心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する! -14ページ目

心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

心温まる感動ストーリーや感動研究を通じて、元気や勇気、生きる喜びを高めて欲しい!!(社)日本WEBライティング協会公認ブログです。


最近、企業の集客に従来型のマーケティングではなく、
感動をいかに創出して集客につなげるかという考え方が広まってきています。


その1つの表れとして、
2007年、金沢工業大学には、産学連携による「感動デザイン工学研究所」
(所長:神宮英夫心理情報学科教授)ができました。


最新設備を駆使して心理学から「ものづくり」にアプローチするもので、
感動のメカニズムを科学的に検証し、感動をもたらす製品の研究開発を目指すものです。



「感動デザイン工学研究所」のホームページには次のように書かれています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

感動デザイン工学研究所では、人が感動するメカニズムを科学的に検証し、
人に感動をもたらす製品(感動プロダクト)の研究開発を行います。

感動デザイン工学は、「人の心を感動させる品質構成とは何であるか」を探求し、
設計品質として具現化していく学問領域です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



2014年10月、テレビ東京のWBS(ワールドビジネスサテライト)では、
その<感動>を創出しようとする企業の取り組みを特集しました。


その中での逸話をご紹介します。


豊島キャスター(男性)が
感動を作り届けるという「感動プロデューサー」への取材を行いました。


現在はモノよりもコト、つまり体験や感動が求められています。


そこで、同じ花を贈るのであっても、
贈られる人のイメージに合った花をアレンジして、それをメッセージや
ワインなどとともに、贈ると贈られる方の喜びが高まります。


しかも贈るときに正装した「感動プロデューサー」本人が
お届けするという演出を行うのです。



そのサービス自体は贈られる人にとって、
感動を呼ぶことになるでしょう。



でも私が感動したのは、そのサービスではありません。


演出として、豊島キャスターが同じく番組を担当している
女性の大沢キャスターに普段の感謝を込めて、実際に花を贈りました。


演出なはずなのですが、豊島キャスターが何の照れもなく言い訳もなし。。


真剣に心をこめて行っていたのが、すごく好感が持てました。



しかも、




サプライズとして、同席していた相内アナにも、
感謝の意味をこめた花の贈り物がありました。


実際に「感動プロデューサー」がスタジオに入ってきて、
贈呈しました。


相内キャスターが飛び上がらんばかりに喜びました。
「シナリオ通り」では起こりえない感激がそこにはありました。


その後、豊島キャスターが「感動プロデューサー」とどのように
打ち合わせをして、その花の組み合わせやメッセージを作成したかが
紹介されました。


感動には、「サプライズ」というのが付き物ですよね!!





「感動提供」をただ取材して終わりではなく、
番組そのものが行ってくれて、本当にこころ温まる気持ちになりました。


「演出」だけでは出来得ない「真心」が感じられました。


実は以前からWBSにはこのような雰囲気があって、
ビジネスを追求する番組でありながら、すごく人間味が感じられます。


満足は「期待通り」にすぎませんが、
感動は期待を大きく上回ったときに起こるもの。


それを番組自らが示してくれました。










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参考;
http://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/ade/

私は、SMAPの中居正広が司会をする番組に出演したことがあります。
(芸能人なので、親しみをこめてあえて呼び捨てにします)


