心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する! -13ページ目

心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

心温まる感動ストーリーや感動研究を通じて、元気や勇気、生きる喜びを高めて欲しい!!(社)日本WEBライティング協会公認ブログです。


感動が多い人生は幸福な人生ということができるでしょう。


感動を増やすために重要なことは、心を開くことです。



辛いとき、苦しいときは、感動することが減ります。


これは、心を閉ざしているがために、
プラスの感性が鈍っているからです。


逆にマイナスの感性、つまりネガティブなことにだけ、
敏感に反応してしまいます。


心を開けば開くほど、感動は増えるといってよいでしょう。


周りや自分の存在に感謝し、
すべてを受け入れることです。


では、何に心を開けば良いのか?


それは次の3つに分けることができます。



●周りの事象


世の中には感動に溢れています。


客観的にどうか、あなたにとってどうか、などを考える必要はありません。


あなたにとって、
感動に溢れている世界と思うことがトクか、
そうではないと思うことがトクかが重要なのです。

言うまでもなく、前者がトクですよね。

感動に溢れている世界と思うことが100%トクです!!


そのうえで、


あなたの見る眼を磨いて下さい。


あなたの心を研ぎ澄ましてください。




●周りの人


人は人との関わりの中で生きていかなくては、
幸福を感じられないものです。


そして、人の関わりがより良いものであるほど
感動を味わうことができます。


あなたのほうが積極的に、働きかけてください。


話かけて友達を多く作り、争いごとのない
より良い関係を保ってください。


心を開き、自分のことを積極的に話せば、
相手も心を開いてくれるでしょう。


そして、
笑いや感謝に満ちた関係を築いて下さい。


ただし、どうしても合わない人にまで
無理に合わせる必要はありません。


無理は禁物です。


粗野粗暴や自堕落、相手の価値観を認められない人、
ネガティブな人とは、関係を持たない方が良い場合もあります。


そろはきちんと割り切りましょう。






●自分


全米ナンバー1コーチで有名な、
アンソニーロビンスは次のようにいいました。


「私たちの人生は自分なりの解釈のうえに成り立っており、
ありのままの人生ではない」


この言葉が物語るように、
自分の人生や自分の存在価値というのは、
自分の解釈によって、どうにでも変わるもの。


そうであるなら、ポジティブなとらえ方をした方が、
前向きな人生をになるし、感動が増えることになります。


あなたの人生の主役はあなたしか務めることしかできません。


代役はいません。


心を開いて、自分を認めて下さい。






こうして心さえ開いていれば、

感動に出会える確率が高まります!











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ウォルト・ディズニーは、
当時遊園地といえば子供だけの遊び場だった中、
大人も楽しめる遊園地をつくることを考えました。


