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心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

心温まる感動ストーリーや感動研究を通じて、元気や勇気、生きる喜びを高めて欲しい!!(社)日本WEBライティング協会公認ブログです。

東日本大震災時にアメリカ軍が行った大規模支援のOperation Tomodachi「トモダチ作戦」


アメリカのネットコミュニティに、
この作戦に参加してる米兵の姉が弟からの手紙というのを書き込んでいた。



「姉さん、僕はいま軍隊に入っていちばん充実しているんだ、それを知って欲しい。
 イラクで激しい戦闘も経験したけど、そんなのとは比較にならないのさ。
 僕は兵士だから命令されれば人も殺すし、他人の家だって破壊する。
 だけど姉さん、それは僕が望んですることじゃないんだ。
 僕は兵士だから危険は覚悟してるし、それを期待してすらいる。
 だけど姉さん、僕が望むのは人々の命を救う事なんだ。
 この作戦が終わったら、はじめてまっすぐに姉さんに会いに行けると思う。
 自分をごまかすための酒まみれの日々は、今度はいらない。
 一緒に母さんの墓へいこう。
 今なら母さんも息子の僕を誇りに思ってくれると思うんだ」

名無しさん@十一周年 :2011/03/27(日)



2011年3月11日、日本を未曾有の災害が襲い、東北地方は深刻な被害を受けました。


また、そんな危機的状況にある日本を沢山の国々の人々が助けてくれました。


いくら年月が過ぎようとも、なお風化せずに人々の記憶に残リ続けていることと思います。
いや、残っていなくてはならないこといって良いでしょう。


中でも、その規模の大きさにおいて、
Operation Tomodachi「トモダチ作戦」は、前代未聞の作戦でした。


これは、災害救助・救援および復興支援を目的として、アメリカが行った作戦。


なんと、
2万4000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が参加しました。




米韓合同演習のために西太平洋を航行中であったロナルド・レーガン空母打撃群は、
本州東海岸域に展開、震災翌々日の3月13日には海上自衛隊災害派遣部隊との
震災対応に関する作戦会議を実施。


空母ロナルド・レーガンは全長333m、全幅77m。

例えるなら、全長はサッカーフィールドの長辺3つ分、
水面からの高さは20階建てのビル相当という巨大さ。

乗員は5,680名。

いわば1つの町を形成している<海に浮かぶ城>といって良いでしょう。



空母打撃群は自らの艦載ヘリコプター のみならず、
自衛隊のヘリコプターのための洋上給油拠点として運用されています。


「ロナルド・レーガン」の将兵からは毛布やセーターなど
1,000着以上の寄付が行われました。


強襲揚陸艦「エセックス」は、海から直接物資を運ぶことができ、
多くの町が交通網が寸断され、連絡すらつかない中、多くの救援品が届けられました。
「エセックス」内部には、手術室やICUまでも完備していました。