時は2008年11月。


私は食品偽装の専門家としての出演しました。


番組は夜のゴールデンタイムに放送されていたTBSの「キミハ・ブレイク」。
その特別企画として、「中居正弘の家族会議を開こう」というタイトルで
行われたものです。


当時の社会問題を4つ取り上げて、それぞれのゲストとともに
みんなで語り合うという企画です。


その1つが

~告発!食品偽装~

主旨は「食品偽装の内部告発は何をもたらすか」



メインゲストが元ミートホープ社員。

食品偽装を内部告発したがために会社が倒産して、
元同僚からだけでなく親戚からも嫌われ、引っ越さざるを得なくなった方。


専門家が私を含め2人。


ひな壇のコメンテーターは、

マツコデラックス、大竹まこと、高田万由子、
水道橋博士、カンニング竹山。


そして司会は、中居正広。
サブに竹内早苗アナウンサーがいました。



私のような「専門家」というのは、出演者の中では、
最も優遇されているようで、私がスタッフに促され撮影スタジオに入ったときには、
出演者全員が揃っていました。


席に着くと同時に、司会席にいた中居正広が、
こちらに歩いてきました。


にっこり微笑みながら

「今日はどうかよろしくお願いします」

と頭を下げてきました。


テレビで見るよりも、目力がありながら、
可愛く澄んだ目でした。


意外と上背もあり、すっきりしていて、
「かっこいい」の一言です!





撮影はぶっ通しで2時間40分に及びました。


テーマが重く、難しい問題であることもあって、
かなり議論が白熱しました。


予め台本が用意されていたのですが、
ほとんど最初から、台本とは違う展開になりました。


それでも中居正広は、だいたいの流れはしっかり
把握していたのでしょう。


非常にスムーズに、そして、議論が深まることとなりました。


私が彼に感心したのは、司会進行のスムーズさだけでは
ありません。


誰より笑いを取っていました!


本来は、お笑い系のコメンテーターが多くいるので、
彼らが、面白いことをいうべきもの。


ところが、本人たちは議論に集中しすぎたのか、
ムキになっていました。


そうなると雰囲気が重たくなり、
バラエティには似つかわしくないものになりかけていました。


それを救ったのが中居正広です。


しかも、誰をも傷つけること無く、みんなの意見の
バランスを取る役目まで果たしていました。


これで好かれないわけがありません。


私は申し訳ないことですが、それまで中居正広を
一アイドルとしてしか見ていませんでした。

少し器用だから司会もやっていると。


しかし実際は類い希な才能を持っていることがよくわかりました。







そしてもう一つ驚いたのが、
彼の過酷な撮影状況。


先ほどこの番組は4つのテーマからなっていると説明しましたが、
すべて同日撮影です。

私の回は、その日の2回目。


司会者だけは立ちっぱなしなので、
単純計算すると2時間40分を2回
やったことになります。


それでも疲れ1つ見せず、機転とウイットに富んだ
司会を披露しました。


私の回の後も、2回の撮影があったはずです。
1日合計10時間ぐらい立ちっぱなしで司会をやったと思われます。


当時、紅白歌合戦の司会を3年連続行っていた時期です。


私はなんとなく超売れっ子は、優遇されて楽ができるという
偏見を持っていましたが、全く違いました。


表には出しませんが、タフでなくては務まらないし、
凄く努力をしてるんだと実感しました。


私は座りっぱなしで、ほとんどみんなの議論を聞いていた
立場でしたが、あの緊張感、緊迫感でめちゃめちゃ疲れました!!


