映画「名もなき者 A Complete Unknown」を観た

期待以上の作品だった

映画見てるうちに

あれ知ってる どっかで見た

って思ったら

「Im not there」だった

ストーリーは被ってるんだな

ボブディランの足跡に沿った映画で

元々が何かは知らないけど

「ノーディレクションホーム」?

ボブディランが歩いてきた道を

ところどころ切り取って見せてくれる

 

いつしか

そういうことも気にならず

映画の中に埋没してた

ボブディランを演じるディモシー・シャラメ

映画を観てるうちに

ボブディラン本人にしか見えなかった

 

ボブディランの歌が素晴らしいことは

言うまでもないことで

歌に込められたメッセージのようなもの

魂と言ってもいいかもしれない

そう言うのが

歌と共にストレートに入ってくる

 

素晴らしい映画

観てよかった

また観たいと思える映画

 

映画館を出て

壁一面の馬鹿でかい予告映画ポスター

小さい子が

詳細をひとつひとつ確かめるように見上げていた

その様子を見て

私は

この子の夢が守られますように

この子の歩く道が温かいもので包まれますよう

私はその守護者となれるか

そんなことを思った

そしてすぐに

それは自分自身の子供時代に

向けられた言葉じゃないのか

自問自答した瞬間

涙が溢れ出た

 

インナーチャイルド

記憶に埋もれた私自身の子供時代

私の中の小さい子ども

 

頭の中で

ボブディランの声がした

耕せ

種を蒔け

書け

つくれ

自分自身を

自分自身のために

 

 

 

 

 

映画「Black Box Diaries」監督の言動が気になる

映画は監督が当時TBS所属の報道関係幹部から性被害を受けた後の、あれこれについて描かれているようだ

わたしは映画を観ていないし、観たいとは思わない(日本では未公開だが世界57カ国以上で公開)

かの案件は、被害届が警察に受理され、捜査が進み逮捕寸前で、上部の命令で逮捕取り消しとなったことが、報道されてわたしも不審に思い関心を持つようになった

その後、民事裁判で監督の主張が認められ、TBS所属の男は加害認定された

 

男は報道関係者で、当時の安倍首相とも近く、そのコネを頼って警察に働きかけて逮捕を逃れた、との疑惑がある

権力の濫用がわたしは大嫌いだ 不当だ 不適切だ 法の下の平等に反し、非民主的であるし、何より卑怯だし 不誠実だ 社会的害悪である

上品な言葉を並べているが、もっと汚い言葉で罵られる恥ずべき行為だ 

加害者はもちろん卑劣なクソヤローであり、逮捕取り消しの命令を出した警察幹部は恥知らずのおべっか野郎で、事件もみ消しを指示した権力者どもは、法の裁きを受けるべきであるが、それがなされないなら地獄へ墜ちるしかない

 

悔しいことではあるが、今の日本は権力者たちの横暴が暴かれ裁かれることはないことが、また突きつけられる

 

一方で被害者である映画監督、当時は(今も)ジャーナリストとして活躍することを目指していた若き女性が、信頼を寄せた男から性被害を受けて、PTSDを発症し症状に苦しむ中、事件を訴え、直前に逮捕が取り消され、民事裁判で勝利するまで、どれだけ辛かったか苦しかったことだろう、と思う

 

一方で、監督を支えて来た人たちがいた

弁護士さんや女性記者さんの他にも大勢いるだろう

わたしが驚き今まだ理解できず、嫌な気持ちになるのは、映画監督側、本人もしくは映画制作関係者が、当時の弁護士さんや応援していた記者さんを非難した上、訴訟にまで及んだこと

なぜこんなことに?

 

今回の騒動については、いろんな方が考察、論評されていて、ネット上でもいろんな記事を読むことができた

当時の弁護士さんの記者会見は動画で見た 一方映画監督は予定していた自身の記者会見を直前キャンセル

 

そしてわたしなりに見出したことは、彼女の言動の不安定さは、症状から回復していないというように見えるし、単発トラウマによるものではなく、複雑性PTSDではなかろうか、ということ 

事件が起きて10年経ってなお、常軌を逸してるのではないかと思われる理解困難な言動の数々は、精神的不安定さと何かしらの身体症状もあるのではないか 

事件は警察によってもみけされ、国家権力への不信感は被害を受けた女性の心をさらに傷つけたことだろう 症状が重くなってもおかしくはない 

一方で当時の弁護士さんの心のこもった対応や記者さん方の熱心な応援は、彼女を支えてきたはずなのに、今ではそういう人たちに敵対的な態度を取るようにさえなってしまった

 

