宝塚市小浜宿に行く・・・の巻5/12 | 乾パンのブログ

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私は宝塚歌劇を観るために宝塚大劇場がある兵庫県宝塚市に

100回以上は通っているはずですニコニコ

 

でも私が行くのはJR・阪急宝塚駅~宝塚大劇場周辺だけで

それ以外の宝塚市街地を歩いたことはほぼ皆無。

 

この前の5月12日に宝塚大劇場に行った時は13時開演公演で

しかも前乗りというわけで珍しくも時間があったので、

宝塚市の有名な街道宿場町である小浜宿に行ってきましたベル

 

 

宝塚駅を降りて花の道を歩きます走る人

ココは武庫川左岸堤防の上。

宝塚大劇場は河川敷に建ってるというわけ。

 

 

更に進むと手塚治虫記念館の信号のところ。

この交差点、十字路だけど歩行者用信号が変則的でなかなか渡れなくてイライラむかっ

まぁココまでは私も時々寄り道しますが・・・

 

 

更に河川堤防(花の道)を南西に歩きます走る人

関西学院初等部(小学校の意かはてなマーク)がこんな場所にあったとは!!

 

 

武庫川の可動堰。

かつての武庫川は大変な「暴れ川」だったみたいで治水事業が進んでますな恋の矢

 

 

市立宝塚中学校と宝塚郵便局の交差点を左折。

いわゆる「市役所通り」ですが、この道が近世有馬街道のようです。

 

 

小浜交差点は複雑怪奇ですねぇ汗

歩いて渡るのに10分弱掛ってしまったあせる

もっと大掛かりな歩道橋か地下道が欲しいところですわんわん

 

 

小堀川の小さな橋を渡ると凄い段丘崖が目の前に現れます目

 

 

この段丘の上が小浜であります。

実際に目の当たりにすると中世城郭都市っぽい感じの場所ですねチョキ

 

 

大阪って自動販売機のペットボトルが安いのに驚きます!!

東京で(福島県でも)500ml100円の自販機は見かけませんから・・・

大阪って住みやすい街かもしれませんねラブラブ

 

 

中心部に小浜宿の標識あり。

良く整備されてますチョキ

ココは有馬街道・西宮街道・京伏見街道が交差する交通の要所だったんですねぇビックリマーク

 

 

首だけのお地蔵さんが鎮座している首地蔵尊

私の予想よりもデカい首でドッキリします目

合掌(-人-)

 

 

皇大神社の鳥居。

 

 

本殿の後は急な崖(小堀川の段丘崖)

中世には防御拠点(曲輪はてなマーク)があったんじゃないかな

 

 

かつては江戸時代由来の建築物が沢山あったとのことですが、

その多くが30年前の阪神・淡路大震災で倒壊とのこと。

残念ですねぇ・・・

ってかこんな内陸部でも揺れたのか叫び

 

 

小浜宿資料館にも寄り道。

入場料はロハです音譜

 

 

小浜宿のジオラマ。

街並みは現在とほとんど変わらないことがわかります。

周りを段丘崖で囲んだ城郭都市だったんですねぇひらめき電球

 

 

毫攝寺さん。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院。

 

15世紀末に建立して小浜はこのお寺の寺内町として発達したらしい。

一向宗(当時)ですから寺院による自倹断(一向一揆)とかあったんだろうなぁ。

周囲を崖に囲まれた城塞都市ですな。

 

例の荒木村重の謀反(有岡城の戦い)では織田信長側に付いて

街は戦火を免れたとのこと。

(その辺りは一向一揆なのに柔軟性があったか・・・)

 

その後に住職の娘さんが豊臣秀次の側室になったために秀次事件に連座。

その娘さんは刑死してしまい毫攝寺は秀吉によって焼討に合う波乱の展開ショック!

江戸時代になってから小浜宿は宿場町として再建・繁盛となったわけで。

 

 

こういうオリエンタル風味のお堂があるってのは西本願寺派っぽいですグッド!

 

 

小浜宿代官所跡。

当時の制札が展示されていますパー

街の中心部ってことでしょうか。

悪代官とかいたのかなぁ得意げ

 

 

高灯籠っぽい何かはてなマーク

この辺りが各街道筋が交差する要所。

 

 

菊仁井川家住宅。

阪神・淡路大震災を生き延びた江戸時代からの住宅とのことですが・・・

瓦葺きの庇が波打っていて何だか崩落しそうなんだけど汗

 

 

とにかく道が狭い上に交通量も結構多いです。

わざわざ道をクランク状にしたり、故意に見通しを悪くしていて

防御には適していますが交通の障害ですねガーン

 

 

四輪車が通れない狭い道ですあせる

道際の住宅をどうやって建てたのか!?

 

 

小浜宿の北側の入口にあたる北門跡と国府橋。

1875年(明治八年)に架橋するまでは弓手の急な下り坂が有馬街道だったとのこと!!

 

 

橋から下を覗くと・・・怖い叫び

どうやら小浜の防御のために掘割を築いて小堀川の流路を変えたらしい。

(小浜宿資料館の学芸員さんに聞いたべーっだ!

 

 

通称、いわし坂。

かつてこの辺りが大阪湾の入江で鰯の荷揚げを行っていたらしいはてなマークはてなマークはてなマーク

 

確かに縄文海進最盛期にはこの辺りまで大阪湾が入り込んでいたようですが・・・

奈良時代にはもう海岸線ははるか南の現在に近い場所まで後退したからねぇべーっだ!

だって古代官道の山陽道は現在の旧山陽道(西国街道)とほぼ同じだしね。

 

 

大堀川を渡ってくこの狭い路地が近世有馬街道だったに違いない・・・多分チョキ

宝塚市道677号線という立派な名前がある市道でが軽自動車でも通行は無理叫び

ココもどうやって道を挟んで住宅を建てたのかはてなマーク

 

 

有馬街道をトコトコと歩きます走る人

米谷1丁目交差点。

米谷(まいたに)という地名は「宝塚」という地名よりかなり古いみたいです。

「宝塚市」はもしかしたら「米谷市」や「小濱市」だったかもしれませんなグッド!

 

 

周囲をよくよく眺めると有馬街道は伊丹丘陵の崖の縁を通ってることが分かります。

こういうのも実際に歩いて周囲をキョロキョロしないと分らないモンですべーっだ!

 

 

有馬街道を通って宝塚駅の北側まで歩けますが行けますが、

今回は阪急宝塚線清荒神駅までとします電車

 

時間があれば清荒神まで参拝に寄り道するところですが、

これから宝塚大劇場で月組公演観劇ですからね演劇

 

あ~・・・清荒神駅も知らなきゃ読めない難読駅名ですな得意げ

隣の売布神社駅も読めないあせる