映画「許されざる者」を観た

クリント・イ一ストウッドのやつ

ちょっと前に

もっと古い同名の映画も観た

日本版も前に観た

北海道が舞台で明治初期の設定のもの

 

わたしはどうも

許されざる者

というタイトルに惹かれるらしい

 

主人公はみな

許されることのない罪を

背負っているということなのか

あるいは

許されることなく

また新たに業を背負うことになる

ということなのか

 

映画のタイトルと内容の関連はよくわからない

 

クリント・イーストウッド主演のは西部劇

わかりやすくて

主演クリント・イーストウッドはかっこよかった

風景の描写が美しくて

荒野を渡る風やその匂いまで感じるようだった

 

さて

わたしのこと

なぜ

許されざる者

に惹かれるのか

それはたぶん

わたし自身が許されざる者だと

認識してるからだろうと思われます

 

罪深き者

としての烙印押されし者

もちろん

わたしの体

どこにもそんなものをない

だけれども

心か魂かに

ぐさっと差し込まれて

深い傷となっているのではないか

あぁ

一息にぐさっとやられただけでなく

幼い頃の日常に

暴言と暴力で

存在を否定され

貶められ続けた蓄積でも

あったのだろう

 

大人になったわたしは

異国の地で働いて

体が思うように動かなくなって

なんとか母国に帰って

体の不調と戦いつつ

次の就職先を探していた

医者にかかった方がいい

との助言を受けて

初めて受診した精神科

睡眠導入薬

抗不安剤

頓服

など初めて聞く薬ばかりだった

 

薬を飲むと楽になった

楽になったら

職探しに出かけた

そしてすぐにまた動けなくなった

その繰り返し

医者は

飛んで行った飛行機が戻って

またすぐに離陸しようとしてるみたいなもの

少し休みなさい

と言った

休む?

ということがわからなかった

 

そして

薬物療法主体ではなく

認知行動療法とか

カウンセリングなどの対話中心で

患者の主体性を重んじてくれて

アロマセラピー

音楽

お絵描き

芝居

など

生活とは直接関係ないような

感覚や自己表現を育てるプログラムを揃えた

クリニックへ通院するようになった

 

そこで

休むこと

体を労わることを

教わり学んだ

それは

自分を許すことでもあった

 

休むことを許す

自分を労わることを許す

そして

欲しいものを手に入れることを許す

許すことを覚えて初めに買ったものは

二層式自動洗濯機だった

それまで

衣類は風呂の残り湯で

手洗いしてた

動かない体に

手洗いはきつかったので

洗濯機はとてもありがたかった

次は

身の回りの品々で

一番嬉しかったのは服だった

それまでのわたしは

必要最低限の服装しか許されてなかった

誰に許されないかって?

自分自身に!

わたしは服が好きだった

服を選ぶのが好きだった

だからこそ

それは許されることではなかった

作業服とか

防寒服とか公的な場で着る服とか

用途に応じた最低限のものだけだった

許しを得て

わたしは服を選ぶのが楽しくなった

でも常に葛藤の中での買い物だった

本当に欲しいと思ったものには

手が出せないで

違う色や値段の安いものを選んでしまう

そして後で後悔して

次はきっと一番欲しいものを買える金額で選ぼうと

 

そうやって少しずつ

自分を許し

楽しみや喜びを味わった

体も少しずつ回復した

よくなったり悪くなったり

イワさんというスタッフは

螺旋階段のように回復する

と言ったが

螺旋階段がなんだかその時はわからなかった

今のわたしには

起伏の多い暗くて細い険しい山道を歩いていたような感覚

そして

いつしか

目の前にはだだっ広い

真っ白な平原が広がっていた

どこへ行けば良いのか

どちらに向かえば良いのか

わからなくなった

 

そんな中

方向性を与えてくれたのが

主治医の言葉だった

未練の探求

子供の頃に好きだったこと

それを十分にできなかった

と思うものがあったら

それを探してみなさい

 