その理想を現実化したのが、ディズニーランドでした。


しかし、従来になかった発想だったことから、
最初はなかなか賛同を得られませんでした。


ウォルト・ディズニー曰く、

「みんなから忠告されたよ。
ディズニーランドはハリウッドらしいハデな失敗劇に終わるだろうってね」


そのため、
「ディズニーランド」を作る夢への資金提供を、
実に302回も断られました。

どの銀行からも、頭がおかしいように言われたといいます。


彼がディズニーランドの予定地を初めて見たのは、
1953年のことでした。

あたりは何もない一面の平地で、川も山も、もちろんお城もロケットもない。
ただオレンジの林と何エーカーかのクルミの木々があるばかりだったといいます。


このようなのどかな場所に人が集まるとは、誰も予想できませんでした。
ウォルト・ディズニー以外は。



彼はオープンにあたり完璧を目指しました。


アドベンチャーランドにそびえる木が歩道に近づきすぎるとみるや、
6トンを超える大木を引き抜き、少し離れた場所へと植え替えたのです。


1955年7月17日のオープン当日でさえ、
彼は成功を目指してどんどん次の手を打ち続けていました。


それは彼の次の言葉に表れています。


「これは決して終わることのない何か、

常に育て続けることができる何か、

新たに伸ばし続け、

加え続けることができる何か。

ディズニーランドは生きているんだ。」



そして次の言葉は彼の名言として語り継がれています。

「ディズニーランドは永遠に完成しない」



また、ディズニーランドの理念として次のことを語っています。

「自分のために作るんじゃない。

人が何を望んでいるかを知り、その人たちのために作るんだ」


スタッフに対しては、

「ここにくる人たちはただのお客ではなく、ゲストとして迎えてほしい。」


従業員向けの手引き書で、彼は次のように説明しています。


「何百人という職人や大工、エンジニア、技術者、科学者、熟練工たちが
技術と才能をひとつにすることで、ディズニーランドの夢は実現しました。

彼らの夢は、今あなたたちが受け継ぐ伝統になっています。

今日、そして未来にわたって訪れる何百万というゲストのために、
ディズニーランドを本物の魔法の国、幸福の場所にする仕事を行っているのは、
あなたなのです」


彼はしばらくは昼パークで働き、夜はディズニーランド内の
タウンスクエアにある消防署の2階を自室として寝泊まりしていました。


閉園後にガウン姿で出歩く姿を見とがめた夜勤スタッフは、
その正体を知ってびっくりしたといいます。





そして、東京ディズニーリゾートを経営する「株式会社オリエンタルランド」
が設立されたのは、1960年。


東京ディズニーランドがオープンした1983年から20年以上前のことです。


京成電鉄が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と
大規模レジャー施設を計画していました。


京成電鉄の川崎千春はアメリカで大人気のテーマパーク「ディズニーランド」を
日本に誘致しようと、アメリカのディズニー社に交渉に行きました。


ディズニー社の答えは「NO!」。


ディズニー社からは門前払い同様の扱いを受けました。


その理由は、国内のある会社がカリフォルニアのディズニーランドに行き、
写真を撮って帰国し、ディズニーランドをまねた遊園地を
無断で作ってしまったからです。


アイデア盗用とその低レベルぶりにディズニー社は

「なんとしても著作権を守らなくては」

と言う心境になっていたのです。


そこで「同じ真似はしない」
と説得しても決して信用してもらえませんでした。

この段階では諦めるしかありませんでした。





ディズニー社の姿勢が変化を見せ始めたのは、
それから10年後の1970年代の事でした。


ディズニー社はそれまで世界中から誘致のオファーがあったものの、
フロリダのディズニーワールド建設に力を集中させていました。


そのプロジェクトが成功して、ほっと一息ついたこところに
オリエンタルランドの話が持ち込まれました。


オリエンタルランドでは、ディズニーランドの誘致の責任者として
堀貞一郎を抜擢していました。


堀氏は、テレビ業界の創生期に数多くの有名番組を手がけた
テレビプロデューサーでもあり、その後、大阪万博のパビリオンの企画プロデュース