海軍は震災後3日後の時点で10隻の艦艇を現地海域に派遣しています。




兵士達は、命令で参加したのではなく、募集したうえで、志願兵が集まったとのこと。
しかも館内マイクで、募って10分で、枠が埋まってしまったといいます。


この時、宮城県にある航空自衛隊松島基地や仙台空港は津波の被害により
壊滅的な被害を受けていたため三沢基地への到着となりました。


日本へ到着した米軍は、即座に救援物資の輸送、瓦礫の撤去、
被災者の救助などを行いましたが、最も象徴的な作業は仙台空港の
復旧でした。


絶え間なく大きな余震が起こる中、
そして未知の原発事故が起こる中でのまさに命がけの作戦でした。




当時の防衛大臣北沢俊美は

「米軍に感謝と称賛を申し上げたい。今ほど米国が同盟国であったことを頼もしく、
誇りに思う時はない」

と謝意を表明しました。



仙台空港が再開したのは4月6日。

4月13日に震災以来初の民間機が飛び立ちました。


3月11日の震災からおよそ1ヵ月という短い期間の間に
仙台空港をほぼ以前と同じような状態まで復旧させたのは、
まさしくアメリカ軍のおかげでした。


このことはニュースにはあまりならなかったため、
(再開したというニュースはあったようです)
一般には広く知られていないようです。


米軍は空港復旧の仕事が終わると共に、立ち去っていました。


日本で最大の救助作戦を行なったにもかかわらず、
米軍基地のホスト国の日本の立場を害することがないよう慎重に配慮したものでした。


下記の、横田基地の記事を見てもらうと解るとおり、
彼らは賞賛を必要としていませんでした。


純粋に「助ける」ことそして「義務をこなすこと」を目的としていたのです。


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2011年3月11日のマグニチュード9.0の地震とそれに続く
33フィート(約10m)の津波によって残された惨状は言葉では言い表せない。

日本の本州東沿岸300マイル(約480km)以上が破壊された。

震災当初目にした中で最も悲惨な状況だったのは、仙台空港そして
隣接する名取市と仙台市だった。

津波が押し寄せた仙台空港と近隣の町のビデオは衝撃的だったが、
3月16日に初めて仙台空港に到着してこれらの地域を目の当たりにした衝撃は、
映像をはるかに超えていた。

何千もの潰れた車両、折れ曲がった飛行機、根こそぎにされた木々、
崩壊した家々、水、砂、魚貝などが散乱し、機能が停止した空港のイメージは、
フィルムに、そして我々の記憶にも記録された。

しかしそれと対象的なのが今日の仙台空港の映像であり、
それは希望と復興のそれである。

当初から私達の展望は、日本側と調整しながら人道支援物資を災害地域の
中心まで直接配送可能にする為に、仙台空港再開を促進することであった。

3月16日、最初の固定翼機が仙台空港の主滑走路に着陸したことにより
その展望を達成した。

その4日後MC-130第一便が着陸し、日本人とアメリカ人で編成されるチームは
全滑走路を整備してC-17の着陸を可能にした。

我々は共同して拠点を築き、災害の中心地にむけての支援が流れ始めた。

後に仙台空港の再開が希望の象徴として宮城県の人々に
勇気を与えることになろうとは、当初は予想だにしなかった。

我々の到着前、日本国土交通省航空局と仙台空港機関は仙台空港再開は
不可能だろうと考えていた。


聖アウグスティヌス曰く、
「我々は賞賛には値しません。我々は我々の義務をなすのです」

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気仙沼市大島においては、4月6日の海兵隊の撤収時には、
多くの住民が見送りを行い、上陸用舟艇には別れのリボンが付けられた。


航空機向けの標識として、宮城県女川町では"THANK YOU USA"の文字が描かれ、
仙台空港そばの海岸には、住民により「ARIGATO」(アリガトウ)の文字が作られる
などの謝意表明が行われている。




トモダチ作戦はなにも日米安保条約があったから行われたわけではありません。


日米安保の枠外で行われ、しかも安保条約始まって以来の
史上空前の大規模な協力作戦でした。


<本当に困っているときに助けてくれる人こそ、真の友>



彼らは言いました。

“THANK YOU” IS NOT NECESSARY; U.S. FORCES HONORED TO HELP REOPEN SENDAI.

『日本の皆さん、ARIGATOにはおよびません。
我々は仙台の復興の手助けができたことを誇りに思う』



困っているから、助けた、ただそれだけ、と彼らはいうでしょう。



けれど、助けてもらったことを、友情を、きっと日本の人は忘れず
「ありがとう」の心を持ち続けるのではないでしょうか。








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参考;
http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/review/1-2/1-2-4.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD+%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E4%BD%9C%E6%88%A6'
http://yutakarlson.blogspot.jp/2013/08/blog-post_24.html
http://eksisoznet.com/youtubeproxy.php?u=www.youtube.com/watch?v=5zPl05Ml9zk
https://www.youtube.com/watch?v=GtouOv9qEmo
https://www.youtube.com/watch?v=Lv4-M2yZA6I

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I determined never to stop until I had come to the end and achieved my purpose.
終わりに到達するまで決してやめないと決心したら、自分の目的に到達した。

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デイヴィッド・リヴィングストン 1813年3月19日 – 1873年5月1日


ビクトリア滝の発見で世界的に有名な探検家リヴィングストンをご存じでしょうか?