子供の頃のわたしは

外で遊ぶのが好きだった

田んぼや小川に網を入れて

カエルや小魚や水の中の昆虫を探して捕まえた

でも

それは十分ではなかった

高度経済成長期に

この国の自然は汚染され破壊された

わたしの子供時代に

もう豊かな自然は残されてなかった

なければ自分で作ろう

わたしはそう考えていた

そして

その一歩をまた踏み出した

若い時と同じように

でも

ちょっと違ったやり方で

もっと直接的で素直で正直に

 

 

 

 

映画「許されざる者」を観た

クリント・イ一ストウッドのやつ

ちょっと前に

もっと古い同名の映画も観た

日本版も前に観た

北海道が舞台で明治初期の設定のもの

 

わたしはどうも

許されざる者

というタイトルに惹かれるらしい

 

主人公はみな

許されることのない罪を

背負っているということなのか

あるいは

許されることなく

また新たに業を背負うことになる

ということなのか

 

映画のタイトルと内容の関連はよくわからない

 

クリント・イーストウッド主演のは西部劇

わかりやすくて

主演クリント・イーストウッドはかっこよかった

風景の描写が美しくて

荒野を渡る風やその匂いまで感じるようだった

 

さて

わたしのこと

なぜ

許されざる者

に惹かれるのか

それはたぶん

わたし自身が許されざる者だと

認識してるからだろうと思われます

 

罪深き者

としての烙印押されし者

もちろん

わたしの体

どこにもそんなものをない

だけれども

心か魂かに

ぐさっと差し込まれて

深い傷となっているのではないか

あぁ

一息にぐさっとやられただけでなく

幼い頃の日常に

暴言と暴力で

存在を否定され

貶められ続けた蓄積でも

あったのだろう

 

大人になったわたしは

異国の地で働いて

体が思うように動かなくなって

なんとか母国に帰って

体の不調と戦いつつ

次の就職先を探していた

医者にかかった方がいい

との助言を受けて

初めて受診した精神科

睡眠導入薬

抗不安剤

頓服

など初めて聞く薬ばかりだった

 

薬を飲むと楽になった

楽になったら

職探しに出かけた

そしてすぐにまた動けなくなった

その繰り返し

医者は

飛んで行った飛行機が戻って

またすぐに離陸しようとしてるみたいなもの

少し休みなさい

と言った

休む?

ということがわからなかった

 

そして

薬物療法主体ではなく

認知行動療法とか

カウンセリングなどの対話中心で

患者の主体性を重んじてくれて

アロマセラピー

音楽

お絵描き

芝居

など

生活とは直接関係ないような

感覚や自己表現を育てるプログラムを揃えた

クリニックへ通院するようになった

 

そこで

休むこと

体を労わることを

教わり学んだ

それは

自分を許すことでもあった

 

休むことを許す

自分を労わることを許す

そして

欲しいものを手に入れることを許す

許すことを覚えて初めに買ったものは

二層式自動洗濯機だった

それまで

衣類は風呂の残り湯で

手洗いしてた

動かない体に

手洗いはきつかったので

洗濯機はとてもありがたかった

次は

身の回りの品々で

一番嬉しかったのは服だった

それまでのわたしは

必要最低限の服装しか許されてなかった

誰に許されないかって?

自分自身に!

わたしは服が好きだった

服を選ぶのが好きだった

だからこそ

それは許されることではなかった

作業服とか

防寒服とか公的な場で着る服とか

用途に応じた最低限のものだけだった

許しを得て

わたしは服を選ぶのが楽しくなった

でも常に葛藤の中での買い物だった

本当に欲しいと思ったものには

手が出せないで

違う色や値段の安いものを選んでしまう

そして後で後悔して

次はきっと一番欲しいものを買える金額で選ぼうと

 

そうやって少しずつ

自分を許し

楽しみや喜びを味わった

体も少しずつ回復した

よくなったり悪くなったり

イワさんというスタッフは

螺旋階段のように回復する

と言ったが

螺旋階段がなんだかその時はわからなかった

今のわたしには

起伏の多い暗くて細い険しい山道を歩いていたような感覚

そして

いつしか

目の前にはだだっ広い

真っ白な平原が広がっていた

どこへ行けば良いのか

どちらに向かえば良いのか

わからなくなった

 

