ルポ 戦争トラウマ
ー日本兵たちの心の傷にいま向き合うー
後藤遼太・大久保真紀 著 朝日新書
この本を読んだ感想とかポイントを書こうと思って
書き始めたら違うものが出てきた
戦争トラウマ
東京新聞7月20日朝刊 こちら特報部の記事
あと
望月衣朔子記者の動画で
沖縄タイムス黒島美奈子論説委員へのインタビュー
などで
戦争トラウマのことを知り
深く印象に残っていた
わたしはもちろん戦争体験者ではなく
両親、祖父母にも
出征したという話は聞いていない
父母とも1936年生まれ
終戦は1945年なので二人とも9才
父の父親は当時日本統治下の台湾で警察幹部をつとめていて
父は台湾で生まれ育ち
敗戦後に日本にひきあげてきたようだ
父からは台湾の暮らしのこと
戦時下のこと
聞いたことがなかった
一方母からは
わたしが子供の頃
しょっちゅう戦争時の話を聞かされた
食べ物がなくてしじゅうひもじかったこと
さつまいもの蔓を食べていたこと
母の兄が近所の家の庭の柿の実を盗んで取ってくれたこと
食べ物にまつわる話が多かったようだ
8月6日の朝
西の空にピカッと光る閃光を見たような気がする
とも言っていた
わたしはそれを聞いて子供心にも
さすがにそれはどんなもんだろうか
疑問を抱いたことを覚えているが
母のその言葉は折に触れて思い出す
母の実家は千葉県であった
わたしは
子供の頃に母からひどい打擲を受けた
折檻というよりは虐待であっただろう
そのことは記憶の奥底に封じ込められて
フラッシュバックという形で
30代後半になって突如呼び起こされた
体調不良で精神科を受診しで
うつ病と診断されてから2年目のことだった
その記憶は大人のわたしにとってもあまりにも忌まわしく
受け入れ難いもので
記憶が呼び起こされるたびに
喉が絞られ腹が締め付けられて苦しくなり
頭の中がじんじん痛み
体がぎゅっと押さえつけられるような圧迫感があり
それにじっと耐えているうちに
涙がこぼれ
やがて記憶が薄れると
少しずつ体が楽になって
ほーっと深い息を吐いて
身体中の力が抜けて
ぐったりその場に横たわるのだった
医師のアドバイスを受けて
その場面を絵に描いたり
安全な場所で語ったたり
文字に起こしたり
しながら向き合ううちに
記憶の脅威は段々と弱まっていった
それはあくまでも過去のことで
今の自分は安全なところにいて
そのような暴力に怯える必要はないことを
理性を持って自分自身に語りかけたりもした
記憶の脅威が薄れてゆくと
体の不調があちこちに出始めた
背中の痛みがひどくなり
精神科の主治医から整形外科の受診を勧められて
レントゲン撮ったりしたが異常はなくて
自分で探してあちこちのマッサージや整体にもいったが
はかばかしい効果はなくて
インターネットで見つけた
隣町の整体の先生がとても優しくて
最初の治療時に背中に触って
「これはさぞ辛かったことでしょう」
その言葉は涙が溢れるほどに嬉しかった
わかってもらえる人がいるという安心感
しばらくその整体院に通ううちに
背中の痛みが楽になってきて
ありがたいなぁと心から思い
自ずと感謝の気持ちが湧いてきて
体が楽なことの幸せなひと時を過ごしていると
今度は猛烈に背中が痒くなって
いてもたってもいられなくなった
その時は
精神科のデイナイトケアのために通院していたので
クリニックの看護師に相談したところ
近くの皮膚科を教えてもらい
急いでそこを受診したら
皮膚科の先生はニコニコしながら
ぶっとい注射を背中に打ってくれた
注射をしてすぐに背中の痒みは治まったが
一体自分の体に何が起きてることか
全くわからずただただ翻弄されて
右往左往するばかりで
精神科の医師に話しても首をかしげるばかりで
要領を得ないのであった
