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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

 

プールサイドの人魚姫-赤ちゃん

 

 

例えば自分が赤ちゃんポスト出身だったとしても、誕生日は自分を育ててくれた人へ感謝する日である。

 

もちろん、親に感謝するのは当然であり、不遇な身の上だったとしても、命を頂いたのだから祈りを込めて感謝すること。

誰しも一人で生きているわけではなし、万物によって生かされていることに気が付けば、命を粗末に扱うこともなくなるだろう。

それは自ずと他人を思いやる心を育むことへと繋がっていく。

人は人を幸せにするために存在するのだという使命がある。

「自分は何のために生まれてきたのか」「生きる価値があるのだろうか」などという疑問に突き当たり思い悩むことは多いだろう。

そんな時は隣人の幸せを願ってみるとよい。

言葉は要らない、微笑むだけで十分気持ちは伝わるだろう。

誕生日を迎える度に、多くの人たちに支えられている自分に気づく。

そしてまた自分も誰かの支えになっているのだと思う。

赤ん坊のように無垢な心で誕生日を迎えることが出来たことに感謝、そして、メッセージをプレゼントをありがとう。


プールサイドの人魚姫-アメ横

201011日、上野御徒町(アメ横)にて撮影。

新年明けましておめでとうございます。

新しい年が始まりましたが、皆さんはどのようなスタートを切りましたか。

昨年のわたしはご存知の様に、困難と悲劇の繰り返しでした。

退院と離婚が同時進行し、大きな不安を抱きながらの独身生活。

リハビリの連続の中で始まった就職活動。

常に入院の二文字が付き纏い、生活スタイルの180度転換を余儀なくされて、体重増加に一喜一憂し、救急外来を何度も受診しながらそれでも最後には帳尻を合わせるという綱渡りの一年間でした。

約40社に登る面接を受け続けた8月~10月の三ヶ月はまさに身も心も限界を超えていたように思います。

届くは不採用通知ばかりで既に諦めかけていた矢先、届いた内定通知。

それも一部上場の大手IT企業。

学歴の無いわたしにはまさに「奇跡」でした。

大逆転の満塁サヨナラホームランだったのです。

人生は逆転の連続で、先に何が起こるか分からない予測不能の生き様。

だから、生きている事が面白く生きられずにはいられないまさに「Brand New Day」なのです。

新しい何かを見つけそして掴むまで、皆さん声を出して叫びましょう。

Brand New Dayと。


プールサイドの人魚姫-献金

マザコンは一般的な解釈として母親に全てを任せきりで、自分では何一つ判断・行動出来ない者の総称とされているが、正確な定義そのものは存在しない。

よって、マザーコンプレックスの捉え方は様々である。

世の中には親離れ子離れ出来ず、人として自立出来ていない者も多くいる。

献金問題で揺れる鳩山由紀夫総理であるが、6億円あまりの贈与税を納めた事で、一件落着といきたいところだろうが、この庶民的感覚を大きく逸脱した金銭授受は国民には理解し難い問題であろう。

小沢一郎氏も同様に、政治家の金銭感覚は余りにも桁外れな為に金銭麻痺した状態だとも言える。

結果的に言えば、政治或いは権力は金がものを言う世界であり、これはなんら政治そのものが旧態依然として全く変化していない事を裏付けている。

どれほど「わたしはクリーン」とのたまってみても、叩けば必ず埃が立つ政治家ばかりで埃を「誇り」に置き換えることはおよそ不可能に近い。

自らの埃によって咳き込み窮地に立たされる訳だ。

最も神経を使うべき部分を人任せでは、正しい政治など行える訳がない。

彼ら政治家は「反省」を知らず、同じ過ちを繰り返すばかりで、進歩のない人間の集まりだとも言えようか。

日本の未来は遥か彼方に、蜃気楼のように佇んでいる、金まみれの政治家とともにね。

PS:この記事は今年最後になると思います。

今年一年間「プールサイドの人魚姫」を応援して頂きありがとうございました。

来年もよろしくお願い致します。

なお、子どもたちがこちらに遊びに来てくれておりますので、親子3人楽しいお正月を迎える事が出来ると思います。

PCを占領されておりますので、コメントが遅れがちになることお許し下さい。


プールサイドの人魚姫-中止


この画像を見て頂ければ、説明は不要ですね。

民主党のマニフェストに「クリスマス中止」なんてありましたっけ?