そんな中

方向性を与えてくれたのが

主治医の言葉だった

未練の探求

子供の頃に好きだったこと

それを十分にできなかった

と思うものがあったら

それを探してみなさい

 

子供の頃のわたしは

外で遊ぶのが好きだった

田んぼや小川に網を入れて

カエルや小魚や水の中の昆虫を探して捕まえた

でも

それは十分ではなかった

高度経済成長期に

この国の自然は汚染され破壊された

わたしの子供時代に

もう豊かな自然は残されてなかった

なければ自分で作ろう

わたしはそう考えていた

そして

その一歩をまた踏み出した

若い時と同じように

でも

ちょっと違ったやり方で

もっと直接的で素直で正直に

 

 

 

 

映画「シェルター」を観た

おもしろかった

主演のジェイソン・ステイサムは好きなので

彼の映画はなるべく観たい

 

画質が暗くて不明瞭に見えるのも

わたし好み

 

少女の影ある表情がまた良い

 

決して恵まれた境遇とは言えない少女

両親はすでになく

最後の肉親である叔父も逝った

逃走中の車でジェイソンが

「めげるな、生きろ」と

さりげなくしかし力強く言う

人生とはそんなものだ

ともわたしには聞こえた

 

脳裏を記憶が断片的に飛び交い

脳内をいろんな言葉が駆け巡る

 

そうだ

その通りだ

普通の人たちはあるものがなくても

不幸とは言えない

そのおかげでわたしには

普通の人たちにはないものがある

それは望んだわけでなく

生き抜く術として

身につけたもの(身についたもの)

それを

大人のわたしが

わたしのために駆使して

生き抜くために使うのだ

人生を切りひらくために

より良い人生のために

 

涙がそっと流れて

頬をあたためた

8月

クリニックで医師から

「あなた完璧主義なところあるかな?」

と聞かれて

確かに思い当たること多い

なんでそういう話になったか

自己肯定感のなさとか

自己否定とか

自分が自分に感じてることを

話したあとだったように思う

 

初めは

へ?なに?

という感じだったが

確かにそうだ

完璧主義だ

そしたら先生が

「そういう時は自分を許してあげたらいいんだよ」

ゆるっと言ってくれた

『あ そういうもんか』

その時は

わたしの胸にスッとその言葉は入ってきた

 

昨日 今日

仕事上のミスに

自分を責めるわたしがいた

責める?

もっときつい

なじる

つめる

けなす

そう

それが嫌だから

辛いから

わたしは完璧でなくてはならなかった

失敗すれば

頭の中で

自分自身を責め立てる声が聞こえるようだ

「だからおまえはダメなんだ」

「はぁ おまえはやっぱりだめだ」

「おまえ✖️✖️✖️」

その声の主は

母であろうか

わたしが子供の時の

母の声が聞こえてくるようだ

 

父は

わたしが失敗した時

ニヤニヤ笑って

「おまえさんはダメだねぇ」

 

呪縛だな

これも

 

わたしのそばに

もはや

母も父もいない

わたしを貶め責め立てるものは

もういない

自分以外は

 

許すのは自分

 

 

「謙虚さと自信のなさは違うのよ」

港区のクリニックに通っていたときに

セラピストから言われた言葉

最近その意味がようやくわかってきた

 

自信のなさって

自己肯定感の低さとつながっていて

わたしの場合

自己肯定感の低さというより

自己否定の塊だったことに気がついてから

自己肯定感がわかるようになって

自分に対して肯定できるようになった

 

自分を否定していると

他者との関係性において

相手を優位において

自分を低く見積もるので

相手のことを知るうちに

なんだこの程度かとがっかりしたり

腹が立ったり

調子に乗せてしまったり

面倒くさいことになることが多く

それが

相手のせいというより

自分の自信のなさに起因してたことが

やっとわかった

 

 

 

 

自己肯定感の低さが

わたしの課題だった

というか

自己否定がほとんどの中で

自己肯定。。。?