心の傷が癒えないのは何が原因なのか、と考えた時、事件前から抱えていたトラウマ的出来事の傷に起因しているように、わたしには思えてくる 

まず、彼女が相談に行った人物は地位はあるが、あやしいところのある男である 当時はもちろん分からなかっただろうが、直感力や警戒心が弱いのは、そういう力が育ってないのではなか

 もう一つは、民事とはいえ裁判で訴訟し、彼女の主張は公に認められた それでもまだ彼女の心の傷が癒えないように見えるのは、国家権力への何かしらかの強い思いがあるのではないか それは家父長制や父権、父なるものにもなぞらえることができる

児童期に守られるべき家の中で、守られない時間を過ごしことへの非難と苦しみ悲しみが言葉にならず、今なお彼女の内側で傷が痛んでいるのではないか インナーチャイルドが苦しみ泣き叫んでるのかもしれない

 

以下引用

安定した愛着を持つ子ども(成人も)では、同じようにトラウマ的な出来事に遭遇しても、PTSDになりにくい。つまり、トラウマによるダメージからの回復力が強いのである。

 逆に言えば、愛着が不安定な状態とは、養育者が安全基地としてうまく機能していない状態であり、さまざまな危険から守られにくいということである。外的に不用意に近づいていったり、いちばん信用してはいけない存在を信用してしまったりすることで、トラウマ的な出来事に遭遇したり被害を受けたりしやすい。

PTSDと複雑性PTSD  岡田尊司著 SB新書 P179-180

 

最後にひとつ付け加えたいのが、依存心 

映画監督の言動の不安定さは、もしかしたら背後に存在する人たち、時々見え隠れするプロデューサのような人の影響力があるようにも思える それは監督の依存心から派生しているのかもしれない 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安定した愛着を持つ子ども(成人でも)では、同じようにトラウマ的出来事に遭遇しても、PTSDになりにくい 

中略

不安定な愛着を抱えた人は、トラウマ的な出来ごとに遭遇しやすいだけでなく、遭遇したときに、トラウマ化を防ぐ機能が弱く、PTSDにもなりやすい

  愛着障害と複雑性PTSD 岡田尊司 SB新書 P179ー180

 

ここでは、愛着の観点からPTSDを発症しやすい人としにくい人の違いにつて述べられている。興味深いのは、いわゆる機能不全家族と言われるような、親が家の中の安全や安心を構築できず、子どもらが常に不安定な状態に置かれている家庭は、トラウマ的な出来事に遭遇した後のケアが十分になされなかったり、あるいは危険を見極める力が弱くて、危ない場所や人に近づいてしまう可能性が高いと指摘している点

 

また、PTSD的出来事に遭遇した後、適切な保護措置や療養が施されれば、のちにPTSDが発症する確率も下がるという

 

思いもよらない場面で思いがけない人から受けた暴力を真っ直ぐ受け止めて、誰かに伝えられるかどうか

伝えられたとして、受け取った人が真摯に被害者に寄り添って、適切な対応が取れるかどうか

出来事がうやむやにされ、心の傷は放置され、さらにまた新たな傷で上書きされてゆく

複雑性PTSDというのはそういうことなのだろう

 

そういう環境で生育すれば、健全な愛着が育まれるのは、非常に困難なことだと理解できる

 

 

 

 

トラウマ体験がもたらす破壊的作用は、人々が心にもっている

「世界は善良で、意味があり、自分には価値がある」

という三つの仮定を粉微塵に破壊してしまうことにある

          米国心理学者 ジャノフ・バルマン

愛着障害と複雑性PTSD  岡田尊司著 SB新書 P162

 

わたしは最近PTSDについて思いを巡らすことが増えた

報道などでしばしば「PTSD」という語に触れる機会があり

その都度

PTSDって、死に直面するような危機に遭遇したのちに発症する障害(症状)のはずだけど、やたら安直に使われてないか?

と疑問を覚えるので、たまたま町の本屋で見た上記の本を買って読んでいる

 

わたしは精神科に通院していた時、主治医にわたしの症状はPTSDではないか?と尋ねたことがある。主治医の答えは、PTSDというのはやはり先に述べた、死に直面するような出来事にあった人に起きるのだよ、というものであった

わたしの症状は当てはまらない、と真っ向に否定されたわけではないが、

あなたにはそんな体験あるの?ないでしょ?と暗に諭されたような気がして、わたしは沈黙し、そのことは2度と話題にしなかった。

 

報道でPTSDが安易に使われると感じられるケースもあれば、たしかそれはPTSDかもと思われることもある

それは成人女性が性的暴行を受けただろうと想定できる事件の後で、さまざまな症状に苦しんでいることを知ることができた場合

 

その時にわたしが感じるのは

健全な心身の持ち主が

ある出来事をきっかけにそれまでとは心身状態が全く変わって、どん底につきとされ絶望的な状態に陥るのは

言語に絶する苦しみや痛みが伴うのだろうな、という想像と

わたしの場合はどうだろう? 