彼はヨーロッパ人で初めて、当時何の情報もなく「暗黒大陸」と呼ばれていた
アフリカを横断を成し遂げた。


困難を成し遂げ、アフリカ大陸の詳細をヨーロッパへもたらし、
また奴隷廃止・解放に向けて尽力した人物でもある。


1971年からスコットランドのクライズデール銀行が発行する
10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。


しかし彼は今日よく知られている「探検」よりも「宣教師」として
キリスト教を広めるために、また「奴隷解放」を実現するために心血を注いだ。


「あくまでも自分の第1の目的は宣教であり、
探検はその拠点を探索するための手段である」



■貧しい幼少時代


デイヴィッド・リヴィングストンは1813年にスコットランドで生まれた。


家庭が貧しかったがゆえに、彼は10歳の頃から紡績工場で働き始める。


しかしその間、向上心の強い彼は独学でグラスゴー大学へ進み、医学、神学を学ぶ。


やがてドイツの宣教師、カール・ギュツラフに深く感銘を受け宣教師になり、
布教することを志すようになる。



■アフリカ探検・奴隷解放


当初中国での医療伝道師を目的としていたリヴィングストンだが、
阿片戦争によりその目的を諦めざるを得なかった。


その後1841年にプロテスタントの医療伝道師として南アフリカへ行き
布教と医療を続ける中で、熱病、ライオンに襲われ左腕に重傷を受ける、
飢餓に苦しむ等数々の困難に見舞われるが、それでもアフリカ大陸での布教と探検を続けた。


ライオンに襲われた時の傷は、のちに彼を識別する証拠となったのは皮肉な話である。


また、当時彼の布教を助けてくれたのは奴隷商人であったため、
後々まで彼はこのことに苦悶することになる。


その後も布教のための土地を探し求め各地を探検。


奴隷貿易による搾取を廃絶するために、中央アフリカの交易ルートを
探索する意図もあったが(農業振興と出荷ルートの開拓が必要で、
有効な交易ルートさえ確保できれば奴隷廃止へつながると、彼は考えていたのである)
これまでのアフリカの地図にはなかったザンベジ川、ヌガミ湖、
世界最大のビクトリア滝の発見という数々の功績にもつながることとなった。

また現地の言葉を覚え、自らアフリカの人との交流も行った。




■帰国・第二次アフリカ探検


1856年に資金不足のため帰国したリヴィングストンは、
ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したという功績により、
スコットランドの英雄として歓迎された。


『南アフリカにおける宣教師の旅と探検(Missionary Travels and Reserches in South Africa)』を執筆し、これは大ベストセラーとなるが、ロンドン宣教協会からは
「一箇所に定住せずに、布教をおろそかにし、方々を探検していた」ことを理由に
除名処分を受けてしまう。


しかし、1858年に女王の勅命によるキリマネ駐在大使、ならびに
ザンベジ探検隊の隊長に任命され、同年3月に再びアフリカへと足を踏み入れることとなる。


この2度目の探検中に、同行した妻はマラリアのために命を落としてしまう。
悲嘆に暮れながらも探索を続けたが、1863年に政府からの帰還命令を受け、
イギリスへ帰還。


1865年には、彼は2冊目の著書『ザンベジ川と支流(The Zambesi and Its Tributaries)』
を執筆。


著書の中にある奴隷貿易および現地人への虐待や虐殺の実態に関する悲惨な事実は、
当時の人々を驚愕させ、かつ奴隷貿易に対し嫌悪させ、結果的にイギリスの世論を
奴隷貿易の廃止への風潮と導くものとなった。


