浜松から藤枝へ(墓参り)。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

 

プールサイドの人魚姫-墓参り


 

5月3日、浜松まつりの熱気を背中に感じつつ、磐田から郷里の藤枝に向かった。

東京などの都会暮らしに慣れてしまうと、地方のゆったり流れる時間に苛立ちを感じたりする時がある。

5分に一本電車が来る分けではないから、家を出る時には時刻表を確認しなければならない。

時刻を気にする事無く駅へ向かうのと、時刻表を見つめながら予定を立てるのとどちらがより人間的かと言えば、時間に流されずゆったり予定を立てられる方が、時間を操っているのが自分自身であると言う、ある種の開放感のようなものを感じる。

東海道線も昔と違い、ステンレスの車両になってしまったから、東京を走る地下鉄と見た目は殆ど変わらなくなってしまった事に若干の寂しさを感じてしまった。

電車に乗っている間に「勇樹」からメールが届いた。

「いま、どこにいるの」

「磐田、藤枝に向かっているところ」

「墓参りしないの?」

墓参りの事はまったく予定に入れていなかった。

3日の予定は「博ちゃん」に会った後、東京に帰る積もりでいたからだ。

「分かった、じゃぁ明日」

「明日、何処で待ち合わせ?」

「その前に、泊まれる場所を探さないと」

「博ちゃんと言う人の家に泊まるんじゃないの?」

「いきなりだから、まだ分からん」

「ホテル探さなきゃ」

「藤枝には泊めてくれる所たくさんあるから」

こんなやり取りを交わしているうちに電車は藤枝に着いた。

藤枝駅も昔の木造姿はすっかり消えていたが、駅前は昭和30年代の面影を僅かながらも残していたことが、救いだった。

博ちゃんに会うのは25年ぶりになるだろうか。

わたしにとっては兄のような存在だった博ちゃん、車越しにわたしを見つけ笑顔を見せたその表情に、歳月の長さと同時に昭和へタイムスリップする自分がいた。

博ちゃんの母である「菊江おばさん」がGWの間だけ、博ちゃん宅に腰を下ろしていると言う。

おばさんに会うのも25年ぶりだ。

わたしが産まれる以前から、神戸家とは親戚のような関係にあったから、自分の事や母親、父親のことなど様々な話を聞かせてくれる。

今年95歳になるが、何でも食べるし、ビールさえ飲むと言う。

腰を悪くしてから横になっていることが多いが、5年ほど前は自転車に乗っていたと言うから驚きだ。

服部家の人たちに会えば必ず父親の話しが出る。

生前の父については話題が尽きない。

博ちゃんの家から動く気になれず、無理を言って泊めてもらうことにした。

勇樹には藤枝駅北口10時に待ち合わせと伝えておいた。

駅に迎えに来た勇樹の車に乗り、一路長楽寺を目指す。

藤枝駅から旧東海道を静岡方面へと進むが、わたしの記憶も当てにならず、話し込んでいる内に長楽寺の入り口を見逃してしまい、車は「大手」を当に過ぎ「左車」あたりまで来てしまった。

東海道の中でもこの藤枝の宿は短い。

スピードを出して駆け抜ければあっと言う間に通り抜けてしまう。

Uターンし、ゆっくりと進んで行くと、長楽寺商店街の文字を発見。

左に曲がり狭い路地に入った。

漸く勇樹に「神戸家の墓」の場所を教えることが出来た。

藤枝は「神戸(かんべ)」の苗字が非常に多い土地だ。

寺だけ教えても、おそらく本人はどの「神戸」なのか疑問だらけになり、自分の目指す「神戸」を探し出せないであろう。

墓を見つけると腕まくりをし、墓石の掃除を始めた勇樹。

こんな風景をわたしはいまだかつて見たことがなかったので、勇樹の行動は意外であり驚いてしまった。

父はこの墓に眠っているが、母はこの中にはいない。

つまり、内縁だったのでる。

どんな事情で神戸の籍に入れなかったのか、疑問は残ったままであるが、由緒ある血縁の神戸家にとって、母の血は容易く受け入れられるものではなかったのだろう。

幼少の頃からこの墓を見慣れていたが、墓石の掃除は記憶にない。

磨き込んで行くと、墓石本来の姿(色や質感)等が現れて、更に驚いてしまった。

本来ならわたしか、この墓を守っている伯父さんや親戚の人たちがやらなければいけないことなのだが、神戸家の人たちは自分も含め、先祖に対して無関心過ぎるのかも知れない。 

勇樹の一生懸命に墓石を磨く姿を見て、改めて反省させられた。

墓石に彫られている「神戸家の墓」という文字は、祖父「貞一」の直筆である。

日本屈指の書道家と言われる「沖六鵬」の下で、書道を習っていたので達筆だ。

その隣のもう一つの墓には、戦争で若くして亡くなった伯父さん二人が眠っている。

そちらの墓石を磨いた時に、汚れが赤錆のような色をして、まるで血のように墓石を流れ落ちて行った。

「父さん、これ血だよ…」

勇樹の言葉にわたしは深く頷いてしまった。

戦争の苦しみからいまだに解放されていない二人の伯父さんたちの無念さが、水を血の色に染めたのだろうと思った。

墓石は昭和8年に再建具されている。

墓の場所はこの場ではなく、昭和60年頃までは別の場所にあった。

長楽寺の中で最も見晴らしの良い一等地。

銀杏の大木が生えるその傍らに在った。

墓の前は畑と田圃が空の彼方まで広がり、その中を地平線のような線路が真っ直ぐ伸び、その上を時々、一両編成の「軽便」が行き来していた。

墓から約一キロ程度の所には、大蛇伝説で有名な「青池」が緑の水を豊かに育んでいた。

「墓を移転する事になった」という話しを伯父さんから聞いた時、一体何事かと驚いたが、行ってみるとなるほど頷けた。

大木の根が墓の方にまで伸びてきており、その根っこの為、墓自体にひび割れが生じてしまったのだ。

しかし、祖先たちの声は墓の移転を非常に残念がっていたのだろうと思う。

この地に墓を建ててからどれほど長い時間が経過しただろうか。

江戸の初期には既にこの藤枝を永住の地とした神戸の祖先たち。

400年を越す歴史を刻んだ苔むした墓石が語りかけて来たのは、「平家物語」の一節だった。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず

ただ春の世の夢のごとし

たけき者も遂には滅びぬ

偏に風の前の塵に同じ