東京ディズニーランドが人を魅了し続ける理由 | 心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

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ウォルト・ディズニーは、
当時遊園地といえば子供だけの遊び場だった中、
大人も楽しめる遊園地をつくることを考えました。


その理想を現実化したのが、ディズニーランドでした。


しかし、従来になかった発想だったことから、
最初はなかなか賛同を得られませんでした。


ウォルト・ディズニー曰く、

「みんなから忠告されたよ。
ディズニーランドはハリウッドらしいハデな失敗劇に終わるだろうってね」


そのため、
「ディズニーランド」を作る夢への資金提供を、
実に302回も断られました。

どの銀行からも、頭がおかしいように言われたといいます。


彼がディズニーランドの予定地を初めて見たのは、
1953年のことでした。

あたりは何もない一面の平地で、川も山も、もちろんお城もロケットもない。
ただオレンジの林と何エーカーかのクルミの木々があるばかりだったといいます。


このようなのどかな場所に人が集まるとは、誰も予想できませんでした。
ウォルト・ディズニー以外は。



彼はオープンにあたり完璧を目指しました。


アドベンチャーランドにそびえる木が歩道に近づきすぎるとみるや、
6トンを超える大木を引き抜き、少し離れた場所へと植え替えたのです。


1955年7月17日のオープン当日でさえ、
彼は成功を目指してどんどん次の手を打ち続けていました。


それは彼の次の言葉に表れています。


「これは決して終わることのない何か、

常に育て続けることができる何か、

新たに伸ばし続け、

加え続けることができる何か。

ディズニーランドは生きているんだ。」



そして次の言葉は彼の名言として語り継がれています。

「ディズニーランドは永遠に完成しない」



また、ディズニーランドの理念として次のことを語っています。

「自分のために作るんじゃない。

人が何を望んでいるかを知り、その人たちのために作るんだ」


スタッフに対しては、

「ここにくる人たちはただのお客ではなく、ゲストとして迎えてほしい。」


従業員向けの手引き書で、彼は次のように説明しています。


「何百人という職人や大工、エンジニア、技術者、科学者、熟練工たちが
技術と才能をひとつにすることで、ディズニーランドの夢は実現しました。

彼らの夢は、今あなたたちが受け継ぐ伝統になっています。

今日、そして未来にわたって訪れる何百万というゲストのために、
ディズニーランドを本物の魔法の国、幸福の場所にする仕事を行っているのは、
あなたなのです」


彼はしばらくは昼パークで働き、夜はディズニーランド内の
タウンスクエアにある消防署の2階を自室として寝泊まりしていました。


閉園後にガウン姿で出歩く姿を見とがめた夜勤スタッフは、
その正体を知ってびっくりしたといいます。





そして、東京ディズニーリゾートを経営する「株式会社オリエンタルランド」
が設立されたのは、1960年。


東京ディズニーランドがオープンした1983年から20年以上前のことです。


京成電鉄が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と
大規模レジャー施設を計画していました。


京成電鉄の川崎千春はアメリカで大人気のテーマパーク「ディズニーランド」を
日本に誘致しようと、アメリカのディズニー社に交渉に行きました。


ディズニー社の答えは「NO!」。


ディズニー社からは門前払い同様の扱いを受けました。


その理由は、国内のある会社がカリフォルニアのディズニーランドに行き、
写真を撮って帰国し、ディズニーランドをまねた遊園地を
無断で作ってしまったからです。


アイデア盗用とその低レベルぶりにディズニー社は

「なんとしても著作権を守らなくては」

と言う心境になっていたのです。


そこで「同じ真似はしない」
と説得しても決して信用してもらえませんでした。

この段階では諦めるしかありませんでした。





ディズニー社の姿勢が変化を見せ始めたのは、
それから10年後の1970年代の事でした。


ディズニー社はそれまで世界中から誘致のオファーがあったものの、
フロリダのディズニーワールド建設に力を集中させていました。


そのプロジェクトが成功して、ほっと一息ついたこところに
オリエンタルランドの話が持ち込まれました。


オリエンタルランドでは、ディズニーランドの誘致の責任者として