という感じだった

 

それが

ある日ある時

自分を肯定する感覚が

わかったような気がした

 

いつもいつも

自分を低く見積もって

対する相手を

高く見積もっている癖

付き合ってるうちに

相手はそれほどいい人でも

素晴らしい人間でも

能力が高いわけでもないことがわかってくる

 

それらはすべて

自分を低く見積りすぎた結果による顛末

 

あれだけ堂々と話してるのだから

すばばらしい人に違いない

思い込んでいるわたし

裏をかえせば

何事にも自信が持てない自分がいて

自己評価が低い結果

他者への評価を高く見積もってしまう

 

きみは人材だから

と言われて悪い気はしなかった

むしろ認められたような気がして

承認欲求が満たされたような気持ちになった

 

しかしなんか胸の内がザワザワする

考えてみた

人材。。。?

材というのは

木材とか

資材とか

建材とかと同じで

材料ということではないか

人材というならば

対価が必要で

それに見合う報酬を得て

初めて納得できる言葉

つまり

資本家とか経営者が用いる用語

 

そこに思い至って

わたしは初めて

自分が人材ではなくて

人間であることに気がついた

 

わたしはお世話になった人や

親切にしてくれた人に

お返しというか

贈り物をすることがある

高価なものを買って贈るのではなく

自分で育てた野菜とか

取り寄せた果物のお裾分けとか

決してあまりものではなくて

自分で食べたり飲んだりしても良いのだけど

良いものだから喜んでもらえたら嬉しくて

人に贈る

 

一方で

わたしが受け取るのは

その人が使わなくなったものだとか

売り物にはならないけど十分食べられるものだとか

自分たちで食べきれなくて捨てるのは惜しいものだとか

 

あーそうだったんだ

わたしは人には良いものをあげて

人からはあまりものとかもらって

満足してた

 

やっとそこに気がついた

 

これからどうしたらいいんだろう?

いらないものはいらないと言えばいいんじゃないかな?

あと

そんなふうに

贈り物が見合わない相手に敬意を払うのはやめて

付き合いも距離をとったほうがいいだろう

うまく使われる?

そんな関係が固定すると厄介だ

 

わたしはまぁまぁ能力のある人間だが

自己評価が低く

自己肯定感がほとんどないので

誰かにとっては

掘り出しものの超お買い得品みたいなところがある

 

自己肯定感を育てて

自己評価を上げて

自分の価値を見定めて

他者へのむやみな高評価は慎もう

 

自分と他人の関係でいえば

自分以外はみんな他人

そんな他人たちと

他人にしかいない世界で

わたしはどう向き合っていけばいいのだろう?

 

今更ながらの切実な課題

 

 

映画

「カーンターラ 神の降臨」を見た

面白かった

インド映画は好きだけど

時間が長い

登場人物が多い

話が複雑

など苦手なところも多いが

この映画は

比較的シンプルで

内容がわかりやすかった

 

でもやっぱり

登場人物が多くて

ときどき

重要な役どころだと思われる人と

そうでもない人がごっちゃになったりして

?が頭の中を占め

話についていけなくなりそうにもなった

 

それでも

最後まで

飽きずに見られたのは

躍動感と映像の美しさのおかげ

 

森の中の村の素朴な暮らし

森の懐の深さと自然の恵み

自然と調和した人の暮らしと

人間社会の調和と秩序を乱す

権力と私欲

 

そこに人智を超えた

神?聖霊?の存在があり

信仰と敬虔な姿勢が

人が人として生きる道を

照らしてくれることになる

 

わたしが感動したのは

人間が思い描く

神?聖霊?の存在が

リアルだったこと

 

今の日本では

失われてしまったのではないだろうか?

神?聖霊の存在と信仰

そして

その姿を思い描く想像力と交信

言い換えれば

敬虔な心

 

神?聖霊?と繋がっている人の暮らしが持つ

清らかさと潔さ

人としてのありよう

 

日本はどこへ向かうのか?

文明社会?

大量生産大量消費の資本主義社会は

人を消費し続けて

人は人としての生き方を見失うことになるのではないか

AIによって生き方を指南される人生?