なども手がけました。


堀氏はオリエンタルランドの取締役就任後すぐに多彩な人脈から
優秀なスタッフを集めました。


基本テーマ及び構想を

「素晴らしい人間とその世界」

と決定。


また、

「この地上に生を受けたことに喜びと感動を覚えることのできる場をつくる」

という明確な目的を持って、レジャー施設の内容を構成しました。


その後、ディズニーランドの首脳陣の来日のときに
誘致のためのプレゼンテーションを行うことになりました。


ところが実際には、日本最大の企業グループが進めていた
富士山麓の誘致計画を実地検分するついでに、
プレゼンテーションをみてやろうという程度のものだったのです。


その時のプレゼンテーションは伝説として語り継がれるほど
素晴らしいものだったといいます。


「・・・私たちは、人々がこの世に生まれてきてよかった、
と思える一瞬を演出したいのです。・・・

『絶えることのない人間賛歌の聞こえる広場を目指す』ことを経営理念として、

そのテーマを『素晴らしい人間とその世界』として提案しております。
いわゆる遊園地ではありません。

地球上で有史以来、人間はこの地上に生まれ、神に感謝し、
人生を謳歌しなくてはなりません。

日本は敗戦によって廃墟と貧困に苦しみました。

そして、そこから経済的に立ち上がりました。
いや、実際のところ、今日では拝金主義的な風潮さえあります。

しかし、その前に約束されるべきは精神的な充実だったのです。
金があっても生きる喜びががない、どんな豪邸に住もうが満足はありません。

そこで私たちは生きる喜びの哲学を次の世代と共同して
作り上げてゆきたいのです。・・・・」



プレゼンテーションの日の夜、ディズニー社の会長は、
日本側のディズニーのスタッフを呼びました。

「オリエンタルランドの情熱はよくわかった。ただちに提携の了解をしたいから、
富士山麓の計画を断って欲しい」

といって即断即決しました。




東京ディズニーランドの工事が始まったのは1980年12月です。


当時1000億円を予定していた予算は、なんと1800億円を超えました。
しかし社長の高橋正知は言いました。


「いくら金がかかってもいいから、本物を作ってくれ。

創る以上はアメリカに勝てるものでなければいけない」


予算を削って貧弱なものを創ってもゲストが夢の世界へ入れるのか?

そこを社長の高橋はよく心得ていました。



人材をたくさん集めるため、次のような
コピーを全面に打ち出しました。


「人々に夢と感動を与え、人々と生きる喜びを分かち合おうとする
『人間賛歌の広場』を作り出す」


「素晴らしい人間とその世界」







初年度(1983年)の入園者数はプレビューを含め、
1036万人と、目標を達しました。


売上高は予想を大きく超える800億円に達しました。


東京ディズニーランドがどれほど人々に人気があるのか
表わしているデータはリピート率。


一度東京ディズニーランドに来たゲスト(お客さん)の中の
90%以上は再び訪れます。


両親と来た子供は「また連れていてね」とせがむし、
中学に入れば友達とやってきます。


やがて恋人とデートに訪れ、結婚して、子供が生まれれば、
今度はその子供を連れてきます。


東京ディズニーリゾートは何度来ても飽きさせないための
努力もしています。


ゲストは一度初めてディズニーランドに来て、二度目に再訪しても新鮮な
感動を得られます。


以前来たときとまったく違うアトラクションが増えているし、
売られているグッズも毎年新しくなっているからです。





東京ディズニーランドが人を魅了し続ける理由は、
創始者ウォルト・ディズニーの意志を受け継いだ堀貞一郎が、
人々の心に響く理念を掲げて始めたことが大きいことでしょう。


共感できる理念だからこそ、1983年の開園以来、
30年以上の間、しっかりと受け継がれているのです。


企業理念である

「絶えることのない人間賛歌の聞こえる広場作りを目指す」

は、サービス内容とスタッフの心の隅々にまで浸透しているといって良いでしょう。










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参考;「ウォルト・ディズニーすべては夢みることから始まる」(PHP文庫)
「感動が人を動かす」(堀貞一郎)