クリニックに数名いるうちの著名な医師などは
グループカウンセリングの場で
ここに通ってる男たちはみなそこそこポンコツで
回復にはほど遠く
恋愛やらお相手探しなどできる状態ではない
ましてや
背中が痛いかゆいなど言ってるような奴は
とバカにしてるのか
からかってるのか
どういうつもりなのか
ニヤニヤ笑いを浮かべて
神妙に話を聞いてるわたしを含めた男の患者たちに向かって話すのだった
前置きが長くなった
自分のトラウマ体験と症状
それと戦争トラウマがどう関係するのか
それについて触れたくて書き始めたら
止まらなくなってしまった
自分の症状はここまでにして
母親のことについて記しておきたい
精神科の診察を受けて
初診からは20年くらいたっだろうか
今のわたしは身体症状に苦しむことはほとんどないが
セルフケアとか対人関係とか
あれこれ悩ましいことは日々あるわけで
その由来を考えて過去を遡って記憶を掘り返したりしていると
どうしても母との関係にいきつくことは多い
そうすると自然と母のことを考えて
母はなぜあのようなことを?
母の異常な行動の数々が思い出され
母も深い傷を心に負っていたことは
間違いないことのように思われるのであった
そしてそれが
戦争トラウマという言葉で表現できるのではないかと
思えてきて
もちろん子供の母が戦地に赴いたたわけでなく
戦闘や空爆に巻き込まれたこともなかったのだが
戦争の残り火のようなものが向こうからやってきて
子供の母に大きな傷を残していったと
わたしは想像している
母の兄弟は大勢いて確か7、8人だったと思うが
母はその真ん中で
兄弟姉妹の世話をあれやこれやして
勉強も良くできた優等生だったらしい
もちろん母が自分で言っていたことなので
本当のところはわからないのだけれど
会社の帳簿付の仕事を家に持ち帰ってして
読書が好きで
文章の綴り方や言葉の使い方に厳しい面があったことから
勉強好きだったことはそうなんだろう
歴代天皇の名前や教育勅語なんかも諳んじることができたらしい
そんなことからも
当時の教育にどっぷり浸かっていただろうし
お国のため天皇陛下のためそして兵隊さんのために
しっかり自分のできることをやるという
強い意志を持って暮らしていたものと思われる
戦争が終わってからであろう
外地から引き上げてくる兵隊の姿が
町にも見られるようなった頃
母の実家の町には軍隊の大きな施設がいくつもあって
軍隊の町だったので
郷里に帰らずあるいは帰ったのちに
所属部隊の駐屯地を慕ってか
少なくない復員兵が訪れたのではなかろうか
お国のために戦った立派な兵隊さんに声をかけられれば
無垢な女の子はその言葉に黙って従ったことだろう
母は
わたしが大人になって持っていた
米軍払い下げ品のブーツとカーキ色のリュックサックを
毛虫のように嫌って
家の中に入れるなと言い放った
また暗闇が嫌いで夜寝るときは
小さい灯りをひとついつもつけていた
69才で亡くなったが
亡くなる数年前からあちこち様子がおかしくなって
その頃わたしは離れて暮らし
精神科に通院して治療中心の生活だったので
詳しく知らないことも多いのだが
兄夫婦や父などから後で聞いたところでは
自分でスカート捲り上げて下着を下ろし
パンツが履けないの履かせてと言った言動を繰り返していらしい
家の中ならまだしも
時々近所の家の玄関を開けて同じことをすることもあり
もちろんその家の人はびっくりするだろうし
兄夫婦や父にそのことを報告すると
兄の奥さんが謝りに行ったということが度々あったとのことだった
いま思い出した
わたしも一度母からそういうことを求められたことがあった
こんな事柄から想像したのは
兵隊服を着てリュックを背負った兵隊に
手を引かれるように防空壕へ入っていく少女の姿だった