リストラ要員からウナギ販売NO.1の軌跡 | 心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

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私は、以前ウナギの蒲焼きを日本一多量に販売していました。


しかし、そこに到達するまでは幾多の波乱がありました。


私は30歳前後のとき、ある商社の水産部で
「赤魚」(粕漬けなどで食べられる)を担当していました。


主にノルウエーやアイスランドから輸入して、日本の大手市場や
問屋、加工会社に卸していました。


担当して数年間は順調に業績を伸ばしたのですが、
その後、担当をはずされる失敗を犯しました。


それは、輸入した赤魚の色が悪かったのです。


赤魚は赤ければ赤いほど価値があります。
ですので、漁獲すると同時に酸化防止剤につけて、
色が落ちないようにします。


この処理が不十分だと、時間が経つに連れて色落ちして、
2級品になります。


私が輸入した赤魚は現地で検品したときは良い色だったのですが、
日本に来てみると、色落ちしていたのです。


検品が甘かったと言われて、
反論の余地がありません。


結果的に約1千万円の損をすることになりました。


この世界はそれまでいくら儲けていても、
1回失敗すれば評価が180度変わる世界。


私は担当をはずされたうえ、
翌年には、それまでいた東京事務所から
大阪事務所へ転勤することとなりました。






大阪では専らニシンや数の子担当の下働き的な仕事をしました。


何もかもが初めての商材です。


しかし、もう中堅の立場であることと、東京で失敗してきているという
先入観からか、非常に厳しい扱いを受けました。


「そんなこともわからんのか!アホか!」
と人前で何度も怒られました。


自分では仕事ができるほうだと思っていたし、
やる気も人一倍あったので、悔しくて悔しくて、
人知れず男泣きしたことも何度かありました。


失格の烙印を押され、
なんと1年で東京に戻されてしまいました。


そんな経緯で戻ってきた私が歓迎されるはずがありません。


私はやっかいものなのがすぐにわかりました。
とりあえずサケの担当者の下について雑用をやるようになりました。


本来、中堅である私は、商材の責任者として部下をひっぱって
いく立場でなくてはいけません。


しかし私はその”部下”でしかありませんでした。


上司との人事評価の面談のときに言われた言葉は、

「君には可哀想だけども低い評価を下すしかない」

というものでした。


私には居場所がない状態です。


少しすると、新規ビジネス開発担当(水産物)になりました。


聞こえは良いですが、実はこれは私の最終試験。
これで成果が出なかったらリストラ対象、というのが
確実でした。


当時の会社の水産物の部署はかなり大きな規模でした。
だから、そこそこ有望な商材はすべてに担当がいました。


私は新規開拓といっても、既に担当がいる商材には手を
つけられないので、それ以外のマーケットが小さい商材を
やるしかありません。


多くの人がチャレンジして失敗している仕事です。


それでも私は成果をあげなくてはいけません。


そこで、ニュージーランドの金目鯛や、
中国のサゴシ(サワラの幼魚)などを扱いました。


マーケットが小さい=大きくは儲からない
ということです。


会社の規模から考えると割に合いません。


1年近くやりましたが、新規であることを差し引いても
思わしい結果にはほど遠い状態でした。


もうリストラされることを覚悟するしかありませんでした。


しかし、そう諦めかけていたときのことです。


サゴシのバイヤーから

『「中国産ウナギ蒲焼き」輸入しないの?』

と聞かれました。


うちの会社では誰もやっていなかったからです。


今思えば、それが私のその後の運命を決める一言でした!





ウナギはそのとき急激に輸入量が増えていた時期です。
ウナギの養殖と生産が台湾から人件費の安い中国に
シフトして急拡大していました。


しかし、輸入量が急増するということは、価格が下落していることを
意味していて、取り扱うには非常に難しいものです。


買ったものが売れなくなって在庫になったら
すぐに大損することになります。


しかも単価が高いものなので、品質リスクも高いのです。


だから始めるにはかなり勇気が要ります。





ただ、そのときの私に失うものはありません。


ウナギのマーケットは十分に大きいので、
間違いなく将来的な可能性はあると感じていました。



当時、リストラ対象でへたすると大損しそうだと
思われていた私が危険きわまりないウナギを始めたわけですから、
周りはみんな成功するとは誰も思っていなかったでしょう。


こうして始めたウナギの蒲焼きは、
周りの予想に反して、年を追うごとに扱い量が増え成功しました。


今でもよく覚えているのが、
始めて半年ぐらいしてからの上司の一言。


真剣にそして柔和なまなざしで、

「お宝を掘り当てたんじゃないか?」


これは大きなビジネスになる予感を感じ取ったから
出た言葉でしょう。


その予感通り、
5年後には、1年間で売上30億円、利益3億円を記録しました。


販売数量は2300トンで、これはウナギ約1100万匹に相当します。


上司や駐在員などのサポートがあったからこそとはいえ、
基本的に、これらの仕入れ販売をほとんど私一人で行いました。

他には別の担当者と掛け持ちの事務員が一人サポートしてくれていただけです。


私への評価が今度は良い方向へ
180度変わったことは言うまでもありません。



悔しかった日々も腐らずに頑張り続けたからこそ、
たどり着いた結果といえます。



人間、付いているときと付いていないときがあります。


付いているときは、付かなくなるときに備え、
付いていないときは、付くまで我慢して頑張る。



そうすれば必ず報われる日が来ることは、
疑いようがないことです。








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