古いネタを待ってきたな | kame3ブログ~何時からブログで無くなったか

kame3ブログ~何時からブログで無くなったか

最近自分の方向性が分からなくなってきた

どうも、kame3です。

心の底から笑いたい人への動画というのをご存知だろうか。結構昔に有名になったのかもしれない動画で、俺が見たのは高校の時。選択科目で人が少ない授業の休み時間に、一人が流したのがそれを知るきっかけだった。

内容はシンプルで、一人のおじさんが笑っている。そして段々とカメラが近づいていくんだけど、人数が増えて更に笑い声が大きくなる。それにつられて見ている人も笑っているって動画なんだけど、俺は一切笑うことがなかった。

...先に言っておくが、今回はその動画の根底を否定しようという話じゃ無いし笑わなかった自慢でも無いからな。もしこれが他に見ていた人も笑っていなかったらその動画はタイトル詐欺だった話になるけど、俺以外の人は笑っていたから事実効果ある動画なんだなと当時思ったよ。

ではなんで俺は笑わなかったのか。その動画の存在をふと思い出したから考えてみようと思う。

まず、その時の俺はその動画を見て笑わないのがかっこいいとか思ってなかった。笑える動画、ならどんな面白い話とか衝撃映像が来るのか。どんな方法で来るのか、面白かったら普通に笑うネタ系の笑いを想像していたんだよ。

そして始まったらそれは単におじいさんが笑っているだけの動画。ここで、『こんな動画かよ。笑う理由がねぇ!』ぐらいの反発心を抱いていたら引き込まれていたと思う。

でも、俺は内容を知った瞬間に興味を失った。思考系かと思ったのに感情系か。そっからもう、その動画に音声も自分の中に情報として入ってくるけど、元から重たい表情筋がピクリとも動かなかった。

なんでそうなるのか伝わらない人へ簡単に説明しようか。

壁に一枚の紙が貼ってある、押すな→

矢印の先にはスイッチが一つある。別に閉じ込められているわけでも、自分の部屋とかでもなくたまたま外を歩いてて普段通らない道を通った時にこのスイッチがあっただけで、ここでスルーしてしまえばもう二度とこのスイッチを押すことはないだろう。押すなと書いているし。

でも気になってしまった。そして押してしまった。この時の押してしまう人が『笑わない』というスタンスで見て、思わず笑ってしまう人の割合。抑制されると押してしまう、でも人によっては本当に押さないでその場を去る。

押す人が多いイメージはあるけど、実際は押してどうなったのかって言う部分がピックアップされてしまうだけで頑張って無視する人もいれば押すなって書いているから、そのまま押さないでスルー出来る人もいる。


逆に押せ→となっている場合はそれに気付いて本当に押す人の割合。これが最初から笑うつもりで動画を開いて笑う人の割合。

押せって言うことは何かしらのメリットがある、ボタンだけあるわけじゃない。わざわざその存在を広めようとしているんだ。と言うわけで、何も起こらない可能性も視野に入れつつ取り敢えず押してしまう人は割と多いだろうな。

でも全員が押すわけではない、取りこぼしが出てくる。それは仕方ないことなんだ。

では、俺はどう言う状態なのか。壁に押すな→と書かれた紙が貼っている、矢印の方向を見てみる。何もねぇよ!

矢印の先をずーっと見ていってやっぱ何もない、反対側もじーっと見ていく、何もない。上下どちらにもない。スイッチ見えないのに押すなって何だよ、と言いながら去っていく。何もアクションも起きない状況だ。でもごく稀にとりあえず壁を押してみる人がいる。これが笑う人。

要は何も起こせない状況、なのに押すな押せの紙が増えた所で俺はスイッチを押せない。だってスイッチそのものが無いから、押す押せないの思考に至れないから。

よく好きの反対にあるのは嫌いではなく無関心と言うけど、その言葉さえ言えば良いみたいな感じで何で対になるのか分かりづらい。

だが、それは想像の前提が違うんだ。スイッチがあった、押すか押さないかでは無い。スイッチ自体があるか無いか、これがスイッチがあるから押す押さない•好き嫌いになる。

でもスイッチがなければ押す押さない•好き嫌いの話までたどり着けない。このブログだって、このブログまで辿り着けなければ...ごめん、このブログは好き嫌いの対比でも興味ないでもなく、最初から何もないだったな。

無と有の対比ではなく、無と無。最初からこのブログは今まで、そしてこの先にも存在してない存在なんだったな。じゃあこのブログって何?三つくらい下の次元の存在だと思う。−1次元は...存在しないな。以上