http://blogs.yahoo.co.jp/shinnko9/13566095.html

2006年2月1日に起きた京都介護殺人事件。


認知症の母親の介護を何年間も続け、生活苦に陥り
それでも最後まで母を愛しながら殺めてしまった男性の話。


京都市伏見区桂川河川敷で被告が母親を殺害。


無理心中を図り自身も自殺を図ったが発見され、一命を取り留めた。


しかし、この事件はただの介護疲れによる殺人事件にとどまらない事情があった。





介護疲れ・生活苦・・・そして


当時被告は両親と3人暮らしだったが、1995年に父親が死亡。


その頃より、母親に認知症の症状が出始め一人で介護をしていたという。


ところが、2005年頃より母親の生活サイクルが昼夜逆転し、
徘徊しては警察へ保護されるほど症状が進行した。


被告は、デイケアの利用などを行ったが介護の負担は軽減せず、
仕事をしながらの介護に限界を感じ、9月に退職。


その後も求職をしながらの介護が続いたが、
介護と両立できる仕事も見つからない。


また、生活保護の受給を求めたが、失業保険を理由に認められなかった。


12月には失業保険の給付もストップ。


カードローンの貸し出し額も限度額に達し、
自分の食事を2日に1回にし、母親の食事を優先するなどしてきりつめた。


しかし、デイケア費や家賃も払えなくなった2006年1月31日、

「もう自分たちに残された道はこれしかない」

と心中を決意した。





わしの子や。わしがやったる。


その日、京都市内を観光した後
家の近くがええなという母の言葉に従い、
2月1日二人は桂川の河川敷へ。


「もう生きられへん。此処で終わりやで。」

という被告に、母は

「そうか、もうアカンか、○○。一緒やで。お前と一緒やで」

と答えた。



「こっちに来い」と呼ばれ近づいたら額がぶつかった。


「○○はわしの子や。わしがやったる」

との母の言葉に

「自分がやらねば」と決意したという。


そして母の首を絞めて殺害し、 自分も包丁で首を切って自殺を図った。


その後、通行人によって午前8時頃、二人は発見された。








「また母の子として生まれたい」


4月19日、京都地裁の初公判。


ここで被告は、

「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」

と述べた。


また、裁判のなかで被告は、

「私の手は母を殺めるための手だったのか」

と言葉を残した。


刑務官も涙をこらえる様にまばたきするなど法廷は静まりかえった。





「尊い命を奪ったと言う結果は取り返しのつかない重大だが、

経緯や被害者の心情を思うと、社会で生活し 自力で更生するなかで

冥福を祈らせる事が相当。被告人を懲役2年6ヵ月に処する…」





母が子供に戻って行くのです。


私は母を「見守る」ただそれだけのことしか出来なかった。


私の手は何の為の手で、母を殺めるための手であったのか、

みじめで悲しすぎる。


じっと我が両の手を見る。何の為の手であるのかと。

(最終陳述にて)