 

わたしは真っ向ごめんこうむる

 

神・精霊と繋がり

讃え崇め祀り請い

人としてのありようを

日々の暮らしに落とし込む

 

映画の中で

村人が神・精霊を演じて踊る場面がある

神・精霊が村人の肉体に乗り移り力を振るう場面がある

その姿に畏怖を覚えた

美しさに見惚れ

声音と表情に畏れを抱いた

 

神・精霊は

人の感情知識を超えた存在

それを表現したこの映画が素晴らしい

この映画を作った人たちが素晴らしい

 

 

 

 

 

死にたい

考えることもなく

口から漏れることが

たびたびある

 

本当に死にたいと思ってるかと言えば

そうではない

 

消えて無くなりたい

いなくなってしまいたい

存在を消しさりたい

 

そんな気持ちのとき

死にたい

と言葉が口から漏れ出す

 

死にたい

と口にすることで

少しだけ救われた気になる

甘美な陶酔感に浸って

現実逃避

自己憐憫でもあるらしい

 

ほんの一瞬

 

逃げ出したい

なにから?

自分自身から

生の重さから

人としての責務から

世間から

他人の目から

・・・

抑圧から・・・

 

死にたい

本当に死にたいわけではなく

今の生から逃げ出したい

自分自身から離れたい

そんな時に

ぽろっと口からこぼれてくる

 

 

夢を見た

わたしはよく夢を見る

現実味のある

忙しかったり

怖かったり

慌ただしかったり

そんな夢が多い

見たことも言ったことない場所

会ったこと(覚え)のない人たちが出てくる

 

おととい見た夢はちょっと違った

前に世話になった医者の先生が出てきて

その医者先生と二人で酒を飲む場面

場所は医者先生の別荘か隠れ家みたいな

田舎の木造建築

そこに招かれたのか訪問したのか

わたしが赴く

医者先生は見たこともない笑顔で歓待してくれた

よく見れば

これまでなかった山羊髭のような顎ひげがある

眼鏡の奥の細い目は

本当に笑ってるように見える

そんな先生を前に

わたしは戸惑いを覚えながら

態度を決めかねている

 

医者先生は

自身がカメに仕込んだ薬酒を振る舞おうという

地下の涼しい場所にあるという

わたしが

応じるべきか

遠慮するべきか

迷っていると

医者先生は腰をあげて

自ら取りに行こうとする

わたしは慌てて医者先生を制して

階下にあるカメに酒を汲みに降りて行った

 

薬酒を汲んで

席に戻り

座卓を挟んで差し向かいで

医者先生と酒を酌み交わす

医者先生は破顔の上機嫌だ

本当にわたしとの主席を楽しんでるようだ

話は医者先生が主導し

わたしは相槌を打つか

質問に簡単に答えてる

そのうち

医者先生は

とっておきのつまみを出すという

串に刺して干した果物のようなもの

初めて見るもので

どうやって食べたらいいものか

思案していたら

医者先生はおもむろにわたしの串から

ひとつ干し果物を外して

わたしの口に押し込んだ

 

外の皮は硬いが

中身はつるんとしてやわらかく

甘味の中にツンとする苦味があった

体には良さそうだ

医者先生はわたしの反応を確かめると

にっと笑ってなにやら囁いた

なにを言ったのか定かではない

 

どうだ美味いだろう

これは〇〇によく聞くんだ

そんなことを言ったかと思う

残念なのは

〇〇のところが不確かなこと

 

一体どんな効用があるのだろう?

でも

医者先生が嬉しそうに勧めてくれたものだから

良いものに違いない

わたしはそう納得するようにした

医者先生は上機嫌で笑顔で話している

そして

おい 前みたいに「ぶっこわしてやる」

あれをまたやってみないか

そう言ってわたしを焚きつけてきた

「ぶっこわしてやる」?

なんだっけそれ?

もやもやしながら

わたしは目を覚ました

 

ぶっこわしてやる?

それは一体何だった?

 

昨日ももやもやそのことが

浮かんだり消えたりしていた

 

これを書いてて思い出したのは

医者先生に出会う前のわたしは

ぶっこわす

というのが行動原理だったように思う

医者の先生にあってからも

その思考はなかなか抜けず

直接行動はもちろん取らず

穏やかで適切な形で

ぶっこわしたい対象に立ち向かってきたっけ

 

怒りの対象

不当なことものひと

そういうものをぶっこわす

反骨精神というのだろうか

 

もう一度

そういうのを思い出してもいいんじゃないのか?

