プールサイドの人魚姫 -152ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

最後のメールメールが死んだよる

儚い恋のメールが
僕の中で死んだ夜
最後の一通が留めを刺した
心ががらんと音立てて
貴女のメールが空しく消えた
「私のメールは削除して
一つ残らずきれいにさっぱりと」
消しても僕の記憶に居座っている
死んだメールがいつまでも
涙の中でおぼれてる

印刷「トラステ賞」
天使がくれたピアノ 第3楽章

父が出て行ってしまってからの母はとても大変だったと思います。印刷とお得意さまへの配達。毎日夜遅くまで働いていたわ。私はいつもゆりかごの中から母の働く姿を見ていたの。工場の中はとても暑く、夏になるとまるで温室みたいになってね、母は汗をぽたぽた流しながら仕事をしていた。長い黒髪を後ろで束ね、白い肌が印刷のインクで黒く汚れてしまって、折角の美人が台無しだったわ。扇風機がカタカタ音を立てて回っていた。輪転機の回転する音とインクの匂いが充満した工場で私は母の背中を見ながら育ったわ。ある日の事だった。よほど疲れていたんだと思う。母が輪転機のスイッチを切らないまま別の部屋で休んでいたの。私がぐっすり眠っていると思っていたのね。母は朝4時に起きる。眠るのはいつも夜中の2時過ぎ、とにかく一人でこの印刷会社を続けて行くのは大変な苦労があったんだと思う。積もり積もった疲れが睡魔となって母の身体を襲ったの。母が油断したわけじゃない。私は1歳を過ぎていたからはいはいくらいはできたのよ。空になったゆりかごが風を切るように揺れていた。輪転機が私を誘うように回転を繰り返していたの。興味深々な私、誘う回転木馬だった。私の小さな手が伸びる…。私の泣き声で飛び起きた母が私の姿を見て呆然としていたの。

天使寮「トラステ賞」
天使がくれたピアノ 第2楽章

今日は自己紹介しますね。名前は寺下香葉子(かやこ)といいます。歳は9歳です。「天使寮」に入るきっかけは前回話した通り。私が生まれた時、家は小さな印刷会社を経営していたわ。父も母もとっても働き者で毎日遅くまで汗水流して輪転機の前にいた。私が生まれて1年も経たない内に父が突然行方不明になったの。お得意さんに仕上がった名刺を届けに行ったまま、何の連絡もなく帰って来なかった。風の噂に聞いた話によると得意先の女性と随分前から付き合っていたみたいで、二人とも同じ日にいなくなった事が分かったわ。でも母は一言も話してくれなかった。何故私には父がいないのか不思議だったけれど、私も何となく父の事を母に聞くのは遠慮していたのかも知れない。父のことを教えてくれたのは祖母。祖母はとても優しい人だった。母に似てたから綺麗なおばあちゃんだった。私ね、ピアニストになるのが夢だけれど私の左手にちょっと問題があるの。左手の薬指なんだけど、第二関節から先がないのね、ピアノ弾くのに支障があるのかしら?あるわよね。でもそれより結婚指輪がつけられないかもしれないわ。なんてまだずっと先の事心配してもしょうがないわね。

デジタルデジタルの文字じゃなく
君の
生きた直筆が欲しい
デジタルの無機質な
整然と並んだ行間からは
なんの愛情も感じない
メールが便利な
愛の宅急便だなんて
うそっぱち
デジタルの文字じゃなく
君の
顔が浮かんで見える
本物が欲しい

同窓会待ちに待った同窓会が30年ぶりに浜松サゴーインホテルで行われた。何としてでも成功させなければと言う思いで過ごしてきた約8ヶ月同窓会を思い立ったのは昨年の9月だった。30年以上も前の名簿を取り寄せ人探しに明け暮れた毎日、最初は一人で始めた名簿作りにも協力者が現れ次第に見つかる人の数も増えていった。途中で挫折する事もしばしばあった。インターネットと電話を駆使して多くの人を探し当てた。今思えばその充実した日々私は活き活きとしていたし、どこから見てもうつ病を患っている人間には見えなかっただろう。苦労して一人見つけた時の喜びは計り知れないものがあった。相手が自分を覚えていなくとも心よく名簿に掲載する事を承諾してくれた時はまさに「やった!」と言う達成感で一杯であった。実行委員メンバーを決めて3月と4月に打ち合わせを行い同窓会開催の通知を発送しどの位の人数が集まるのか不安であった。途中経過の報告が入る度に何度もため息をついた。返信締め切りの5月10日を過ぎても返事のない人も複数いた。私も実行メンバーも最後まで諦めず頑張った。22日直前で発見できた最後の大物12病棟の婦長さんと連絡が取れた時には大感激であった。そうして向かえた開催日、開催2時間前に会場に入り念入りな打ち合わせ、受け付けの準備.。私はただおろおろするばかりであった。体調も今ひとつすぐれなかった事もあったがみんなが力を合わせてここまでやってきたのだ。もっとしっかりしろと自分に言い聞かせていた。13時を過ぎた頃からポツポツと人がやってきた。当時のまんま何も変わってない人、全く名前と顔が一致しない人それぞれである。会場に来る人達もそれぞれ不安を抱えながらの来場かもしれない。それも当然である。何しろ30年という長い年月が経っているのだから。開催時間の14時にはかなり大勢の人達が遥か昔を思い出しながらにこやかに会話をしている。そんな風景に私の心もホッと一安心であった。そして先生や婦長の来場、がっちりと握手を交わし挨拶をした。80歳を超える老体に鞭打ってやって来てくれたのである。一体どれだけ集まったのか正確には把握していないが予想を超える人数であったのは間違いない。開催セレモニーが始まり現養護学校校長の挨拶など、そして私の乾杯でスタートした。名刺交換や写真撮影皆さんへの挨拶や接待、ご馳走を目の前にしながらあちこちと動き回った。そして中日新聞社の取材を受けたりと忙しい。時間はあっと言う間に過ぎ開催終了の時刻、最後は私の詩の朗読で同窓会は終了したが大成功であった。

