南北朝時代の天皇 | 亀の勉強部屋

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子どもの頃病気で右耳が聞こえなくなりました。片耳だけで頑張って生きてきました。

クレヨン習字で天皇の名を書いています。

足利尊氏は後醍醐天皇と組んで鎌倉幕府を滅ぼしました。

ところが命がけで戦った関東武士たちに十分な恩賞を与えなかったために、尊氏は怒って後醍醐天皇と喧嘩しました。

戦に負けた天皇側は三種の神器をもって吉野の山に逃げ込んでしまいました。

尊氏は仕方なし都に仮の天皇を設けました。

南と北に二人の天皇がいるというおかしな時代になりました。

南北朝時代(南朝方)

  97代 後村上天皇  (のり)(よし)・憲良 在任1339~1368  1328~1368

南北朝時代の南朝の天皇。後醍醐天皇の第7皇子。母は阿野兼子。1339年(延元4)吉野の行宮で即位後、賀名生(あのう)・男山。河内観心寺などに移り、住吉行宮に没す。

    98代 長慶天皇  (ゆた)(なり)。  在位 1368~1383  1343~1394

南北朝時代の天皇。後村上天皇の第1皇子。皇弟の後亀山天皇に譲位。

   99代 後亀山天皇 (ひろ)(なり)  在位  1383~1392  ?~1424

後村山天皇の皇子。兄長慶(ちょうけい)天皇の後を継いだ南朝最後の天皇。足利義満が提示した講和条件に従い。1392年の南北朝合一により退位した。1394年太上天皇の尊号を受けた。1410年に嵯峨から出奔、吉野山に入ったが、1416年帰洛した。良の出奔は退位にあたっての条件である皇統の両朝(てつ)(りつ)を義光が守らなかったためといわれる。—百科事典より。

南北朝時代(北朝方)

   1代 こうごん天皇  重仁かずひと 在位1331~1333  1313~1364

鎌倉時代末期の天皇。後伏見天皇の皇子。元弘の乱でご醍醐天皇の笠置後後、鎌倉幕府の申し受け、御父子も上皇の院宣により践祚。建武新政で廃されたが、1336年(建武3)足利氏の創請で弟の光明天皇を即位させ、院政を開始。のち出家。

   2代 光明天皇  (ゆた)(ひと)  在位1336~1348  1321~1380

南北時代の北朝の天皇。後伏見天皇の皇子。後醍醐天皇吉野遷幸後、足利尊氏が擁立。

   3代 崇光(すこう)天皇  (ます)(ひと)(おき)(ひと)  在位  1334~1351  1334~1398 

南北時代の天皇。光厳天皇の第1皇子。観応擾乱の際、南朝により廃され、一時賀名生(あのう)に幽居。

   4代 後光厳天皇 (いや)(ひと)  在位 在位 1352~1371  1338~1374

南北朝時代の天皇。光厳天皇の第二皇子。1352年(文和1)足利尊氏に擁立されて践祚。後円融天皇に譲位。

    5代 ()(えん)(ゆう)天皇  ()(ひと) 在位  1371~1382  1358~1393 

南北朝時代の北朝の天皇。後孝元天皇の第二皇子。(もと)(ひと)親王(後小松天皇)に譲位後、院政。

6代 後小松天皇  (もと)(ひと)  1382~1412  1277~1433

南北朝末期の天皇。後円融天皇の第一皇子。1392年(明徳3)南北朝が合—。譲位後、院政。

 

足利三代将軍義満は朝廷が北と南に分かれて二つあるのはおかしいと話し合い北と南が交代で天皇に地位を継ごうと南朝側と約束し三種の神器を帰してくれといいました。義満の言葉を信じて天皇の証である三種の神器を北朝側に渡しました。ところがいつまでたっても三種の神器をかえしてもらえません。南朝側は義満の言葉にまんまと騙されました。

 

今日は久しぶりに銀世界になりました。正月が過ぎ大寒になっても一向に雪が積もりません。

来る日も来る日も降るのは雨ばかり。

今日は久しぶりに雪が積もりました。でも、大雪というほどではありません。

 

次は足利時代の天皇を書きます。