ラーメン麺対軒さんでお昼をいただいた後、四条堀川から9号系統の市バスに乗り元離宮二条城へ。歩いて行けない距離ではありませんが、寒さ対策として出来るだけ公共交通機関を利用する作戦です。(笑)
事前にWebチケットを購入していたので券売所には並ばず、スタッフさんにQRコードを掲示しそのまま入城します。

<二条城の東大手門(重要文化財)>
二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城。
京都の町割りは平安時代から今日に至るまで碁盤の目状に配置されていますが、二条城はこの碁盤の目から東に3度ほど傾いています。

<グーグルマップより>
これは平安京が北極星の位置を目印に北を定めたのに対し(真北(しんほく):現在の地図が示す北と同じ)、徳川家康は当時西洋から伝わったばかりの方位磁石を使ったからだとか。(方位磁石のN極が示す方角は、観測地点や時代によって変化するらしい)家康殿はハイカラさんだったのですね。
3代将軍家光のとき後水尾天皇の行幸(寛永行幸)のため大規模な改修が行われ、二の丸と本丸から成る現在の形に。壮麗な城に天皇を迎えるという、この江戸時代最大級のイベントは、徳川幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめました。

<今年は寛永行幸から400年という節目の年>
1867年(慶応3年)15代将軍慶喜が二の丸御殿で大政奉還の意を示したことにより、約260年続いた徳川幕府は幕を閉じるわけですが、徳川家の栄枯盛衰と日本の移り変わりを見守ってきた二条城は貴重な歴史遺構として、世界遺産にも登録されています。

<東南隅櫓(重要文化財)>
二条城の外堀四角には見張り台として隅櫓が建てられ、普段は武器庫として使われた。1788年(天明8年)の大火で多くの櫓が焼失し、今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の2つが残るのみ。
東大手門より順路に従い唐門に。

<二の丸御殿の正門にあたる唐門(重要文化財)>
妻造、檜皮葺の四脚門。屋根の前後には唐破風が付き、長寿を意味する松竹梅に鶴、聖域を守護する唐獅子など豪華絢爛な極彩色の彫刻があしらわれています。
これまで画像や動画で何度も見ているけど、目の当たりにするとなんと豪奢な!
いつまでも見ていられる・・・

<唐門近影>
唐門の正面には二の丸御殿が。

<二の丸御殿(国宝)>
本来なら見学して進むところですが、時刻は午後2時。午後2時半に本丸御殿観覧の予約を入れているので、こちらは後で見学することにします。

<釣鐘>
京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。(京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関)この鐘は慶応3年(1867年)京都所司代が廃止された後二条城に移されたと考えられている。
二の丸御殿に沿って西に周ると美しい庭園が広がります。

<二の丸庭園>
池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園。後水尾天皇行幸のため作事奉行・小堀遠州のもと改修されたというお庭はどこから見ても美しく、「どの位置から見るのが正しいんだろう?」と迷いましたが、二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿(行幸の後撤去)の3方向から鑑賞できるよう工夫されているそうなので、どこから見ても正解なのかもしれません。(←適当)
お庭の一角にはソテツが植えられています。

<防寒のためこも巻きが施されたソテツ>
後水尾天皇の行幸に先駆け、鍋島藩(佐賀県)の藩主・鍋島勝茂が3代将軍家光にソテツを贈ったという記録があるそうで、当時珍しい南方の植物を植えることはある意味権力の象徴だったのでしょうね。
二の丸庭園を進み、東橋を渡って本丸櫓門へ。これより先が本丸、後水尾天皇行幸の際拡張整備されたエリアです。

<本丸櫓門(重要文化財)>
1626年(寛永3年)徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、1778年(天明8年)に起きた天明の大火で唯一焼け残った遺構。
二条城は平定後に造られたので、城壁はさほど高くなく、戦のための城でないことは明らかですが、天守閣へは真っすぐ進めないよう石垣が配置されていたり、

<本丸内の石垣>
上から攻撃できるよう雁木石段が設けられていたりと、そこはやはりお城なんだなぁと思いました。

<雁木石段>
本丸庭園を見ながら進み、南西隅にある天守閣跡に。

<天守閣跡(西橋から見る)>
かつて伏見城から移された五重六階の天守閣があったそうですが1750年(寛延3年)落雷で焼失。その後再建されることなく、今は石垣が残るのみです。しかしそこから見る景色は壮観で―

<天守閣跡からの眺望(お堀の先に二の丸御殿が見える)>
後水尾天皇もこうして京の町をご覧になられたのかなぁ。天守閣からだともっと良く見えたでしょうね。

<天守閣跡から西側眺望(手前には土蔵(米蔵)、奥に西南隅櫓が見える)>

<土蔵(南)(米蔵)(重要文化財)>
本丸西橋を挟んで北の土蔵と対になっている。寛永3年(1626年)の建築。
城に土蔵が残るのは二条城だけで、現在城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在したという。土蔵は穀物類を保存するのが目的だが、武器を収納する蔵もあるのが城の特徴。
さて、そろそろ時間なので本丸御殿へ向かいます。