医者先生は

そう問いかけているのだろうか

 

しかしまたなんで?

医者先生はわたしのことをまだ気にかけてくれてるのか

それは何だか面映くあり嬉しいこと

あるいは

わたしの深層心理が

医者先生の姿を借りて

自分自身に呼びかけてるのか?

 

わたしは対人関係において

しょっちゅう

申し訳ないとの思いが頭の中に浮かんでくる

それが対人関係におけるわたしの行動を決定する

顕著なのは

大勢の間で話す時

こんなにたくさんの人たちの時間を

無駄にしてしまって申し訳ない

と思うので

とにかく端的に短く話すことに努める

うまくいけば素晴らしいが

短時間に要点を詰め込むのは難しく

大体とっ散らかった話になってしまう

 

あと

人から親切にしてもらうと

咄嗟に申し訳ないと感じて

それは負い目にもなって

深い感謝や恩返し行動に転じて

それは悪いことではないのだが

度が過ぎるようで

相手の依存心を掘り起こし

都合のいい人になってしまうようだ

 

他者からの高評価も

同じような結果になる

こんな俺のために

申し訳ない

と心のどこかで引け目を感じてしまう

 

ネットで調べてみたら

note の記事が見つかった

 

記事中に

存在への罪悪感

自己肯定感の低さ

に起因する?

とあり

全くその通りだとおおいに納得

 

とにかくわたしは自己肯定感が低い

いつも自分はダメだと思っていて

なにかあれば自分を責める思考に陥る

声は随分前から気づいているので

自分で自分をフォローする癖をつけてきた

 

自己愛の強い同性(ナルシスト)に

いいように扱われてしまう傾向に気がついたのが最近

これも自己肯定感の低さに起因してる

自己愛強めに人の自信ありげな態度に

この人は立派な人なんだと

根拠曖昧なまま信じ込んでしまう

相手は自分大好きなので

こちらが褒めたり持ち上げれば

大変気持ち良くなって

ニコニコになるのはいいのだけど

そのうち態度は増長して

いつやら上から目線で接してくる

こういう経験を繰り返してきて

やっと最近

自分の自己肯定感の低さに原因があることに気がついた

 

わたし

なんんでそんなに自己肯定感が低いのか?

もちろん幼少期の家族との関係性に原因がある

しかし

わたしももういい歳である

それなりに人生を歩んできた

普通の人にはできないことや

体験し得ないことを体験してきたし

他者の役に立つことも

社会貢献だって実現してきた

そんなに捨てた存在ではないのだ

やっとそこに気がついた

そこに気が付きにくいのは

わたしの特性ひとつである記憶の埋没にある

ある場面は詳細に記憶してるのに

普段はぱっと必要な記憶ができない

今の自分と過去の自分が線で繋がっておらず

ポツポツ断線されて

点と点でしか表現できない

このこちにも最近気がついた

だから

文字にして

文章にして

物語として

表現することが

わたしにとっては大切だし

わたしの未来を豊かなものにするために

必要なことと思えてくる

 

次に

存在への罪悪感

これについては

これから掘り進めることになるのだが

畑で草取りをしてたらら

ふと子供の頃の記憶が蘇ってきた

いつも母親の仕事先に連れて行かれて

とにかくいい子にしてることが求められた

母親の邪魔をしない

職場の人たちに迷惑をかけない

その禁を犯せば容赦ない母親の罵声怒声

時には暴力にさらされる

子供の頃?

平日の日中に母親の職場に同行するのだから

小学生に上がる前のことだろう

もしかしたら幼稚園前なのか?

そのへんの年齢のことはわからない

調べてみたらわかるかもしれないが

母親は既に他界しているし

親しい肉親もいない

 

思い出すのは

第百生命という保険会社の事務所

上野か御徒町の小さな機械工場(こうば)

国鉄(現JR)の車内

 

こういう記憶をたどりながら

自分自身の歩いてきた道のりを紡いで

未来への道標としたい