詩人が贈る母校の詩(天竜養護学校) | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

詩人私の母校は天竜養護学校である。中学1年の途中に藤枝中学校から転校し、約3年間を過ごした。非常に想い出の深い期間でもある。昨年7月、養護学校から「創立50周年記念を迎えるに当り小冊子を作るので詩を書いて欲しい」と言う依頼があった。そして「我が母校」を書き上げ、それとは別に数百篇ある詩群の中から養護学校に関連した詩を数編寄稿した。学校関係者の方々にとても喜んで頂き、私もこのような形で恩返しが出来た事を嬉しく思っている。私が初めて詩人と呼ばれたのは20歳の時だった。当時私は黒船印刷に就職したばかりで、写植オペレーターの道を歩み始めていた。昼休み、会議室にある書棚の中に数冊の分厚い本を見つけた。その中の一冊を手に取り部長に申し出て借りる事にした。それが伊藤整の「若き詩人の肖像」であった。もう一冊は私の大先輩である画家が薦めてくれた高見順詩集。その中から「死の渕より」を選んだ。この2冊の本との出会いが私の詩作原点とも言える。会社内には職場の親睦を図る為に、様々なサークルがあり、週に一度のペースで活動していた。私が所属したサークルは「文芸部・卓球部・ギター部」の3つと欲張っていた。私は既に幾つか詩を書き始めていたので、文芸部が発行する機関紙に投稿した。詩集天国の地図にも掲載されている「父の死んだその日」「私が帰ったとき」などである。ある日帰りのバス停で同じ文芸部仲間の短歌をこよなく愛する菅沼さんが声を掛けて来た。「神戸君は詩人だねえ」普段口を聞いた事もない白髪の老人が呟くように言ったその言葉に、私は笑みを浮かべつつ顔を真っ赤にし心の中は恥ずかしさで一杯だった。あの嬉しさと恥ずかしさが入り混じった不思議な感覚から30年が過ぎ、養護学校から送られてくる郵便物の宛名には必ず「詩人神戸俊樹」と印刷されたシールが貼り付けてある。画像をクリックすると拡大出来るので詩の内容を読む事が出来ます。