一時帰国した際には著作・講演などにより、強く奴隷廃止を訴えたため
奴隷商人とは険悪の仲であった。


このために彼は、危機感を抱いた奴隷商人に探検中に何度も妨害され、
時には暗殺されかかるなどの目にあっている。


危機を抱かせる程、彼の影響力は当時絶大だったと言えるだろう。



■最後のアフリカ探検



1865年8月14日、ナイル川の水源を突き止めるため再びイギリスを発ち、
アフリカの大地へ足を踏み入れたリヴィングストンだが、これが彼の最後の旅となる。


出発当初には36人いたポーターは、過酷な旅や奴隷商人の妨害により
最終的には4,5人程しか残っていなかった。


また彼を快く思わない奴隷商人たちは、ポーターを買収し
「リヴィングストンは死んだ」等という虚偽の話を流布させ、
医療道具一式が入ったカバンを盗んでしまうなどの様々な妨害を行う。


苦難の果てにMoero湖、バングウェル湖の発見に至るが、
病に倒れ静養のため一旦タンガニーカ湖畔の村、ウジジへと戻ることとなった。


その間、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会ったが、
病床にあった彼には、もう奴隷解放のために戦うだけの力は残っていなかった。


一方イギリスでは、すでに3年以上も連絡が途絶え、死亡説まで流れている
英雄リヴィングストンを探索しようとする動きもあったが、過酷な旅や
現地での妨害のために、ことごとく失敗続きであった。



リヴィングストン博士、ですよね?


1869年、アメリカの「ニューヨーク・ヘラルド」紙の経営者
ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは莫大な資金提供と、
発見が成功した際の報奨金を提示し、特派員の1人であるヘンリー・スタンリーに
彼の捜索を依頼した。


スタンリーが、ようやくリヴィングストンを発見したのは
リヴィングストンがアフリカへ経ってからすでに6年後のことであった。


ウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇した彼は、
従者に案内され、ついに面会することとなる。


骨と皮になるほど痩せ衰えてしまったリヴィングストンを見て、スタンリーは思わず
「リヴィングストン博士、ですよね?(Dr. Livingstone, I presume?)」
と発した。


この対面での発言は、思いがけず人と対面した時の慣用句としてイギリスで使われ、
流行するほど、劇的なエピソードとして伝わった。


その後二人は4ヶ月をともに過ごし、リヴィングストンに心酔したスタンリーは、
彼の健康のために帰国することを強く勧めたが、リヴィングストンは、
ナイルの水源を突き止めるため、探検を続けることを強く望み、この申し出を拒否した。


「もしもわたしのこの地におけるひどい奴隷制度への告発が、
東海岸の奴隷貿易を抑止することにつながるのであれば、
それは、ナイルの水源を発見するより断然にすばらしいことだとわたしは考えています。」
と、書き遺している。


つまり、ナイルの水源を突き止めるという本来の使命より、
かれがずっと願ってやまなかった奴隷制度を廃止したいという思いのため、
それまでは帰れないという使命が強かったのではあるまいか。


イギリスへ向けて旅立ったスタンリーは、5ヵ月後にリヴィングストンの許に
57人の従者と十分な物資を送った。



1872年4月29日。
ついにバングウェル湖南側の村、チタンポへたどり着いたが、日記に記録を書き付ける
余力もないまま、5月にリヴィングストンはマラリアと赤痢の複合症により息を引き取った。


心臓は抜き取られ現地で埋葬され、彼を尊敬していた現地の従者たちは
深い悲しみに暮れる中、遺体も現地で埋葬しようとする動きに対し、
彼の亡骸に簡単な防腐処理を施した後、彼の日記や記録、医療品と一緒に2,500キロもの
道のりを運ばれ、故郷のイギリスへ届けた。


当時交通機関が全くないアフリカの地での行程である。
どれだけ彼が現地の人に愛され、尊敬されていたかが伺えるものではないだろうか。


その後彼の遺骸は、左腕の傷跡により本人であると確認された後、
ロンドンのウェストミンスター寺院に葬られた。

享年60歳。

サンジバルでは彼の努力が実り、その没年である1873年に奴隷制は廃止されている。


またザンビアには彼の名にちなんだ都市リヴィングストンがあり、
彼の功績をたたえた記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っている。









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<参考>
大人のための世界偉人物語  金原義明 著
人間臨終図鑑 山田風太郎 著
デイヴィッド・リヴィングストン物語 My Wonder Studio(http://www.mywonderstudio.com/)
アフリカの聖者・リビングストン 児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ:いずみ書店(http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2010/03/post_905.html)
WikiPedia デイヴィッド・リヴィングストン