地球温暖化とクリスマスは深い繋がりがあったと言う事でしょうか。

クリスマスが公共事業化しているとも取れますね。

 

プールサイドの人魚姫-プレゼント

 

 

貧困は、時に子どもの心を傷つける。

わたしはそれを子ども時代にうんざりするほど味わった。

昭和30年代にクリスマスプレゼントの慣習が日本に存在したか知らないし、記憶として残ってもいないが、唯一それらしい出来事を今になって思い出す。

泥酔しきった父が真っ赤な顔をして「とし坊、土産」と差し出した小さな白い箱の中身は、酒臭いイチゴのショートケーキだった。

わたしはそれが嬉しくて溜まらず、涙を浮かべながらその甘さを味わった。

後にも先にも父からの贈り物はそれだけだったが、酒と自分が流した涙のしょっぱさが入り混じったケーキの味を今でも忘れない。

父は非常に大人しく気の小さい人間だったので、何か行動に移す時は一杯引っ掛けて酒の力を借りないと何も出来なかった。

息子に贈り物することすら気恥ずかしい思いを抱いていたのだろう。

酔えば必ずといってよいほど乱暴になり、暴力を奮ってわたしを傷つけたが、わたしは一度も父を嫌ったことがない。

ただし、一緒に歩きたいとは思わなかった。

この人が自分の父親だと思われたくなかったのであるが、わたしが父を愛していた事は、詩集「天国の地図」の中に書いてある作品「父が死んだその日」「わたしが帰った時」「祭りの夜」等を読んで頂ければ、頷けると思う。

明日はクリスマスイヴ、世界中でその喜びやプレゼント、パーティなどを催し、ご馳走に舌鼓を打つことだろう。

しかし、その隣では明日の糧を求めて餓え続け、サンタクロースの来ない子どもたちが大勢いる事を忘れないで欲しい。

今、あなたがもし幸せだと思ったら、それは「当たり前」ではないことなのだと認識して欲しい。

 

 

プールサイドの人魚姫-雪の涙

 

 
 

雪が

涙のように

降ってくる

音も立てずに

降ってくる

心に溢れた

悲しみが

凍える空の彼方で

雪になり

わたしの変わりに

涙となって

壊れた

わたしに

降ってくる

まるで

わたしを

かばうよう

雪の涙が

降ってくる

 

 


今年は、太宰治生誕100年と言う事もあり、各地で関連する催しが行われた。
葛原りょう氏については、過去の記事で既に取り上げているので、ご存知の方も多いと思う。
彼は、詩人としてだけでなく、「短歌」「俳句」「小説」と幅広く、生まれ持った文学的センスを遺憾なく発揮し、文学界の若きリーダーとして新しい刺激を送り続けている。
彼が主催する「詩の朗読ライブ」もその一環であるが、彼を一言で表現するならば、「現代の石川啄木」「中原中也」だとわたしは素直に思う。
これは、わたしが彼の詩集「朝のワーク」「魂の場所」を読んでみて感じたことである。
少し褒め過ぎかと思われるかも知れないが、同じ詩を書く者としての実感である。
彼が「太宰治」のファンであると言うところから、この「朗読ライブ」は行われた訳であるが、わたし自身は「太宰」の作品を一冊も読んでいない(珍しい?)事から、太宰治をどう評価してよいやら迷うところではあるが、多くのファンからいまだに愛され続ける作家として、日本文学を語る時に太宰を避ける事は出来ないだろうと思う。
以前、別れた家内から「あなたはまるで太宰治そっくりだ…」と言われた事がある。
わたしはそれがてっきり褒め言葉だと思ったが、それはまったく正反対の事であった。
つまり太宰治は小説は書けても「夫」としては「失格」だったと言う事なのだろう。
太宰の作品「人間失格」はそんな自分を表現しているのだろうか?
そして家内が薦めた本は「走れメロス」だったが、わたしは読書が好きではないので、結局読む事はなく、いまだに太宰の作品を知らない。
しかしながら、今回の「朗読ライブ」を通して太宰の作品に眼と耳で触れてみると、僅か5分ほどの短い朗読ではあったが、日本語の波打つリズムを感ぜずには入られなかった。
もちろん、これは葛原りょう氏が演出家としても優れている事を物語っているのだが、美声の中に際立つ躍動感と力強さがバランスよく相まって、聴く者を魅了するのである。
最近は、彼のライブに遠ざかってしまっており、残念に思いつつ、来年は積極的に、出来れば自分もライブに参加してみたいなどと、無謀な挑戦を抱いている。
携帯ユーザーの方は映像をご覧頂けないと思うので、是非PCから再アクセスしてこの臨場感を味わって欲しいと思う。

 


