新聞、印象派、脚本 | かんちくログ

かんちくログ

1発屋どころか、まだ1発も打ち上がってませんが。勝負は、これから。

わたしが日記らしい日記を書きたくなったのは、車谷長吉さんの「世界一周恐怖航海記」が面白くて影響を受けたからなのである。いわゆるピースボートというやつである。それにいやいや乗って(ときどき楽しそうだけど)半年ほど船上で過ごした日々をつづっている。毒も吐く。どんどん吐く。でも何だか愛がある。やっぱり作家というのは愛ある人でなしじゃないとなあ、と思う。彼は船上で古典を読んでいる。文句言いながらも読んでいる。やっぱり古典を読まなくてはなあと思う。「赤目四十八瀧心中未遂」で衝撃を受けて以来、気になる作家。気になる作家の日常の思考は気になる。淡々とした日々の記録にむきだしの生き様が見える。

------------
漱石を読んで、文学を「聖なるもの」と思い込んだのは、当時、私は救済を求めていたからだ。自分を救ってくれるものを。姫路西高の入学試験に落第し、行きたくはない学校に行かざるを得なくなって、がっかりしていた。自分に失望していた。そういう自分を救うてくれるものが文学だと信じた。これが間違いだった。「読む」ことによっては、ある程度救いを感じたが、「書く」においては、何も救われなかった。却って多くの人を傷つけて来た。人は真実を書かれると怒るのだ。虚飾、虚偽、嘘、幻想、世間体につつまれて生きて行きたいのだ。自分のことを阿呆だと思いたくはないのだ。真実は、人間はみな阿呆であるのに。食欲と性欲と名誉欲の塊であるのに。漱石も「則天去私」では生きられなかった。「愛」の作家ではあったが。
人生を棒に振る。これが私の一つの理想だった。

(「世界一周恐怖航海記」車谷長吉より)
------------


今日も日記らしい日記を書こうと思ったのに、ひとつも今日の出来事を書かずにこんなに字数を費やしてしまった。おかしい。

朝、新聞に載ってたよという知人からのメールで目が覚める。幸福な目覚め。せっせと身支度をして朝ごはんを食べて、朝10時を目指して、京都文化博物館でやってる印象派展へ。平日朝なのに人がいっぱい。モネとか。輪郭のない絵は近くで見るとただの筆の跡にしか見えない。人ごみではあるけれど、人の頭越しに見るのがちょうどよい。さくさく見て、ふうん、まあ、なかなかよかったなあーと思いながら、お土産コーナーにたどりつき、複製画やつるっとした絵の写真葉書を見ていると猛烈に違和感と気持ち悪さを覚え、いそいでまた展示室へ戻る。絵葉書は別物だった。わたしの中の絵の印象を上書きしてしまった。違う違う違う。もう一度、生の絵を見た時、ああ、絵は生きているんだ、と思った。絵葉書を見てわたしが感じた違和感は、恐怖に近かった。こんなことを言うと気分を害する人もいるかもしれないけれど、まるできれいに標本にされた死体の山だった。

なんでこんなふうに輪郭もなく、光と色の集合体で景色をとらえられるんだろう。モネって目が悪かったんじゃないかな。眼鏡を外して見ている時の光景みたい。この世とあの世が境目がなくすっとつながっている。そんなふうに景色を見ていたのだろうか。

絵は複製すると死ぬんだろうか。技術が発達して、色も立体感も何もかもすべて複製できるようになったとして、それは元の絵と同じものだろうか。いくらDNAを合成できるようになっても無生物から生物は作れないのと同様に、絵には命が吹きこまれないだろうか。それとも、物質的に同じものなら同じだろうか。

絵を見ると、複製できる小説との違いにいつも思いを馳せる。
絵の中には絵描きの命の一部がとじこめれられている。

読売新聞を買う。仕事場に行ってスキャンする。プロデューサーに送る。朗読ユニットTREESのvol.2公演の脚本、第2稿を執筆。今回は基本に忠実に、と思ってオーソドックスに仕上げ、第1回目の読み合わせもしたのに、地点の公演を見て火がついてしまった。もっと攻めても観客は分かる。伝わるはず。地点の演目はチェーホフの戯曲。脚本がしっかりしているので安心して楽しめた。もちろん演出も技術もすごかった。
しかし優先すべき締切仕事がまだまだある。ひたすら答案の添削をする。夕方、ギアを見る。パントマイムとダンスとマジックとジャグリングを組み込んだミュージカル風エンターテイメント。ものすごい装置。演出。それぞれの芸がすばらしい。でもその芸を生かすには、脚本にもう少し工夫の余地あり、などと思う。何を見ても脚本が気になる。職業病だから仕方がない。
でも楽しかった。わたしも踊りたい。パントマイムできたらいいな。重力をあやつる。マジックも素敵。心をとりこにする。ジャグリングかっこいい。自分の体をもっと自由に動かせたらいいのに。

帰りにカレーを食べる。
朗読劇の演出を思いついてテンションが高くなり、音響さんに相談メッセージ。技術的な確認ができたので、あとはどれだけ生かせるか。やっぱりすべては脚本次第。

そんなこんなで一日が終了。いろいろ間に合ってない気はしているけれど、焦らなくはなった。何とか今のところ回っている。何とかなる。たまには何ともならなくなって困って人でなしになってののしられるなんてことがあってもいいかもしれない。そしたら小説のネタになっていいんじゃないの、と思う。