2013年。
震災からまもなく2年が経とうとする、
3月8日に行われたWBCでの日本対台湾の試合。


9回2アウトから、土壇場での逆転。
この試合は多くの日本人を感動させました。


しかし、試合後。
地上波では放送されなかった、台湾チームの振る舞いにより
日本人の多くが驚くこととなります。



それは。



ツイッターの呼びかけから始まりました。


試合2日前のこと。


ある一人の日本人ユーザーがツイッターで


WBC、日本は初戦が台湾に決定。


「この試合を見に行かれる方、先般の東日本大震災への台湾からの多大な支援の
お礼の横断幕やプラカードをお願いします」

「WBCを通じ、日本と台湾の信頼関係を深め、私達が本当に台湾に
感謝している事を伝えて下さい」


と呼びかけました。


東日本大震災で、台湾は世界最多となる200億円以上の義捐金。


毛布、衣類、食品等400トンを超える様々な支援物資を送ってくれました。


ちなみに台湾は、人口一人あたりの義捐金額でダントツでした。


それだけではなく
「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」
と要請があればいつでも援助隊を出動可能な状態に待機させ、
いちはやく派遣してくれたのも台湾。




そのことに感謝を示したい。


そんな思いから、この呼びかけはまたたくまに日本中に拡散。


ところが、このツイートは日本だけにとどまらず
中国語に翻訳され、台湾にも広まります。


しかし、すでに試合のために来日していた選手は
このことを知りませんでした。


礼には礼でこたえる



試合当日。



日本人側のスタンドには、ツイッターの呼びかけに答えた、

「謝謝台灣(ありがとう台湾)」

と書かれたプラカードを持つ多くのファンの姿が。


台湾の選手は、それを見て初めてプラカードの存在に気づきました。


これが、WBC史上に残る名勝負の幕開けでした。




試合は、台湾の優勢で日本を追い詰めます。


ところが夜23時半を超えても、この名勝負には決着がつかず、
10回表、ついに日本が逆転します。


その裏、最後にはまるで高校野球のようなヘッドスライディングを
見せる台湾選手でしたが、ジャッジはアウト!


長年野球で日本を追いかけてきた背中にあと一歩届きませんでした。




しかし、この物語はここまでではありませんでした。


日本の地上波では放送されなかったシーン。


勝利し、喜びを爆発させる日本選手たちの後ろで、
ベンチを出ていく台湾選手たち。


彼らは全員マウンドに向かうと全方向の観衆に向かって
深々とお辞儀をしました。


その姿に、ドームにいた観客は台湾の選手たちへ
惜しみの無い拍手が送られました。


試合の勝ち負けを超え、どちらも礼儀正しくお互いを讃え合う、
礼には礼でこたえるという姿勢。


ホームグラウンドでもない私たちを日本のファンは応援してくれる。


…それに感謝したい


また、多くの日本人がプラカードを掲げ台湾に感謝の気持ちを伝えたい
という様子はインターネットで拡散されたり、台湾のTVでも取り上げられるなど、
台湾の人にも感動を与えました。




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<参考>
Mr.サンデー
WikiPedia:東日本大震災に対するアジア諸国の対応


いつでも、どんなときでも、飼い主に無償の愛を与え続けてくれる犬。


古代メソポタミアや古代ギリシアの壁画などに描かれたり
日本でも縄文時代の遺跡から埋葬された犬が出てきたりと、
太古の昔から良きパートナーであり最良の友でした。



きっとまた会えるよね?