堀貞一郎を抜擢していました。


堀氏は、テレビ業界の創生期に数多くの有名番組を手がけた
テレビプロデューサーでもあり、その後、大阪万博のパビリオンの企画プロデュース
なども手がけました。


堀氏はオリエンタルランドの取締役就任後すぐに多彩な人脈から
優秀なスタッフを集めました。


基本テーマ及び構想を

「素晴らしい人間とその世界」

と決定。


また、

「この地上に生を受けたことに喜びと感動を覚えることのできる場をつくる」

という明確な目的を持って、レジャー施設の内容を構成しました。


その後、ディズニーランドの首脳陣の来日のときに
誘致のためのプレゼンテーションを行うことになりました。


ところが実際には、日本最大の企業グループが進めていた
富士山麓の誘致計画を実地検分するついでに、
プレゼンテーションをみてやろうという程度のものだったのです。


その時のプレゼンテーションは伝説として語り継がれるほど
素晴らしいものだったといいます。


「・・・私たちは、人々がこの世に生まれてきてよかった、
と思える一瞬を演出したいのです。・・・

『絶えることのない人間賛歌の聞こえる広場を目指す』ことを経営理念として、

そのテーマを『素晴らしい人間とその世界』として提案しております。
いわゆる遊園地ではありません。

地球上で有史以来、人間はこの地上に生まれ、神に感謝し、
人生を謳歌しなくてはなりません。

日本は敗戦によって廃墟と貧困に苦しみました。

そして、そこから経済的に立ち上がりました。
いや、実際のところ、今日では拝金主義的な風潮さえあります。

しかし、その前に約束されるべきは精神的な充実だったのです。
金があっても生きる喜びががない、どんな豪邸に住もうが満足はありません。

そこで私たちは生きる喜びの哲学を次の世代と共同して
作り上げてゆきたいのです。・・・・」



プレゼンテーションの日の夜、ディズニー社の会長は、
日本側のディズニーのスタッフを呼びました。

「オリエンタルランドの情熱はよくわかった。ただちに提携の了解をしたいから、
富士山麓の計画を断って欲しい」

といって即断即決しました。




東京ディズニーランドの工事が始まったのは1980年12月です。


当時1000億円を予定していた予算は、なんと1800億円を超えました。
しかし社長の高橋正知は言いました。


「いくら金がかかってもいいから、本物を作ってくれ。

創る以上はアメリカに勝てるものでなければいけない」


予算を削って貧弱なものを創ってもゲストが夢の世界へ入れるのか?

そこを社長の高橋はよく心得ていました。



人材をたくさん集めるため、次のような
コピーを全面に打ち出しました。


「人々に夢と感動を与え、人々と生きる喜びを分かち合おうとする
『人間賛歌の広場』を作り出す」


「素晴らしい人間とその世界」







初年度(1983年)の入園者数はプレビューを含め、
1036万人と、目標を達しました。


売上高は予想を大きく超える800億円に達しました。


東京ディズニーランドがどれほど人々に人気があるのか
表わしているデータはリピート率。


一度東京ディズニーランドに来たゲスト(お客さん)の中の
90%以上は再び訪れます。


両親と来た子供は「また連れていてね」とせがむし、
中学に入れば友達とやってきます。


やがて恋人とデートに訪れ、結婚して、子供が生まれれば、
今度はその子供を連れてきます。


東京ディズニーリゾートは何度来ても飽きさせないための
努力もしています。


ゲストは一度初めてディズニーランドに来て、二度目に再訪しても新鮮な
感動を得られます。


以前来たときとまったく違うアトラクションが増えているし、
売られているグッズも毎年新しくなっているからです。





東京ディズニーランドが人を魅了し続ける理由は、
創始者ウォルト・ディズニーの意志を受け継いだ堀貞一郎が、
人々の心に響く理念を掲げて始めたことが大きいことでしょう。


共感できる理念だからこそ、1983年の開園以来、
30年以上の間、しっかりと受け継がれているのです。


企業理念である

「絶えることのない人間賛歌の聞こえる広場作りを目指す」

は、サービス内容とスタッフの心の隅々にまで浸透しているといって良いでしょう。










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参考;「ウォルト・ディズニーすべては夢みることから始まる」(PHP文庫)
「感動が人を動かす」(堀貞一郎)

http://blogs.yahoo.co.jp/shinnko9/13566095.html