ちなみに撮影時間は長かったものの、
実際に放送されたのはそのたった1/4。

40分程度に編集されたものでした。





日本のテレビ番組の司会の中で、
紅白歌合戦の司会ほど名誉なことはないと思います。


受けるプレッシャーもダントツと言って良いでしょう。


彼はその紅白歌合戦で、1997年に25歳で抜擢されました。


ちなみにその前の3年間の白組司会は古舘伊知郎。

さらにその前の3年間は堺正章でした。

いずれもしゃべりのプロ中のプロ。



彼はそれ以来、紅白に6度の司会を務めています。


2006~2009年は4年連続です。


彼は紅白司会のプレッシャーの凄まじさを

「最初は尋常じゃなかった」と語っています。


5回、6回と司会を経験しても、その緊張感は変わらないといいます。

そのため、中居は本番に備えて様々な準備をするそうです。

「全部覚えるからね、台本みたいなものは」

「カンペも出るんだけど、目が悪くて」

と語り、カンニングペーパーを見ることなく進行することを明かしています。


また、中居は自身のセリフだけでなく、相手役となる紅組司会の部分まで、
すべて頭に入れておくといいます。


中居によれば、紅白に出場する歌手全員とは、あらかじめ面接をし、
その際、中居は台本にそれぞれの歌手に関する
「ひとくちメモ」を加えていくそうです。


本番で、スタッフから「引き伸ばして欲しい」と指示があると、
中居はこの「ひとくちメモ」の部分を進行に加えるのです。


しかし、こういった事前準備をしていても、
ハプニングが起きることがあるといいます。


ある年の紅白本番、目の前でスタッフが「引き伸ばして欲しい」と
ジェスチャーを行っていたため、指示に従って話していた中居。

しかし、中居の台詞がまだ途中だったにも関わらず、
「カン、カン」と曲の始まりを告げる合図が聞こえてきたのです。


それに気付いた中居が即座に「○○さんどうぞ!」と告げたため、
うまく直後に演奏が始まったといいます。


放送では事なきを得たものの、中居はその際のことを

「あぶねえって! ずっとしゃべってたら重なっちゃうから。そういうのがすっげえ怖い」

と語り、紅白の恐ろしさを訴えています。



ORICON STYLEでは

紅白ファンの間では中居が『歴代司会者のなかでダントツ』

との評価を得ているそうです。


最近の紅白の司会はあまりにも不手際、不慣れが多いように感じます。


しかし、しゃべりのプロでもない彼らが尋常でないプレッシャーの中で
行っていることなので、やむを得ないのかもしれません。


それだけに余計、中居の司会の素晴らしさが際立ちます。


あたかも当たり前にこなしているかのようでいて、
実は彼の努力と創意工夫そして天才的なバランス感覚が
あるからこそできる芸当。



中居正広の努力と才能に賛辞を贈りたいと思います。









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参考;

http://news.livedoor.com/article/detail/8416858/
http://www1.plala.or.jp/nakaatsu/sikaisha2.htm
私はアラスカの工場で、
「イクラ」の生産のために数日間過ごしたことがあります。


