浮足立たないこと、読み続けること | かんちくログ

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1発屋どころか、まだ1発も打ち上がってませんが。勝負は、これから。

小説を書くのに必要なスタンスは、浮足立たないことじゃないだろうか。地に足をぴたりとつけて、疑いながら世の中と自分の心をじっと見つめ、誰も拾い上げない小石を拾い上げて磨き上げ、新しい価値として提案する。

よく引用するけれど、ボリス・ヴィアンの「心臓抜き」という小説の中に、栄光という名前の舟に乗って、橋の上から投げ捨てられる人々の恥を、川に飛び込んで顔を汚しながら拾い上げる男の話が出てくる。人々は、おかげで自分たちの恥を忘れることができるから、その男に代償として黄金をあげる。男の孤独な小さな小屋は黄金でいっぱいになる。だが、その黄金で男は何も買うことはできない。誰も何も売ってくれないから。

これがわたしの小説家のイメージだ。
陰気で孤独な仕事なんだ。

世の中はハッピーで悪いことなんて何もなくて喜びに満ち溢れているよ!なんてことを表現したかったら、きっと小説以外のものの方がよく似合う。音楽がある。歌がある。ダンスがある。絵がある。ファッションがある。テレビがある。演劇がある。映画がある。ゲームがある。

暗がりを見つめる。一番底から見上げる。そこから一筋の光を見つける。言葉で世界の見方をちょっと変えることで、闇に光を差し込ませる。それが小説家の役割で、だから、浮足立っていたら、きっと、よい小説は書けない。

浮足立たないために、どうしたらいいんだろう、と考えたときに、小説を読み続けようという当たり前の結論にたどりついた。地に足をつけて、孤独に、見つめ続けなくてはいけないということを、小説を読めば思い出す。宝くじで十億円当たっても、トップアイドルの総選挙で一位に輝いても、ベストセラー作家になって何書いても売れるようになっても、大きな病気になって死を目の前にしても、小説を読み続けていれば、浮足立たないでいられるんじゃないか。

わたしにとって小説を読むことは祈ることに似ている。祈り続けなくては。よい小説を書くために。

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というわけで、来年は本を毎日読もうと思いました。1日1冊、なんてノルマを決めるんじゃなくて、毎日、本を開く。そして毎日、ちゃんと、地に足をつける。どれだけ忙しくても、出発点を確認する。

あと、部屋を片付ける。いや、今度こそ。来年こそ。今までとは違う動機で。モーちゃんの写真を撮るために片づける。

というのもですね、ある本で、猫もガンになるってことを知ってですね、そうだよね、長生きになったからなるかもね、と思って年齢とガンの発生確率のデータをネットで調べたら、そのデータが12歳までしかなくて、うちのモーちゃんは13歳だから、なんだかちょっとショックを受けて落ち込んでしまった。あと何年生きるか分からないけれど、それは必ずやってくるわけで、それがいつ来ても、もうおかしくない。

モーちゃんは出会ったとき、大風邪を引いていて、目ヤニで目があかなくて、鼻もつまって効かなくて、声も出なくて、親ともはぐれていて、何も分からずふらふら歩いていたから、これはわたしが拾わなければ確実に死ぬなと思った。かわいいーって近づきかけた女の子たちも、汚い顔を見て逃げていった。
どんな人生(猫生)になったとしても、ここで死ぬよりましだろ、ついてこい、って拾ったのだけど、病院で薬をもらって風邪も治って、目ヤニも取れて、目が開いたら、おっとりのんきで無邪気な人懐っこい猫に育った。
ペットなんて、カブトムシかメダカくらいしか飼ったことなかったわたしは、猫が十年生きると知ったとき長いって思ったけれど、あっという間に13年だ。どれだけ長生きしても、あと数年で別れが来る。

…で、モーちゃんの写真撮りたいなと思って。モーを写そうとしたら、片づいていないあれこれが写って全然写真撮れないので。わたしの今住んでいる家は中途半端に古い小さな一軒家なので、そんなに絵になる場所ではないけれど、光がとてもよいのです。

これは前の家だけど。お友達に撮ってもらった1枚。



まだまだモーちゃん元気です。ガツガツ食べて、飯が少ないと襲ってきます。でも、椅子に座ってるひざに飛び乗って来なくなったな。時は確実に経っている。


<来年やること>

・毎日、小説を読む
・毎日、誰にも見せない文章を書く(日記も含めて)
・部屋を片付けてモーの写真を撮る