散るをいとふ世にも人にもさきがけて | みんななかよく

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 別のエントリーの流れで、三島由紀夫の辞世の和歌を評釈します。

 

 二つあるらしいけど、この歌。


 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

 一読、意味がわかるから誰も現代口語の散文に訳さないけど、古典和歌、江戸時代の和歌などだと、そんなに難しくなくても訳すのが、学校で習う古文ですね。

 

 訳してみると、歌の評価が変わって見えるよ。

 

 「散るをいとふ」→「散るを厭う」ですね。花の散るのを憂きこと、嫌だなあと思う。その次の「世」と「人」に連体修飾していると考えられます。ここではっきり言いますけど、和歌でも短歌でも、文法的にきちんと説明できるのが基本です。文法なんかでは本当のよさがわからないという人は、文法がわからないにとどまって、和歌の意味などもっとわからないだけ。

 上の句、 「花が散るのを厭う世の中、あるいは世人に先がけて」と口語で受け取っても、そう間違いはないでしょう。「さきがけて」は今でも使う意味と同じでしょう。この場合は、世の中の人に先駆けて散るのですね。

 

 世の人々は花の散るのを残念だ、惜しいと古来から詠んできたわけすが、そうした「散るをいとふ」世や人よりさきに、いや散ればこその花なのだと吹く小夜嵐、というのですが、学校では、体言止めは、「ということだなあ」と妙な訳をつけた。

 

 「・・・散ればこそ花の面目だとばかりに吹く小夜嵐であることだなあ」みたいに訳すのです。

 

 小夜嵐が、未練たらしくしないで、さっさと散ってしまいな、とばかり花に吹くのだというと興ざめだけど、この歌に出てくる名詞は、「世」と「人」と「花」と「小夜嵐」ですから、主体となるものの関係から言うと、「小夜嵐が吹く。散るこそ花と」ということですから、上に掲げた訳はそうはずれてはいない。

 

 世に恋々とせず潔く自決した文武の人にふさわしい辞世といえばいえますが、歌としてはおさまりが悪いところがあります。

 

 順番に行きましょう。

 初句、「散るをいとふ」の字余りは強さがあってなかなかいい。初句の字余りは緊張感を生みます。

 新古今時代の歌人、宮内卿という少女(かどうかわからないけど、若くして亡くなったらしいと推定されています)が、歌合で「聞くやいかに」と自作を詠みあげたら、その場の一座はどよめいたというエピソードもある。

 

 初句の強さから比べ、次の「世にも人にも」というのは少し緊張感に欠ける。この辺は個人の感覚でもあり、和歌を作ろうと思わないと感じないと思うけど、「散るをいとふ○○○の人にも」という言葉の続き柄だと、破綻のない詠みぶり。ここに「浮世」とか入れられればいいんだけど、それだと意味と語感がふさわしくない。

 

 ともかく世の中や世の中の人に先がけて、潔く散る花、桜のような心映えで作家は自決しようというのですが、そのあとの「散るこそ花」の句が、きっぱりして強いのだけど概念的にも思える。

 もっともフォルムが悪いのは結句の「吹く小夜嵐」です。

 「吹く・小夜嵐」という形、学校文法的に言えば連用修飾でしょうが、終止しているようでもあり、これは「句割れ」というんでしょう。

 一つの句の中が二つの単語に分かれ、またそこで断絶がある。連用修飾で続けるようにも、「「吹く」で一旦終止形で文章を切るようにも読めるのです。連用修飾としても「秋の山風」のようななだらかな続きようではない。

 

 この句割れは調べを壊している。体言止めで収める形は精神の緊張を伝えるのだけど、この句割れが異常な状況で詠まれたこの歌の意味の強さを「調べ」の上で表現しているのか、ちょっと微妙です。

 「小夜嵐」って5音の言葉が、使い勝手が悪いんですね。俗に流れるけど「大和魂」だと7音で、結句にぴったり収まる。中世和歌なら、こうした5音の言葉は「小夜嵐かな」とか「かな止め」にするでしょうが、この場の辞世で「かな」と感慨をもよおしているわけにもいかない。

 

 まあ、でもしょうがなかったんでしょうね。この言葉の配列は。

 ただ、「小夜嵐」とは何のこと?何のメタファーと問いただされると、何の意味もつかない。小夜嵐は自決しようとしている三島の意志でもない。

 

 現代の短歌としてみたら、変な歌です。和歌としてみれば古典和歌(細かく言うと中世和歌)としてあってあり得るかもしれない歌の姿ですけど、そんなにすっきりした歌ではない。

 

 パー、パーツが古典和歌の姿で、日本の伝統の和歌の末に連なる作品ではあるけど、近代的な感覚で読もうとすると、未熟なような変な感じを受けると思う。


 

  「小夜嵐」を句の結びに持ってくると、歌の姿が悪くなるんだよなあ。

 この五文字は、中の五に置く方が、あがきがいいなあ。

 

 散るをいとふ人は知らじな小夜嵐かぜに飛びゆく花の命を

 

 というようににすると、意味はともかく形はすっきりする。

 訳は、「散るのを厭う人は知らないでしょうね。小夜嵐で吹く風に舞い飛ぶ花びらにこそ命の輝きがあることを」

 みたいにつけておきます。近代的な意訳で、古文は「花の命」といえばそれで済む。

 

  おそらく誰でも、桜は、散ればこそ桜だと思っているでしょう。そして

 

  散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世に何かひさしかるべき

 

 

 とも思っている。三島の決意も諦念も、そんなにやけを起こしたものでなく日本の「文化伝統の中では当たり前の心です。このような辞世を近代感覚で、個性がないというのは方角違いです。和歌はそんな個性を表現する器ではありません。

 でも、こういう感覚は、実作しないとわからないかな。 

 

 追記

 「散ればこそ…」は、もちろん「伊勢物語」の、「世の中に絶えて櫻のなかりせば…」の歌に続く歌。

 

 宮内卿の歌

     寄風恋

  聞くやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは


 

 「かぜに飛びゆく花の命を」だと、花びらが遠くまで吹かれゆくから、「かぜに飛び交ふ」のほうがいいかな。