「解離」という症状は
ずっと気になっていた
なんだか身近に感じていたのだけど
じゃあ、解離って何?
と聞かれると言葉が詰まる
自分自身と意識や感情が分離してる状態?
ぼんやりとだけど
そんなふうに捉えていた
でも、最近読んだ本によれば
それは離人症と呼ばれる症状らしい
人と対面で話してる時
ぽやーとして
相手の言葉は聞こえてるけど
自分自身は何も感じず
相手に怪しまれないよう表情を作ったり
適当に相槌打ったり
あるいは
頭の中でイメージが巡るのを眺めていたり
こういうことはしょっちゅうだった
で
解離、に話を戻すと
どうやら、人格の分離ということらしい
「愛着障害と複雑性PTSD」岡田尊司著 SB新書によれば
解離という現象は、憑依や記憶喪失、二重人格、催眠術などにおける意識や記憶、人格の変容として、古くから経験的に知られていたが、心理学的に体系化した最初の人は、先にも触れたピエール・ジャネである。ジャネは、『心理学的自動症』(1889)のなかで、心理学的統合不全の状態に対して「解離」という用語を用いた。P246
どうもわかりにくいのだが、この章を読み進めていくと、「人格のパーツ」という言葉が出てくる。成熟した人格は、さまざまな人格のパーツを持ち合わせ、必要な時に適切な部分人格でことに臨んだり、コミュニケーションが取れるものとされている。
解離が生じた状態は、この部分人格がバラバラであり、統制すべき人格が不安定で、激しく怒ったり、かと思うと泣き出したり、子供みたいになったりして、部分人格がそれそれぞれ別個に動き出す。これでは、周囲の人たちも困るだろうし、当の本人も生きにくいことだろう。さらには、記憶は部分人格と連動しており、解離が激しいと、部分人格間の記憶の受け渡しができなくて、別の部分人格の時の記憶が出てこない状態になり、これが解離性同一性障害というもの。
わたしの場合、記憶と部分人格の連動性において、大いに思い当たるところがある。わたしは実際ある種の記憶が抜け落ちた状態で長い時間を過ごしてきたのだが、フラッシュバックにより突如として抜け落ちた記憶が、その時その場で起きているかのような鮮烈な臨場感を持って現れた。体全体がガクガクふるえて、腰が抜けたようになり、存在しないはずの声が頭の中に鳴り響いた。苦しくて恐ろしくてわたしは身をかがめて嵐が通り過ぎるのやり過ごそうとするのだが、涙が溢れ息苦しさに胸は圧迫され胃が締め付けられるような痛みを伴った。
これが、わたしが児童期にうけた暴力の記憶であることがわかるのは、それからしばらく経ってから、精神科医の説明によってだった。心的外傷体験に伴う外傷性記憶ということだった。
記憶と部分人格に話を戻すと、わたしもどうもこの部分人格間の連動がうまく機能してないようで、つい最近になって、これまで生きてきて体験した記憶が、自分の中の強い部分人格の出現と共に蘇りつつある。
わたしは、一見、ひ弱なように見えるのだが、普通の人が体験したことのないようなことをいろいろやってきている。それなりに修羅場を潜ってきたと言ってもいい。その記憶の多くは、悪いことではないのだが忌まわしいものとして、無意識ではあるが、意識下に押し込めてきたようだ。そうしないと、今の時間をゆっくり楽しんだり、心からくつろいだりすることができなかったからだと思う。あるいは、過剰適応によって、治療の場に集う仲間たちを怖がらせないように、それとも、自分をその場に馴染ませるために弱い者の1人として演出するためだったかもしれない。
確かにそれはそれで心地よい時間だった。モラトリウムというのだろうか。
しかし今、社会で一人で生きていて、他者とのコミュニケーションに煩わされ、自分自身を肯定して、自分自身の人生を送るために、過去の自分と向き合いつつ、愛着対象と共にある未来の自分を思い描くにあたって、自分が変わらなければならない事態に直面した。
するとどうだろう、これまで意識下に押し込められていた強い部分人格が戻ってきて、主導権をにぎるようになった。そして、記憶がまた頭の中で感情を伴って再生されて、それまで否定的だった自分の体験が、それほど悪いことではなかったように思えてきた。
不思議なものだ、と感じている。