一族という縁から奥平家の菩提寺であるこの寺に移されたという。
隣には雪村友梅の墓があります。
雪村友梅は、五山文学の最盛期にあって中枢となった僧である。
赤松円心と縁が深く、西播磨の赤松村にある赤松氏の菩提寺法雲寺の開山として招かれた。
その後、建仁寺の住職となったが、中風を患い、最後には遺偈を左手で書こうとしたが、うまく字にならず、怒って筆を投げつけ、周囲が墨だらけになる中、示寂したという。
お墓は崩れていたため、富岡鉄斎が修復した。
真ん中に字が書いてあるが、富岡鉄斎が書いたものという。
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横にあるお墓は、手前が上村観光の墓。奥が円心の墓を移した当時の住職の墓(名前は忘れました)。
上村観光(うえむらかんこうorかみむらかんこう、1873- 1926年)は文学者で、学会で何か争いがあったらしく、著書はほとんど無くなっており、寂しくここに眠っているという。
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以上の内容については、ご説明いただきました内容を記述したものです。
こんなに丁寧に説明を受けるとは思っていなかったので、メモの用意もせず無我夢中で説明を聞きいってしまい、お参りもせず(もちろん賽銭さえもせず)に帰ってきてしまった。
非常に後悔しました。
住職が尾張の出身だからか、敷地内に豊川稲荷が祭ってありました。
戦前には敷地内に借家が建ち並んでいたため、ここまで整備するのにご苦労をされたそうです。
また、塔頭の住職が持ち回りで一年間、建仁寺を開山した栄西禅師の墓所(開山堂のことかな?)で、早朝等にお経を読まなければならないそうで、それが高齢である住職にとっては大変とのこと。
お坊さんは人不足なのでしょうか?
いつまでも、久昌院が変らぬことを望みます。