~飼い主を待ち続ける犬たち~


飼い主が亡くなっても、突然居なくなっても、どんなにひどいことをされても。


リチャードギア主演で映画化されて有名になった「忠犬ハチ公」のように
犬は飼い主を信じて、待ち続けます。


きっとまた、一緒に暮らせる日が来ることを信じて。


アリシアは、飼い主がコルドバの病院へ入院してから、
8か月もの間病院のドアの前で待ち続けています。


残念なことに、すでに飼い主の方は亡くなっているのですが・・・。


地元の人は何度か彼を保護しようと試みましたが、
脱走を繰り返しやはり飼い主が運び込まれたこの病院の入口へ
戻ってきてしまうとのこと。




犬は賢い動物です。


アリシアは、もしかしたら飼い主がすでに
亡くなっているかもしれないことに感づいているかもしれません。


けれど、あのドアから飼い主が出てきて、
もう一度名前を呼んでくれると信じて。。。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



6年間、飼い主の墓を守り続けその側から離れることを拒む犬がいます。


ジャーマンシェパードのキャピタンはグスマン氏が息子、
ダミアンのためにと2005年に飼い始めました。


ところがその翌年3月にグスマン氏は急死。


葬儀が終わり、家族が家に戻るとそこにキャピタンの姿はありませんでした。


それから一週間後、家族がグスマン氏の墓を訪ねると、
そこには墓の側に座り嘆き悲しむキャピタンの姿が。


グスマン氏の妻は地元新聞社に次のように語りました。


「私たちは探したのですけれど、見つかりませんでした。

なので、もう死んでしまったのでは、と思ったんです。

ところが次の日曜に墓地へ行き、そこでダミアンが彼を見つけたのです。

彼は私たちへ近づき、まるで嘆き悲しんでいるかのように吠えました」


さらに続けます


「墓地へ連れて行ったこともないのに、どうやって探し当てたのか

不思議で仕方ありません」


「次の日曜に訪れた時にも、彼はそこにいました。

このときは、私たちについて来てほんの少しの間一緒に過ごしました。

けれど、暗くなる前に、また墓地へ戻って行ってしまったのです」


「きっとミゲル(グスマン氏)を暗い中、ひとりぼっちにしたくなかったんだわ」



犬は飼い主からされた事全てを、決して忘れることはないそうです。


家族は何度も彼を家に連れて帰ろうと試みたそうなのですが、
すべて徒労に終わってしまったそうです。


彼はグスマン氏からもらった愛情を、彼の墓を守り続けることで
応えようとしているのかもしれません。


出典:Loyal dog ran away from home to find his dead master’s grave – and has stayed by its side for six years




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



イタリアの小さな町サン・ドーチナの教会であなたは
ジャーマンシェパードの「トミー」を見つけることができるでしょう。


彼は毎日ミサへ行き、そして辛抱強く座っています。


彼がここにいる理由。


なぜなら飼い主を最後に見たのがこの教会だから。
そう飼い主の葬儀が執り行われたのがここだったのです。


彼は、飼い主のマリアが帰ってくる日を礼拝の間も、根気強く、
そして大人しく待ち続けます。


トミーには、「死という永遠のお別れ」が解らなかったのでしょうか?


いいえ「もう会えないかもしれない」ことは解っているのかもしれません。


人間にとって犬は最良の友だということは、よく知られているが、
それは犬にとっても同じなのかもしれない。


亡き飼い主の墓石の上で、すすり上げながら泣く犬の動画が
人々の感動を誘っています。


出典:Why This Dog Goes To Church Every Week Broke Me Down. I Wish He Could Understand.




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アメリカ・カリフォルニア州ベンチューラ市にある
『ロックウッド・アニマルレスキューセンター』に住む犬ワイリー。


亡き飼い主の墓石に横たわり、体を震わせ、しゃくり上げながら泣いている。


4月13日にセンターのスタッフによってYoutube に投稿されたその動画は、
10秒ほどのとても短いものだが、あっという間に世界中の人々を
感動の渦に巻き込みました。


再生回数は既に48万回を超えている。


人のように嘆き悲しむ犬の姿に、世界中の人が感動したそうです。


もちろん中にはこれを見て、「ただしゃっくりをしているんじゃ」
「病気なんじゃ」という人もいます。


けれど、犬も人も大切な人を失ったら悲しいと思う気持ちは一緒。
その姿に共感を覚えた人が多いからこそ、このように感動を呼んだのだと思います。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