私が滞在したのは、小さな漁村。


秋のシーズンになると近くの川でサケが捕れます。


そのサケから取れる卵をイクラに加工する仕事のために
やってきました。


日本からは他に6人が技術者として来ています。


私たちが「テクニシャン」と読んでいる方たちで、
そのほとんどが、年中世界を回って、日本向けの魚介類の
生産の指導や立ち会いを行っています。


「テクニシャン」の方たちはここで、1ヶ月ぐらい寝食を
共にして、イクラの生産を行います。


私は、サプライヤー(供給者)や工場運営者と、
テクニシャン、そして私の会社の取り次ぎ役です。


ここは人口わずか数百人のとんでもない田舎。


聞いたところに寄ると、人口より熊のほうが多いとのこと。


だから夜の一人歩きは絶対にしないように
言われていました。


昼間でもよく遭遇します。


冬眠前の時期なので、ちょっと恐いのですが、
私たちの50mぐらいさきで、一心不乱に雑草を
食べていました。


道産子の私でも、このような経験は初めてです。





さて、私が滞在していた工場のほど近くに、
サケのふ化施設があるということで、見に行きました。


施設の近くには幅が10m程度の川が流れています。


そこには、川一面にサケが覆い被さるようになりながら、
上流へ登っていきます。


川がサケであふれんばかりです。


少し登っていくと、二股に分かれています。


一方は細くなっていて、わずかなサケしか登れません。
対して大部分のサケが登っていく太いルートがあります。


細いルートは、そのまま上流に上がって行けて、
産卵できる可能性があります。


太いルートの先には、工場が待ち構えています。
工場の手前でルートが細くなっているので、
それまで以上にサケ同士が覆い被さります。


先を争って一心不乱に登ります。


そして工場内部まで登ると、サケの旅は終わります。


厳しい生存競争を勝ち抜いて、3~4年で大きくなり、
産卵のために戻ってきたサケには厳しい現実が待っています。


工場の機械に送り込まれ、

頭を切断され、

お腹の中の卵や白子が取り出されます。

ガッチャンガッチャンと次々とバラバラにされます。


ここでは、サケは流れ作業で生産される”製品”です。


取り出された卵の大部分は、まさに私たちが生産する
イクラ又は筋子になります。


一部は、専用施設に入れられ、白子と混ぜられ、
新たな”生産”の開始となります。


しばらくしてふ化した稚魚は、放流されて、
アラスカの大海に放たれ、再び同じサイクルが行われるのです。






私はその姿を目の当たりにして、
本当に切なくなりました。


直感でいえば

「サケが可哀想」


サケの生態や本能を利用して、
食品を生産するその様は、人間に対する一種の恐怖すら覚えました。


産卵を目指していた数えきれないほどのサケが
次々と首が切られ製品になっていくのです。


以前、アイルランドで牛のとさつを見たときと
同じような感情が起こりました。

そのときは、次々とのどもとを切られると一気に逆さにつられて、
コンベアーで運ばれていくのを見ました。






しかし、現実として、
人間は、サケや牛に限らず無数の命をいただいているからこそ、
生きていける存在です。


命をいただくということは、
必ず殺す行為があります。


昔から世界中どこでも行われていることを、
自分の目で見たからといって、動揺するというのは、
単に知らなかっただけ、ともいえます。


いくら人間がきれいごとを言っても、
他の命の犠牲のうえに私たちの命が成り立っていることは
厳然とした事実。


特にここアラスカのサケの卵は、
自分たちの子孫を残そうと必死で泳いで育くんできたもの。


それを利用して、
多くの日本人が関わって美味しく生産され、
日本の食卓に上ります。



私たちが何気なく食べている命の
1つ1つに物語りがあることを思い描いてみては
いかがでしょうか。









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神奈川県茅ヶ崎市に
神奈川県茅ヶ崎市に「湘南サドベリースクール」という学校があります。


公立でも私立でもない新しいタイプの学校です。


既存の学校以外の選択肢で、
カリキュラムもテストもありません。


4歳から18歳まで同じ場所で学び、遊びます。
基本的に子供が好きなことを自由に学べる学校です。





私がこの学校の存在を知って、そのユニークな
教育方針に惹かれました。


私は以前から日本の教育には疑問を持っていました。


学力偏重、暗記偏重で、勉強の序列が下位になることで、
「落ちこぼれ」と言われ希望を無くする子供も多い。


希望や生きる力を育くまないから、
不登校や引きこもりが多くなり、社会問題化しています。


ただでさえ日本は子供が少ないのにその宝を
死なせてしまっているのは大きな国家的損失です。


私はこのとき正直「湘南サドベリースクール」が
どれだけ良いかはわかりませんでした。


わかりませんが、少なくとも1つの有力な選択肢にはなると感じました。
特に不登校の子には救いになるはずです。


私は会社で動画制作を行っていたので、
紹介動画を制作することならすぐにできます。


少しでも多くの人に、存在を知ってもらいたいと
思いました。


そこで、校長と連絡をとったところ、
非常に喜んでくれて、撮影、制作をしました。


学校の特徴を語ってもらった3分ぐらいの動画を
ユーチューブ上で公開しました。

もちろん無料で行いました。



そしてしばらくは、
何もないまま時が過ぎました。



約3年経過した後、
当時スタッフだった女性からメールがありました。


内容は次のようなものです。


「動画を制作していただいて3年が経過しましたが、

お陰様で子供の人数が当時から大幅に増えました。

つきましては子供たちみんなと、

御礼をさせていただきたいので、お会いできないでしょうか」



正直、3年前は、生徒人数が数人しかいなく、
「このままでは続かないな」
と感じていたので、まずは生徒数の増加に少しでも
貢献できたかと思うと大変うれしかったです。


うれしいことはうれしかったのですが、
少し複雑な気分になりました。


それは、直感的に新しい動画を制作して欲しい
と頼まれるのではと思ったからです。


実はこのとき、会社の決算が赤字続きで、
大変なときでした。


毎月毎月頭をかかえているありさまでした。


ただでさえ厳しいのに、人件費をかけてボランティアで
動画制作をする余裕がありません。


ですので、もし頼まれたら、
やんわりと「今すぐは難しい」といって断ろうと思っていました。





待ち合わせ場所は、
駅近くの共有スペース。


学校のスタッフと一緒に10人以上の生徒たちが
やってきました。

生徒たちはみんなすこぶる元気!!