<天守閣跡から見た本丸御殿(重要文化財)>
本丸が設けられた当初の御殿は1788年(天明8年)の大火で焼失。現在の本丸御殿は1884年(明治17年)二条城が皇室の離宮になった後(ゆえに”元離宮”二条城なのですね)、1894年(明治27年)京都御所の北にあった桂宮家の御殿(桂宮御殿)の主要部を移築したものです。
本丸御殿の前には「祝 本丸御殿公開」のパネルが。

<屏風を模した「祝 本丸御殿公開」のパネル>
本丸御殿は2017年より保存修理が行われ、2024年3月末に工事が完了、9月から公開開始(なんと、18年ぶり!)となりました。かねてより二条城には行きたいと思っていたのですが、行くなら本丸御殿の工事が終わってからと決めてたので、今回観覧が叶ってうれしいです♪
Webチケットを掲示し車寄より中へ。大きな唐破風に格式の高さが表れています。

<本丸御殿車寄(来客の公式な入口)>
入ってすぐ右手にコインロッカーがあり、脱いだ靴も含め手荷物は全て預けます。
その後テレビのあるお部屋に通され、スタッフさんから観覧についての説明を受けるのですが実はここ、殿上の間と公卿の間。

<殿上の間と公卿の間がある本丸御殿の玄関>
来訪者が御殿の主に対面する前控えた場所ですが、その室名から移築前は身分の高い公家が使用していたと見られるそうで。わたしなんかが申しわけない
って気がするけど、せっかくの機会だし、ここはお貴族さまの気分になって周ろう。
玄関から奥に進むと御書院。

<御書院>
最初に目にするのは一の間から三の間、本丸御殿の中心となる場所です。

<御書院 一の間(画像は公式HPよりお借りしました)>
一の間は他の部屋より床が一段高く、天井は格天井、壁と床の間は金箔貼、違棚を備えた最も格式の高い部屋です。
桂宮家では年頭の儀礼等が行われていましたが、移築後皇太子の宿泊所となった際は謁見の場として用いられたそう。こちらに皇太子時代の大正天皇、昭和天皇が座られたのかなぁと思うと歴史が感じられます。
御書院には他に春夏秋冬の景色が描かれた4つの部屋・四季の間、

<御書院 四季の間(画像は公式HPよりお借りしました)>
襖に雲鶴文様の唐紙が用いられた雲鶴の間(一の間から三の間)があります。

<御書院 雲鶴の間(画像は公式HPよりお借りしました)>
襖絵はもちろんですが、欄間や違棚、釘隠しまで、その細工は実に細やかで美しく。思わずため息がもれてしまいました。
御殿の主の居室や寝室を備えた御常御殿は、丸みを帯びた屋根(てりむくり屋根)が特徴の優美な建物ですが、内装も雅。

<御常御殿>
障壁画保護のため公開される部屋は時期で分けられていて(HPでスケジュールの確認ができます)、わたし達が訪ねたときは四季草花の間、耕作の間、萩の間、御化粧の間でした。

<御常御殿障壁画 中島来章筆四季草花図(画像は公式HPよりお借りしました)>
稲作と農村を描いた「耕作図」は権力者が民の様子を知り、自らを戒めるため制作されたとあって、色彩は控えめ。「四季草花図」も派手さこそありませんが、それが返って草花の可憐さ、奥ゆかしさを表しているように見えました。
最後は雁の間。家来たちが使用した部屋で、芦雁図が水墨で描かれています。
隣接して台所がありますが、非公開でした。(見てみたかった~)

<左:台所、右:雁の間の障壁画(一部)(画像はHPよりお借りしました)>
江戸時代の宮家の御殿で、これほどの規模を残すものは他にないという二条城本丸御殿。見所たっぷりでしたが(気が付いたら同じ組で周っていた人誰もいなかった
)、今回の観覧では文化財保護の在り方も印象に残りました。
御殿の中には耐震のための鉄骨柱が所々見られるのですが、これはあえてなじませていないのだとか。世界遺産の場合、オリジナルの部分と後で付加したものが明確にわかるようにしないといけないのだそうです。そういう修復の仕方もあるのだなぁと勉強になりました。

<本丸庭園から見た本丸御殿>
さて時間も押しているし、二の丸御殿へ急ごう。
―後編に続く
・元離宮二条城:京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 HP
※本丸御殿の観覧は予約制で、入城チケットとは別にWebチケットが必要です。また東大手門入城口から本丸御殿までは20分ほどかかるので、余裕をもって入城することをお勧めします。