プールサイドの人魚姫-ベンザ

新型インフルエンザの感染者数に歯止めが掛かったようだ。

これまで増え続ける一方であったが、日本列島マスクと消毒液一色になった事が功を奏した訳でもないにしても、僅かに安堵を覚える。

但し油断は禁物、冬はこれからが本番であり、気を抜けば一気にウイルスの餌食となる。

国が薦めるワクチンの接種は義務ではないので、本人或いは親が受けるかどうか決める事となる。

ワクチンは元々毒で作られているから、当然ながら副作用が現れる。

その程度は個々によって異なる。

発疹程度の人や微熱、或いは下痢と言った軽い症状のタイプ。

しかし、重篤な場合は脳を侵され、死に至る場合もある。

ウイルスとワクチン、この両者は実に曲者だ。

人間がワクチンを作り続けた結果、新しいウイルスとそして人間自らが持つ免疫力を低下させてしまったのである。

アメリカでは、ワクチン接種に消極的な親が50%近くもいると言う。

子どもが生まれ付き持つ免疫力を、ワクチンによって低下させてしまう事への懸念がそうさせているのだという。

世の中にパーフェクトは在り得ない。

完全なウイルスもなければ、完璧なワクチンもないと言う事。

トイレがまだ汲み取り式だった頃、現代と比べれば衛生面では大失格となるであろう。

然しながら、子どもも大人もみな元気であったし、糞尿は畑の肥やしとして大地に還したものである。

農薬もなく、虫食いだらけの野菜をそのまま洗いもせず頬張ったものだ。

虫も食わない農薬だらけの野菜や果物は不味いし、果たして安心出来る食物かどうか怪しいものである。

化学の発達は自然界に存在しない環境破壊物質を多く造り出して来た。

その結果が奇形や難病を生み、DNAまでも破壊したのである。

ウイルスより恐ろしい人間の野望と征服欲が果てしなく続く限り、新種との闘いは繰り返されるのである。


プールサイドの人魚姫-湯たんぽ

今年、日本国内で処分された犬猫の数はおよそ31万頭に上る。

この数字は増えることはあっても、残念ながら中々減る事はない。

ペット、いわゆる小動物たちはわたしたち人間の身近な存在として、なくてはならない生き物になって来た。

ところが住居などの環境変化や、生活スタイルが日々移り変わる中で、動物たちだけが受難に遭っているように思えてならない。

自治体によっては、住民の協力を得て動物(野良)たちとの共存を模索し、そしてまたペットショップも一丸となって処分される動物たちの数を減らそうと努力を続けている。

店によっては安易にペットを売らず、客が責任を持って最後まで飼い続けることが出来るか、相手を見極めるそうである。

責任放棄しそうな客は断るという勇気のいる決断をするそうだ。

売ってしまえば後は知らんふりをする店も多いが、命を扱う商売はやはり死ぬまで責任を持つべきだろうと思う。

さて、我が家の寅猫(タラ)であるが、至って元気。

師走に入り今年も残すところ僅かとなったが、世間は相変わらず不況風が北風と相まって吹きぬける。

財布の中身も寒いが、身体や心まで冷たくては年も越せない人も多いのではないだろうか。

人を温めてくれるものには色々ある。

太陽の陽射しやストーブ、コタツや風呂もそうだが、やはり身体だけでなく心も温めてくれるものが一番だろう。

そんな時にペットの存在がとても暖かく感じるのは、血の通った者同士の温もりがあるからだ。

夏場は空腹の時だけ、甘えて来たタラが、さすがに寒さには勝てないらしく、わたしの寝床にやって来て、気が付くとしっかり足元で丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らしているのである。

生きている者は温かい、当たり前なことなのだが、それが生きている証であり、何物にも代え難い命であると言う事を猫の温もりから感じ取れるのである。

自ら命を絶つ人が多すぎる日本、人間の温もりを忘れてしまった結果なのかも知れない。

自分が誰かを温める事が出来るのだと言う事に気が付いて欲しい。


プールサイドの人魚姫-仕分け人

自民から民主へと、今年は政治が大きく動いた年でもあった。

これは、国民が政治の動力源になっている事を、政治家や官僚たちに知らしめる結果になったのではないだろうか。

鳩山政権が誕生してから日はまだ浅いまでも、政治のあらゆる局面で動きが顕著になって来ている。

その最たる代表が話題に登っている「事業仕分け」だろう。

各界から選りすぐり?のエリート仕分け人軍団が構成され、税金の無駄遣いを徹底的に洗い出す作業が数十日に渡って行われたばかりである。

結果はともかくとして、官僚たちから見れば、仕分け人が「仕置き人」に見えて戦々恐々としていた事は言うまでもない。

理論武装した仕分け人と官僚たちとのトークバトルは火花を散らし、各々が自分たちの正当性や必要性を仕分け人たちに訴える姿が、TVを通して観戦出来たのは実に有意義であったように思うし、下らないバラエティ番組などより見ごたえは十分にあったから、長時間の特番を組めば、視聴率もアップするのではないだろか。

普段、国民の前に姿を見せることのない官僚たちの、真剣な顔を見ていると悲壮感さえ感じてしまうのであるが、普段からこのように真剣に仕事に取り組んで貰いたいものである。

真っ先に廃止しなければならないのはやはり「天下り」だろう。

まともな仕事もせず、週一回机に座って居眠りするだけで、サラリーマンの数倍もの高給を受け取り、更に退職金の積み重ねは「罪重ね」と言い換えるべきだろう。

経済成長の低迷やそれによる雇用不安に脅かされる事のない公務員たち全てが悪い訳ではないにしても、所属部署によっては一般企業と同じように「成果主義」の導入を検討して欲しいところである。

仕事は結果を残すことであり、そしてまた人と人が支え合う事でもある。

仕事に見合った報酬を受け取ることが経済成長の根幹である事を忘れていては、日本の無駄はいつまで経っても無くならないであろう。