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≪参考≫
伏見・介護殺人

http://yabusaka.moo.jp/fushimi.htm
私は、以前ウナギの蒲焼きを日本一多量に販売していました。


しかし、そこに到達するまでは幾多の波乱がありました。


私は30歳前後のとき、ある商社の水産部で
「赤魚」(粕漬けなどで食べられる)を担当していました。


主にノルウエーやアイスランドから輸入して、日本の大手市場や
問屋、加工会社に卸していました。


担当して数年間は順調に業績を伸ばしたのですが、
その後、担当をはずされる失敗を犯しました。


それは、輸入した赤魚の色が悪かったのです。


赤魚は赤ければ赤いほど価値があります。
ですので、漁獲すると同時に酸化防止剤につけて、
色が落ちないようにします。


この処理が不十分だと、時間が経つに連れて色落ちして、
2級品になります。


私が輸入した赤魚は現地で検品したときは良い色だったのですが、
日本に来てみると、色落ちしていたのです。


検品が甘かったと言われて、
反論の余地がありません。


結果的に約1千万円の損をすることになりました。


この世界はそれまでいくら儲けていても、
1回失敗すれば評価が180度変わる世界。


私は担当をはずされたうえ、
翌年には、それまでいた東京事務所から
大阪事務所へ転勤することとなりました。






大阪では専らニシンや数の子担当の下働き的な仕事をしました。


何もかもが初めての商材です。


しかし、もう中堅の立場であることと、東京で失敗してきているという
先入観からか、非常に厳しい扱いを受けました。


「そんなこともわからんのか!アホか!」
と人前で何度も怒られました。


自分では仕事ができるほうだと思っていたし、
やる気も人一倍あったので、悔しくて悔しくて、
人知れず男泣きしたことも何度かありました。


失格の烙印を押され、
なんと1年で東京に戻されてしまいました。


そんな経緯で戻ってきた私が歓迎されるはずがありません。


私はやっかいものなのがすぐにわかりました。
とりあえずサケの担当者の下について雑用をやるようになりました。


本来、中堅である私は、商材の責任者として部下をひっぱって
いく立場でなくてはいけません。


しかし私はその”部下”でしかありませんでした。


上司との人事評価の面談のときに言われた言葉は、

「君には可哀想だけども低い評価を下すしかない」

というものでした。


私には居場所がない状態です。


少しすると、新規ビジネス開発担当(水産物)になりました。


聞こえは良いですが、実はこれは私の最終試験。
これで成果が出なかったらリストラ対象、というのが
確実でした。


当時の会社の水産物の部署はかなり大きな規模でした。
だから、そこそこ有望な商材はすべてに担当がいました。


私は新規開拓といっても、既に担当がいる商材には手を
つけられないので、それ以外のマーケットが小さい商材を
やるしかありません。


多くの人がチャレンジして失敗している仕事です。


それでも私は成果をあげなくてはいけません。


そこで、ニュージーランドの金目鯛や、
中国のサゴシ(サワラの幼魚)などを扱いました。


マーケットが小さい=大きくは儲からない
ということです。


会社の規模から考えると割に合いません。


1年近くやりましたが、新規であることを差し引いても
思わしい結果にはほど遠い状態でした。


もうリストラされることを覚悟するしかありませんでした。


しかし、そう諦めかけていたときのことです。


サゴシのバイヤーから

『「中国産ウナギ蒲焼き」輸入しないの?』

と聞かれました。


うちの会社では誰もやっていなかったからです。


今思えば、それが私のその後の運命を決める一言でした!





ウナギはそのとき急激に輸入量が増えていた時期です。
ウナギの養殖と生産が台湾から人件費の安い中国に
シフトして急拡大していました。


しかし、輸入量が急増するということは、価格が下落していることを
意味していて、取り扱うには非常に難しいものです。


買ったものが売れなくなって在庫になったら
すぐに大損することになります。


しかも単価が高いものなので、品質リスクも高いのです。


だから始めるにはかなり勇気が要ります。





ただ、そのときの私に失うものはありません。


ウナギのマーケットは十分に大きいので、
間違いなく将来的な可能性はあると感じていました。



当時、リストラ対象でへたすると大損しそうだと
思われていた私が危険きわまりないウナギを始めたわけですから、
周りはみんな成功するとは誰も思っていなかったでしょう。


こうして始めたウナギの蒲焼きは、
周りの予想に反して、年を追うごとに扱い量が増え成功しました。


今でもよく覚えているのが、
始めて半年ぐらいしてからの上司の一言。


真剣にそして柔和なまなざしで、

「お宝を掘り当てたんじゃないか?」


これは大きなビジネスになる予感を感じ取ったから
出た言葉でしょう。


その予感通り、
5年後には、1年間で売上30億円、利益3億円を記録しました。


販売数量は2300トンで、これはウナギ約1100万匹に相当します。


上司や駐在員などのサポートがあったからこそとはいえ、
基本的に、これらの仕入れ販売をほとんど私一人で行いました。

他には別の担当者と掛け持ちの事務員が一人サポートしてくれていただけです。


私への評価が今度は良い方向へ
180度変わったことは言うまでもありません。



悔しかった日々も腐らずに頑張り続けたからこそ、
たどり着いた結果といえます。



人間、付いているときと付いていないときがあります。


付いているときは、付かなくなるときに備え、
付いていないときは、付くまで我慢して頑張る。



そうすれば必ず報われる日が来ることは、
疑いようがないことです。








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「世界の国の中で、どこの国が一番好きですか?」と聞かれて「日本」と
多くの方が答えてくれるのはトルコの国民の皆さんです。


