このブログでも何回か触れたのですが、私の在米の親類の多くはカリフォルニアに住んでおり、戦前に最初に渡米した大叔父はロスアンゼルス近郊のガーデナー市に住んでそれこそガーデナーつまり造園業を始め、ロス近郊の一般住宅の庭の芝刈りをしていました
この大叔父の実家は清水市の(現在は静岡市清水区となっています)三保半島にあり、いわゆる庄屋でしたが、港に入る漁労関係者を相手とした旅館も営んでいていました
いわゆる遠洋漁業の船乗りが宿泊していたのですが、彼らは取れたばかりのマグロを丸ごと一尾お土産としてこの旅館に持ってきていました
大叔父の家族は大叔父の両親である私の曾祖父母二人とその兄弟妹の大家族だったようで、その食卓には朝からマグロの刺し身が並んだと三番目の男子だった祖父から聞きました
そしてこの祖父の大好物が「まご茶漬け」(おそらくマグロ茶漬けの事だと思います)で、前の晩の残りの刺し身をヅケつまり醤油漬けにしておいたものに熱湯を掛けて朝お茶漬けのようにして食べる事でした
またこの家族の朝の味噌汁もマグロのアラで出汁を取ったものだったようです
この祖父と所帯を持った私の祖母は普通の勤め人の娘でしたから、私が祖父の家に泊まりに行くと「よくこんな脂っぽいものを朝から食べるねぇ」と半ば呆れ顔だったのを覚えています
話は替わりますが、「羽衣の松」で有名な三保半島は祖先が信州から移り住んだ家族が多く、甲信地方に多い「宮城島」とか「遠藤」「窪田」「山梨」と言った駿河ではあまり聞かない名字が多いのが特徴です
日本で始めて「ハウス栽培」を始めたのも彼らで、畑を潰してそこにガラス張りのハウスを建ててその中で胡瓜やトマトなどを栽培したのでした
三保半島は静岡市内を流れる安倍川から流れきた土砂が堆積してできたいわゆる「砂洲」で、水も乏しく米が作れなかったため今風に言えば「園芸作物」を作るしか生計の術が無かったのです
信州人らしく頭を効かせて、真冬でも眩しいくらいの日差しが射す温暖な気候を有効利用したわけです
駿府に隠居されていた徳川家康公が大好物だったのも三保半島で真冬に採れた「折戸茄子」で、初夢で見るのが縁起が良いとされる「一富士二鷹三なすび」の「茄子」はこの「折戸茄子」のことなのです
ご想像の通り、真冬に採れる茄子は最高の贅沢品でおそらく今の値段で一個十万円くらいはしたものと思われます
もしかしたら「大御所」様向けの特別な献上品として作ったのかも知れません
最後になりますが、信州出身の方々はフロンティアスピリットが持ち味でなおかつ進取の気性にも富んでいて、富士山麓の朝霧高原や上九一色村、遠くは満州まで開拓民となって荒野を切り開いて行ったことは、信州人の血を母から受け継いだ私の誇りとなっています
因みに私の祖父は大工でしたが、戦前に神奈川県の秦野市に住んでいた親類と共に満州に渡りました
そして秦野の大叔母は終戦後髪の毛を全て剃ってまるで男のような姿で帰国しました
帰国の道中にソ連兵から襲われることを避けるために、男装して命からがら逃げ帰ったのです
私は寡聞にして戦後満州開拓民に日本政府が何らかの補償を行ったのかは承知していませんが、当然謝罪と共に補償が行われるべき問題であると思いますし、こうした政治によって心身の苦痛を被ったと言う事実を今からでも日本政府は明らかにし、道義的責任を認め、謝罪し、生存している関係者とその遺族等に対し何らかの補償を行うべきだと考えます
満州国を創り出し実質的に経営を行っていたのは安倍元首相の祖父であられた元商工省官僚の岸信介元首相です
またその満州国で日本が関東軍の主導の下大麻の栽培をし中国人に売り付け、暴利を得ていた事も明らかになっています
通常の神経の持ち主なら自責の念に駆られて政治の世界から一切身を引くであろうのに対し、何事も無かったの如く戦後に首相になられた岸信介元首相が「昭和の妖怪」と揶揄されたのはこうした理由からでした
岸氏の政治的な功績は米国との巧みな外交交渉等に評価すべき点があったのは確かですが、一般庶民からここまで驕り高ぶっているように見えた政治家は近現代の日本の政治家の中では極めて珍しいと言う気がしますし、高偏差値の受験エリートが必ずしも人格的には「ハイスペック」ではない事を示す良い例かとも思います
少なくも「クールヘッド」の持ち主ではあったものの「ウオームハート」を兼ね備えていなかったとは言えるのではないでしょうか
「岸信介」氏の百年後の再評価を待ちたいと思いますが、個人的にはおそらく石田三成、勝海舟、西郷隆盛等のほぼ歴史的な評価の定まった英傑と肩を並べることは出来ないと考えます
と申しますのも、岸信介氏は「民意」に対する配慮が欠落していた為民衆の広い支持を得ることに失敗し、結果的に「サイレントマジョリティー」を敵に回してしまい、また人物的に日本人が本来的に好む「清々しさ」に欠けていたと考えるからです
端的に言えば「能吏」の域を出ない、およそ「サムライ」とは程遠い「秀才」だったと言えるのではないでしょうか