最後に。


犬との10の約束、として有名です。


犬の十戒

My life is likely to last ten to fifteen years. Any separation from you will be painful for me. Remember that before you get along with me.
Give me time to understand what you want of me.
Place your trust in me- it’s crucial to my Well-being.
Don’t be angry at me for long and don’t lock me up as punishment. You have your work, your entertainment and your friends. I have only you.
Talk to me. Even if I don’t understand your words, I understand your voice when it’s speaking to me.
Be aware that however you treat me, I’ll never forget it.
Remember before you hit me that l have teeth that could easily crush the bones of your hand but that I choose not to bite you.
Before you scold me for being uncooperative, obstinate, or lazy, ask yourself if something might be bothering me. Perhaps I’m not getting the right food or I’ve been out in the sun too long or my heart is getting old and weak.
Take care of me when I get old ; you, too, will grow old.
Go with me on difficult journeys. Never say, “I can’t bear to watch it .” or ” Let it happen in my absence.” Everything is easier for me if you are there. Remember I love you.

原文:ウィキペディア:犬の十戒より


日本語訳

1,僕の寿命は10年、長くても15年。だからあなたとちょっとでも離れるのは辛い。
僕と暮らす前に、そのことをどうか思い出して。


2,あなたが望むことを僕が理解するのを、どうか気長に待って欲しい


3,僕を信じて・・・僕はそれだけで幸せ


4,ずっと僕を叱り続けたり、どこかに閉じ込めたりしないで。あなたにはやることがあり、
友人がいて、楽しみもある。けれど僕にはあなたしかいないのだから。


5,話しかけて。例え言葉を理解できなくても、気持ちはわかるから


6,あなたが僕にどう接してくれたか、決して僕は忘れない


7,僕を叩く前に思い出して。僕はこの歯であなたの骨を簡単に噛み砕いてしまうことが
できるけれど、あなたを噛まないと決めていることを


8,僕が言う事をきかないとか、頑固とか、怠けていると叱る前に、
僕がそうなっている原因があるんじゃないかな?って考えてほしい。
食事に問題があるかもしれないし、日が照り続ける屋外に放置していたことかもしれない。
年を取って弱ってきているかもしれないってことを。


9,僕が年を取ったからといって邪険にしないで。
あなたもまた同じように年を取るのだから


10,最後の時まで、どうか側に居て。
「見ているのが辛い」とか「もう見ていられない」なんて言わないで。
あなたが一緒にいてくれるだけで充分だから。
そして、僕があなたを愛していたことをどうか忘れないで。





※本文中出典元が英文のものは、サイト管理者が意訳のため翻訳を間違えている部分があるかもしれませんのでご了承ください。
一部原文を改変している部分があります。



出典:【海外:世界の忠犬ハチ公、アメリカ編】亡き飼い主の墓の上ですすり上げて泣く犬が世界中の感動を誘う(動画あり)











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「高額年俸より広島愛」(中国新聞・2014年12月27日付の運動面)


黒田博樹投手は、
2014年、メージャーリーグからの高年俸の提示を蹴って、
古巣広島に戻ることを決断しました。



あらゆる価値判断が金額で決まるドライな世界に、

「現代のおとぎ話」のようなストーリー。


2014年の暮れ、広島に幾万幾千の赤い涙が流れました。




今の日本でこの男ほど、

「男気」

「男らしい」

「サムライ魂」

という言葉が似合う人物はいないのではないでしょうか。





黒田は典型的な遅咲きの投手。


高校時代の序列は3番手の投手で、
頭角を現してきたのは大学に入ってから。


1996年、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。


初年度は6勝を挙げたが、同期でドラフト1位で入団した
澤崎は12勝を挙げ、新人王を獲得しました。



その後、

2005年、最多勝利

2006年最優秀防御率賞

を獲得。


2006年にFA権を取得し、他球団へ自由に移籍することが
できるようになりました。


それまでの数年間で、広島の主力が同じリーグで戦う
阪神などへ移籍するケースが相次いでいたため、
「ついに黒田もか」と言われました。


FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせている中、
ファンが動き、広島市民球場外野席に巨大横断幕を掲げました。