女王女王の教室がかなり話題を呼び、脚本を変えるよう色々と反応があったようだが、制作側は最後まで姿勢を崩さず貫き通した。実は私、この番組見ておりません。興味が湧かなかったということ。教育問題をテーマにした番組は数多くあるが、まともに見たドラマは「伝説の教師」と「乱塾時代」の2本だけだ。この二つは面白かった。視点がまるで違うからだ。子供たちが「女王の教室」を見ていた事もあって情報やストーリーは何となく掴めていた。で、私の結論は脚本がまだ甘いという事に至った。何を謂わんとしてるかは知れた事。知ったかぶりをしている者ほど世間を知らないという事アピールしてるのだろう。知ったかぶりで良いと思う。ただその先が肝心、一応知ったような顔をしても突っ込まれるとボロを出す。知ったかぶりのまま終わらせないこと。紐の先を掴んだのだから、引っ張れよと言いたい。私は小学6年を3学期しか出ていない、それでも卒業できた。小2から始まった不登校、苛め、6年間の学校生活の半分は登校拒否で終わった。5,6年の担任は女王の教室より更に上を行っていた。苛めはもっとひどかった。小説「届かなかった僕の歌」でその全貌は明らかになる。

ピアノ「トラステ賞」
天使がくれたピアノ 第1楽章

私は音楽がとても好き、特にクラシック。そして私の夢は将来ピアニストになる事。ピアノが弾けるようになったら色んな国に行って演奏したい。でもそれはちょっと無理みたい。そうなるにはよほど有名にならないと叶わないよね。でも大切な事は音楽を愛する心だと思う。私は小さい頃から音楽に囲まれて育った。祖母がお気に入りにの曲を毎日聴いていたから自然と私の耳に馴染んでいた。曲名は知らないけれど、とても心に染みる穏やかな曲だった。祖母が他界する前に曲名を聞いとけばよかった。祖母が亡くなった後、私はある施設に預けられた。子供達ばかりが集まる場所、孤児院って言うの?一人っ子の私にとっては、お兄さん、お姉さん、妹、弟が一度に出来たみたいで嬉しかったな。孤児院の名前は「天使寮」って言うの。名前も気に入ってるし、一番嬉しかったのはオルガンが一台あったこと。それもピアノにどことなく似ているし音は全然違うけれど、これで曲が弾けると思ったわ。でもその前に弾き方を覚えなくてはね。

ブッシュおーい、よーく聞け
ブッシュに言いたい事がある
原爆を2回も落とした国はアメリカだよな
核実験は色んな国がやってるけどよ
てめえらアメリカは核兵器使った唯一の国だろが
北朝鮮に諦めさせる?はぁ?
その前にアメリカが
核放棄するってのが
すじってもんだろがぁ バシッ!
カンカンカンカンカン!!!!!
リーマス4週間前からリーマスを飲むようになった。通院から約2年が経過したが、この手の薬は初めて。炭酸リチウムである。これ飲んでいる人いますよね。思い起こせば丁度一年前である。私の脳が覚醒した2004年9月・・・、複数の出版社へ原稿を送り、30年振りの相手に電話をかけまくる。180度変わってしまった自分がいた。そして再び始まったのである。ハイテンション!機関銃の如く喋りだす口。止まらない・・・。小説「届かなかった僕の歌」を書き捲くる。更には「短歌」に挑戦する始末。慌てたのは自分の周りの人達ばかりだ。私は誰にでも気安く声をかけ、その場で友達になる。小学生からお年寄りまで。先日は81歳の老人と話が弾んだ。戦争終結の時、パレンバンから無事帰国したその老人の話は実に興味深かった。日本人の引っ込み思案な所を私は逆を行って大成功を収め、40歳でカリフォルニア大に入学したという。凄い人生を送って来られた先輩に拍手を送った。