トルコの世論調査では、大好きな国として日本が必ず1位になるとのこと。


うれしいですよね。


でも、どうしてこんなに日本を好きでいてくれるのか、ちょっと不思議?
実は、トルコが親日国なのは、心あたたまる歴史上のある出来事がきっかけです。


16世紀、地中海の一大勢力といわれたオスマン帝国海軍。
しかし、時とともに近隣国のロシアやギリシャの海軍に敗北をするなど、
悔しい状況に陥っていたと言います。


そんな苦境の中、立て直しをはかり、1890年、オスマン帝国の航海訓練として、
また、明治天皇の表敬訪問に来日していたのがオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号。


全長76mの木造の軍艦です。


そして、9月15日、軍艦エルトゥールル号は横浜港を出港。
その日は台風が迫っていたので、日本は出港を先延ばしにした方が
いいのではと提案したほどでした。


1890年(明治23年)9月16日、日本の紀伊半島付近を航行していた
トルコの木製軍艦エルトゥールル号は、大型台風のまっただ中にはいってしまいました。


和歌山県の南端に位置するの紀伊大島付近で大波と暴風に押し流され、
「魔の船甲羅」と呼ばれる荒々しい岩礁に乗り上げ大破。
水蒸気爆発を起こし、衝撃で船員はあるものは海に投げ出され、
あるものは海に飛び込み遭難するという大事件がおこりました。


船員の一人が紀伊大島の岩場に打ち上げられ、意識を取り戻したときに目にしたのが、
日本最古の石造りとしても有名な樫野崎灯台の光です。


傷を負いながらも崖を上り、灯台守に助けを求めました。


爆発音を聞いた灯台守はトルコの木製軍艦エルトゥールル号が遭難したこの事態を知り、
樫野の村民たちと救助に向かいました。


遭難した船員600人中、助かったのはわずか69名。


村人は助けたトルコ人たちを樫野地区の寺や小学校に連れて行き、
備蓄していた米などはもちろん、最後の非常食用にと大切に飼っていた鶏まで
食糧として与え手厚く介抱しました。


報告をきいた日本政府も動き、医師や看護婦が派遣され、
その後、回復したエルトゥールル号の船員たちは
日本の軍艦「比叡」と「金剛」でトルコに送還されました。


日本人の心づくしのもてなしにトルコ国民は感激し、
今では、トルコの教科書にも、この遭難事件の事が載せられ、語りつがれています。




また、その恩を忘れずにいたトルコに、日本人が助けられたこともありました。


それは1985年(昭和60年)3月17日、イラン・イラク戦争での出来事です。


当時イラクの大統領だったサダム・フセインが、48時間の猶予期限後、
イランの上空を飛ぶ全ての航空機を攻撃する」と突然宣言し、
世界中がパニックになりました。


イランにいた外国人たちは、それぞれの国の航空機や軍の輸送機が
国民の救出に来て助けられていきます。


しかし、日本だけは、日本政府のGOサインが出されず、
215人の日本人は取り残されたまま時間が刻々と過ぎて行きます。


3月19日の午後8時30分のタイムリミット直前でした。


テヘランのメヘラバード空港へトルコの航空機が日本人を救出するために来てくれたのです。


リミットまであとわずか数時間というギリギリの奇跡の救出です。


取り残されていた日本人215名はトルコ航空機のおかげで、
無事イラン国外へ脱出できました。


この時、トルコの救援機が自国民よりも日本人を優先して助けたことについて、
トルコ国内ではなんの批判も出なかったとのこと。


その後、駐日トルコ大使はこの奇跡の救出について
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と語ったそうです。



さらに、東日本大震災のとき。


トルコの救助隊は外国の中では一番遅くまで残って支援を続けていました。


その際トルコのエルドアン首相は救助隊に「死ぬまで日本に残って救助を続けろ」
と檄を飛ばしたといいます。






恩を決して忘れない、トルコの熱い友情に感謝の気持ちがこみ上げてきます。









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参考文献
「エルトゥールル号の遭難」~生命の光から~