それには次のように書かれていました。

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我々は共に闘って来た

今までもこれからも…

未来へ輝くその日まで

君が涙を流すなら 君の涙になってやる

Carpのエース 黒田博樹

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更にシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の
赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げました。


黒田は後に「あのファンの気持ちは大きかった」と述べています。


結局この年、他球団から破格の好条件を提示されたにも関わらず、
広島と複数年契約をしました。


彼は広島に残る理由として、

「共に戦ってきたカープのファンと選手を相手にボールを投げるのは想像できなかった」

と語りました。



しかも、

「今後も国内他球団の移籍はない」と明言し、

国内なら「生涯広島」を宣言しました。





黒田博樹男気伝説はここから始まりました!




2008年、黒田はメジャーリーグに挑戦します。


当時のメジャーから黒田に対する評価は決して高くなく、
阪神のほうがはるかに好条件を提示していたといいます。


しかし、黒田は先の言葉通り、「国内他球団」に
移籍することなく、アメリカに渡りました。





黒田の日米通算成績(2014年まで)は、182勝168敗。


しかし、黒田は所属した日米3球団すべてで打線が弱く、
援護に恵まれなかった不運がありました。


そのため、通算の勝ち星などは、ごく表面的な数字で、
実際の価値ははるかに大きいといえます。


2014年にはメジャー通算で、
QS(クオリティスタート、6回以上を投げて自責3以下)を達成した試合で
30敗目を喫しました。

この数字は過去7年間でメジャー最多でした。


つまりそれだけ打線の援護がなかったということ。


しかし、勝ち星よりQSを重視するメジャーでは
非常に高い評価を受けていました。


2014年、ヤンキースからは必死の引き留めが行われました。

ヤンキースのみならず多くの他球団からも、
20億円前後の超高額年俸が提示されました。


そして、黒田が出した結論は、


「花から根へ」


メジャーリーグの21億を蹴って4億の古巣広島に
戻る決断をしました。




最後に、スポーツ記者の田代学氏が寄稿した文章を
引用させていただきます。



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【不言実行の男・黒田に泣かされた… ダッグアウトの裏側】


もう書かせてもらってもいいだろう。米大リーグから8年ぶりの広島復帰を決めた
黒田博樹投手(39)には、泣かされたことがある。


 2012年のシーズン中だった。その2年前の夏に、
幼いころから熱狂的な広島ファンだった実弟が急逝。


当時ヤンキース担当だった筆者は試合前のクラブハウスで黒田に
「弟の三回忌に出るため一時帰国します」とあいさつした。


 試合後は、普段通りにクラブハウス内で取材。


引き揚げようとしたところで、二村健次通訳(現レンジャーズ)から呼び止められた。


「これ、さっき帰った黒田さんからです」と手渡されたバッグの中には、
試合で使ったスパイクやサイン入りのアンダーシャツなどが入っていた。


この心遣いには筆者以上に両親が感激。
黒田に感謝しながら三回忌の墓前に供える姿が、涙でかすんだ。


そんな黒田だからこそ、広島復帰にも慎重な姿勢を貫いていた。


ヤンキースでの昨季年俸は1600万ドル(約19億円)。


古巣だからと年俸額を度外視して復帰すれば、FA市場の相場を破壊し、
大リーグでプレーしている他の日本人選手に迷惑がかかると憂慮していた。


今後のFA交渉の席で「高年俸で大リーグに残ることができた黒田でさえ、
古巣のために低い年俸で戻ってきたじゃないか」と、日本の球団に悪用される
ことを恐れていた。


今季の年俸は4億円(推定)プラス出来高。


それでも復帰へと傾いたのは、広島市を昨年襲った土砂災害が
きっかけになったと思っている。


オフに入ると黒田はひそかに現地を訪れ、被災者やボランティアを励ましたという。


来月10日で40歳。


復興の願いを投球に込め、残り少ない現役生活を広島にささげる決断をしたのだろう。


黙って行動する男らしい選択。


再びカープのユニホームで投げる姿を、弟にも見てほしかった。


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引用;夕刊フジ 2015年1月31日(土)







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