昨日の日曜日は福島競馬場の今年第2回目開催(夏競馬)の最終日
最終レース後に芝コースを歩けるファンサービスがあるとのこと。
ってなわけで福島競馬場に行ってきました
でも朝から夕方まで全レースを見るってのもなんだし・・・
見る限りは馬券買ってしまいます
ってな訳で朝イチに福島競馬場の無料駐車場に車を駐めて
競馬場から北へ・・・旧(近世)奥州街道の散策をちょっとだけ敢行しました。
福島競馬場本場開催時の駐車場開門時間は朝8時。
朝8時5分到着し第5駐車場に車を駐めました
競馬場と厩舎の間の道路を北へ。
「ミ~ン、ミンミンミ~ン」というニイニイゼミの鳴き声が響き渡ります
左に曲がると福島競馬場正門に至る道を今回は右折。
ここが旧奥州街道であります。
通称、電車通り。
昭和46年まで福島交通の路面電車が走っていました。
更に歩きますが・・・旧街道の面影は意外とないです
阿武隈川の支流である松川。
かつてはココに橋があったそうですが。
更に街道を歩きますが・・・日が出てきて暑いなぁ
電車が見えてきました
阿武隈急行の福島学院前駅。
ゴメン・・・福島県に住んで7年ちょっとですが・・・
福島学院大学って大学が福島にあったとは・・・存じませんでした
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ココは近世奥州街道の瀬上宿があった場所。
江戸から見て福島宿の次の宿場町となります
今回の散策で最大の見どころであります
現在の国道4号線の瀬上三差路に奥州瀬上宿の標識あり。
なお・・・瀬上で「セノウエ」と発音するようです。
インタァネッツで取得した瀬上宿の資料。
今は便利な世の中になりましたな
瀬上宿の南側の枡形(クランク)
結構、交通量多し。
瀬上嶋貫本家。
そもそも上杉氏の家臣団で会った嶋貫氏の一部がこの地で武家を捨てて
お庄屋さんになったらしい。
街道からちょっと外れた瀬上小学校にある福島交通(株)の路面電車の静態保存
瀬上宿の資料がなければ見つけられなかっただろうなぁ
瀬上宿の宿場町。
江戸時代の面影はほとんど残ってませんな
何かのモニュメントの痕跡あり。
台座だけ残されていますが・・・多分、昭和戦前期に建立された忠魂碑の類いか
戦後になって軍国主義的史跡として撤去されたと察します。
瀬上宿には足守藩陣屋があったそうです。
足守藩って・・・う~ん、知りませんでした
そもそも足守藩とは備中(岡山県)の藩でここは飛び地だったらしい。
しっかし本拠地である備中の領地をほとんど没収された時期があって、
この地が足守藩の実質的本拠だったその時に設けられた陣屋とのこと。
福島藩の領地には、幕府の天領も含めて足守藩、刈谷藩、新発田藩、二本松藩等々
多くの飛び地があって随分と複雑な状況だったようです。
それも知らなかった
大きなケヤキですねぇ
瀬上宿には少し離れた場所に「新町」なる遊郭があったとのこと。
このような風俗施設は風紀上の問題により市街地と少し離れた場所に
「隔離」される場合が多いですが(吉原もそうですね)ここもそのようです。
(遊女が逃げないようにする意味合いもあったと・・・)
地図を見ると・・・ここがその「新町」ですが、新しい住宅ばかりで痕跡はなし。
東日本大震災までは僅かな痕跡があったそうですがね。
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瀬上宿散策で時間を取りましたが、更に旧奥州街道を北へ
摺上川を渡って伊達市へ
伊達市に入ると旧奥州街道は途端に狭くなります
ココを路面電車が走っていたとはね。
何だかお祭りのようです。
アッチコチに山車が街道を移動してました。
伊達長岡の市街地に入りました。
如何にも旧街道の雰囲気です
ココが今回の散策の終点。
福島交通(株)飯坂東線の長岡分岐点駅のあった場所。
以前に訪れた事があります。
丁字路の真ん中に花壇があるって邪魔なんですが、これも由来があるんでしょう
長岡分岐点から保原に向かう廃線跡。
この狭い道路を路面電車が走っていたとは・・・ちょっと信じがたい
長岡市街にある熱田神社。
尚、記していませんが江戸時代からの旧街道には多くの寺社旧跡があるのは定番です。
現在の国道4号線をオーバーパスする歩道橋。
かつては路面電車の跨線橋でした。
当時の架線柱が1本だけ残っています
この柱も今では貴重です
で・・・福島交通(株)の伊達長岡のバス停到着、10時30分。
ココからだと競馬場前を経由して福島駅に至るバスが20分間間隔で走る
一大幹線なので便利です。