そしてめちゃめちゃ楽しそう!!

まさしく自由にのびのびと育ってるんだな~
という実感が湧きました。



スタッフは私と挨拶した後、
子供たちを後ろに並ばせました。


そして、みんな一斉に

「3年前はどうもありがとうございました!!」

と頭を下げて御礼してもらいました。


さらに子供の手作りのお菓子もいただきました。


やっぱりうれしいです。


何気なくやった協力が、3年経っても
スタッフはもちろん子供たちにも影響を与えていたわけですから。


しばらくは近況の話をしました。
その間子供たちが何度も何度も
御礼を言いに来たりします。


運営もうまくいっているとのことだったので、
それは良かったというで話が終わろうとしたところ。


スタッフに促されて生徒の中の一人が、僕の前に出てきました。


そして

「もしご迷惑でなければ、新しい動画を制作していただきたいのですが、
いかがでしょうか?」



当初は断る予定でしたが、
話の流れ、そして子供に頼まれたからには、断るわけにはいきません!


「もちろんいいよ!!」





撮影は私と前回のときと同じカメラ担当者とで行いました。


生徒は各人それぞれ、映りたい人と映りたくない人、
体だけ映りたい人など色々います。


それぞれの親にも許可を得なくてはならず、
手間と時間がかかります。


しかし、最終的には時間をかけただけのことはある、
満足のいく動画が出来上がりました。




納品完了後、スタッフから、
また生徒全員で御礼をしに行きたいと連絡を受けました。


私は、改まって御礼されるほどのことではないことと、
仕事が忙しいという理由で、辞退しました。


今考えれば受けておくべきだったと思います。
先方は御礼がしたいのですから、その気持ちを大事に
しなくてはなりません。




しばらくして、会社に「湘南サドベリースクール」
からのお届け物が届きました。


中には、お菓子と寄せ書きされた色紙が
入っていました。


色紙には大きく、私とカメラ担当の名前が書かれ、
言葉や絵で感謝の意が伝えられていました。


感激です!!


