このところ関連エントリー、1 、2 、3 、4、 をあげている列車内レイプ事件と関連セクハラコメントについて、この映画を思い出しました。
「告発の行方」(1989年公開)
監督: | ジョナサン・カプラン | |
製作: | スタンリー・R・ジャッフェ | |
シェリー・ランシング | ||
脚本: | トム・トポル |
出演: | ジョディ・フォスター | サラ |
ケリー・マクギリス | キャサリン |
以上の基本情報はここ からコピー&ペーストしました。
ストーリーは 関連 を参照のこと。
映画に疎いわたしもこの作品はビデオを借りて見た記憶があります。
ジョディ・フォスター演じるヒロインがレイプされて、訴えて裁判で闘うお話。だいぶ忘れてしまったけどストーリーを読み返すと法廷物の要素が強いんだな。
なんかうらぶれた酒場でホットパンツにシャツのみなりのジョディ・フォスターが酒か薬でハイになって、踊るような身をくねらせるような仕草をしていたら、居合わせた男たちがその気になってレイプして、周りの男が囃し立てたってのは何となく覚えている。
あんな挑発的なことをしたんだから、その気があったんだろう、って話になりそうなところを裁判で闘うんですね。
ジョディ・フォスター様が色っぽくしねしねするのだから、「わーかっこいいい」とわたしも思いますし、「エッチしたいー」というのは十分に理由のあることと思います。
でもなあ。・・・襲うというのがなあ。
女性が嫌がっているから、無理やり押し倒してはいけないという前に、あんなに色っぽくてそそられたんなら土下座してお願いするほうが、いっそ潔いと思いもする。
なんか襲うというのは、自分がみじめじゃないか、という気がしたり・・・。そう思いません?
ずいぶん前に、女好きで知られる役者だかが、週刊誌の対談でどうしてモテるかみたいな話をしていたんですが、「もうひたすらお願いしまくる」と言っていて、思わず笑ってしまいました。笑ったけど、そうか、女性にしてみれば相手に熱意があるとかではなく、気取って自意識の重い奴などうるさくてやだけど、あっけらかんとH,Hっていっている男のほうが付き合いやすいかなあ、と思ったものでした。残念ながらもって生まれた性質で、わたしには真似ができないけど。
だから色っぽく踊っている見知らぬ綺麗なねえちゃんにそそられたのなら、「わーい、、お願い」ってほうが、自然というか自分の範囲というか。そこで襲っちゃうって、自分が壊れたような気がする。だって女見たら襲うのがデフォってわけないでしょ。普通の人間、いくらなんでも。
まあ、そこで、「げへげへ、本当はやりたいんだろう、ねえちゃん」って思考がポルノサイクルになるんだろうけど、そこがまた何だかダサいというか、なんというか。滑稽本とか落語にあるように、初めて芝居をみた田舎ものが真に受けて舞台に飛び上がって悪役に殴りかかるのと、ポルノサイクルで思考するのと、なんか似ていると感じるからかなあ。
自分でも分析しきれてないんですが、男はそそられたら襲っちゃうってのが、それほど納得できない。理性で抑えるとかなんとかというのともちょっと違ってね。
もちろん、人間は罪業深重な身でありますから、襲うかもしれないよ。わたしだってレイプ犯になる可能性があるとは思うけど、それは、金のためなら友達や仲間を裏切るとか、名誉欲のために人を踏みつけにするとかの可能性と同じようにあるわけです。
男はみんな襲うものだ、なんてえらそーに言うことか。
なんかちゃんとした映画を例示したのだから、もっとまともな文体できちんとした論考をかけばいいんだろうけど、ぐしゅぐしゅな話になっちゃった。
でも「男はみんな野獣」みたいな言い方を、当然のように宣言する心理と言うのが、なんか卑俗な気がする。そういうのって率直でもなんでもなく、独善と浅慮ではないか。
そして、「男の本性」なるものを本音として語るという姿勢と、「平和」、「平等」、「自由」などの価値を言うものを未熟や偽善として嘲る姿勢とが似ているように思います。
かの馬鹿コメも、そういう点では典型的にヘイトコメントで、だからこれだけこだわってあたしが何度も関連エントリーをあげたんだろうな。
もとの事実は重いから、長崎市長銃撃と同じように、そうたやすく論じることにためらいがあるんだけど、あの馬鹿コメ(言っている内容を自分でも信じていないだろうからその意味ではネタだろうけど)の元となっている、「男は野獣」みたいな社会意識、あるいは、「告発の行方」で周りの男たちが囃し立てたような共犯感覚というのが、ひじょーに不愉快。これも「平和なんてあまっちょろい」と言い募る態度を連想させるからか。
「ヘイトコメントを哂え」の補助として始めたこのブログとしては、どうしてもこだわってしまうのであります。