財政的に苦しい中、
それを押して制作した甲斐がありました。


みんなに感謝されることは非常にうれしいこと。
でもそれは私個人の話。


それ以上に重要なのは、そこにいた生徒たちが、
私たちの行動をみて、人に貢献するというのは
どういうことかを感じ取ってもらうこと。


そして、すぐにでもいいし、大人になってからでもいい。
親切の連鎖をつなげて欲しいと思います。


私の行為が、そのきっかけになるのであれば、
それ以上の喜びはありません。



いただいた寄せ書きは今でも
会社の掛け替えのない財産として壁に飾ってあります。









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私の母が昨年(2014年)亡くなりました。


腎臓を患い、入院してはいたものの、1週間前までは
元気でいつ退院できるかと話していたほどでした。


ときは3月。


娘は大学、息子は高校とどちらも第一志望を合格することが
できていたことで、それをもの凄く喜んでくれていました。


特に娘は、母があこがれていた美術大学に合格していたことで、
自分のこと以上に喜んでくれていました。


後から見つかった日記にはこう書かれていました。

「○○ちゃんが美大合格!やった!生きていて良かった!」




ところがその数日後に容態が急変しました。


危篤状態に陥った後、一度は小康状態を保っていたものの、
結局は帰らぬ人となりました。


その時付き添っていた私の女房の話によると、
次のような状況だったといいます。


容態が安定していたために、
3月27日の夜中の12時近くに、一度帰ろうとしました。


その報告を看護士さんにしたら、少し待つようにいわれ、
ちょっとした確認手続きをさせられて、思いのほか時間がかかって
しまいました。


「なんでこんなに待たされるんだろう」
という時間だったといいます。


そうしているうちに日付の変わり目の12時になりました。


するとまるでそれが合図だったかのように、
母に繋がっている医療機器が警告音を鳴らし始めました。


容態の急変です。


すぐに担当医もかけつけました。


しかし、手当も空しく約1時間後に息を引き取りました。


日付は3月28日。


実はこの日は母の母、つまり私の祖母の命日でした。


母は祖母が大好きで、
常々「私を見守ってくれているのはお母さん」と話していました。


祖母は祖父に日常的に暴力を振るわれていて、
その境遇が自分に似ていることからも、心の支えにしていました。


「お母さんと比べれば私の苦労なんてたいしたことない。。」と。


そんな”見守ってくれている”祖母の命日に日付が変わったと
同時に、あの世に行く準備を始めたということは、偶然というには
あまりに不思議です。


そしてそれを女房に看取ってもらうために
引き留めたように思えます。


看取る役目を兄でも私でもなく、
私の女房を選んだと考えると、それも母らしいところ。





母の死で、
特に父の持つ喪失感は非常に大きなものでした。


父は母と札幌のグループホームの2人部屋で暮らしていました。


そして子供は私と兄の2人がいて、
2人とも遠く離れた東京近郊に住んでいたので、両親には長年
寂しい思いをさせてしまいました。


父は封建的でわがままな性格で、母を女中のように
扱っていました。

どなり散らすことが多く、時には暴力を振るうこともありました。


私と兄は、母が可哀想でずっと別居や離婚を勧めていました。


しかし母はがんとして受けつけません。


母曰く

「あの人はどこまで追いかけてくる。それこそ居場所突き止められて
何されるかわからない」

そして、

「私がいないと生きていけないんだから。可哀想な人だ」




兄は、わがまま放題の父を寿命を縮めながらもかいがいしく
世話する母を「神だよ」とまで言っていました。


先述したように母の心の中には、祖母はもっとひどい目にあっていた
という心の支えがあったのです。


一方で母は大変明るく積極的な性格でもありました。
若い頃からアナウンサーや司会などで働きながら父の世話と、
2人の子育てをするという大変パワフルな人でした。


80歳近くでありながら、携帯電話を使用していて、
メールまで送っていました。





葬式後、私たち兄弟は東京に帰りました。


父は母と住んでいた2人部屋で、遺影とともに1人で
過ごすことになります。


私が帰った直後から、携帯電話が頻繁に鳴り出しました。


父からです。


父は泣きながら

「寂しい。どうして良いかわからない。いっそ死にたい」

と訴えます。


無理もありません。

60年近くもの間、
頼りに頼っていた連れ合いを亡くしたのですから。


私が慰めると、少しは落ち着くのですが、
しばらくするとまだ電話してくるの繰り返しです。


兄にも同様の電話が行っていました。


やがて
異常に連続して電話してくるようになりました。


私もいつも出られるはずがありませんし、
かなりうんざりしてきました。


私には、父はさんざん母にひどいことをしてきて、
母の寿命を縮めた張本人という思いがあります。


「自業自得」という言葉すら浮かびます。





そんな気持ちで着信履歴を見ていると、
我が目を疑う履歴が残っていました。


十数件ある履歴のほとんどが、
父からのものだったのですが、
2件ほど母からのものがあるではありませんか!!


首筋に異様な寒気が走りました。。。


母の携帯は遺品として大切に保管しています。
誰もいじれないはずです。


どう考えてもあり得ません。。


電話の不具合か?
いや、そんなばかな。。。。。






母はわがままし放題だった父に対して

「私がいなければ生きていけない」として、

いつも気に掛けていました。



私たちが理解できないぐらいに。



「母からの着信」は、

天国に逝った母が「父をよろしくね!」という

気持ちをこめたメッセージだったのでしょう。











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