わたしとはずいぶん違うよな?

わたしはもはやいつもそういう状態で、それが普通で、そこから抜け出た後で、それまでが異常だったことに、ひとつひとつ気がついて、過去を嘆き未来をどう築くか手探りで模索してきたのだから、なんだろうな、この違いは。。

納得いかないような、ずるいような気がする、というのは

PTSDのように、事件の前後で顕著に変わった心身の状態は、自身も周囲の人も容易に気がつくし症状も言語化できる

しかしわたしの場合、一般的に見れば不調な状態が通常運転なので、自分自身に同化していて言語化するのがとても難しかった、から

 

しかし

この本を読んでるうちに

複雑性PTSDというのを知り

わたしはどうやらそういう状態にあったように思える

 

1回のダメージは生命にかかわるほどではなくても、長期間にわたって、逃れられない状況でダメージを受けつづけると、通常のPTSDに勝るとも劣らない深刻かつ持続的な影響が生じる

同書 P 28

 

わたし自身の回復の始まりは、まず精神科にかかったこと

不眠と長時間連続睡眠、倦怠感、思考の鈍化、読書困難など続いていたが、当時のわたしにとっては、精神科受診はハードルが高くて随分ためらう時間があった。

しかし、自分でも驚くような連続飲酒が続いて自分の行為ながら抑制のできないことに恐怖を覚えて、初診の予約を電話でとった

最初のクリニックでは、投与薬が増え続けて「精神病院の薬漬け」という言葉が頭を駆け巡り怖くなって、投薬治療がメインではない病院を探した

その病院で、いろいろな知識を得て自分の状態が、徐々に認識、言語化できるようになっていった

 

症状の苦痛もそうだが、医師やセラピスト、病院スタッフとのコミュニケーションを通じて、それまでの他者との接し方、自分との接し方についても現状を認識し、改めるめるべきは改めるように務めた

 

結局は自分の行為が自分自身を苦しめ追い込み、さまざまな不調のもとになっていることが理解できるようになる

 

その病院では多彩なプログラムが用意されていて、自分の症状にあったものを自分で選んで参加できた。体が辛い時は寝ててもよかった。誰とも話さず本や漫画を読んでいてもよかった。何よりも通院者の安全と安心が実感できるような配慮が行き届き、時間はかかったが次第にわたしもその場になじみ、安全と安心の中に身を置くことを受け入れていった

 

ここで冒頭の言葉に戻ると

わたしが、世界が善良であると実感できたのは、精神科クリニックのデイケアプログラムの場においてであり

世界に意味があるかどうかについては、未だ持って確信がなく

自分には価値がある、と言い切ることもまだできてない

 

かつてはどうだったか?

幼いころにはそういう感覚があったような気がする

幼稚園児だったころ

いつを境にその感覚が損なわれたか

記憶ははっきりしないけど

それから長い間

そういう感覚を持たずに過ごしてきた

 

 

 

 

 

 

不安型愛着スタイル 岡田尊司著 光文社新書

巻末にある

愛着スタイル診断所テスト

やってみた

 

45の設問に

はい

いいえ

どちらとも言えない

の3択で答えるもの

 

点数計算でその人の傾向が出てくる

 

わたしは

恐れー回避型の愛着スタイルだった

 

こういう人間関係のパターンについて

今まで考える機会がなかった

今さらながらな気がするけれど

気がついてよかったのかもしれない

 

遅くはない

始めたら始まりさ

 

昨日SIONのライブで聴いた歌

3年ぶりくらいでSIONのライブ行ったけど

SION

相変わらず若々しくて力強く

歌が上手くなってた気がする

 

まだまだがんばろう

がんばらなきゃ

素直にそう思えた

勇気をもらった

パワーをもらった

 

 

 

 

 

 

思慕の想いが生じて

想う人を前にして

向こうもこちらを憎からず感じていることは

表情や雰囲気でわかるんだけど

尻込みする自分がいて

葛藤にさらされる

内面で激しく抵抗する何か

 

自分は値しない

自分はふさわしくない

自分は幸せにできない

自分は満足させられない

自分は期待に応えられない

 

自分のダメなところを

あげつらって

逃げ出す

 

または

相手の欠点を粗探しして

相手をおとしめて

自分を正当化する理由を見つけて

距離をとる

 

愛着障害から

不安型愛着スタイルを知り

本を読み進めるうちに

自分と重なるところが多く

自分自身の愛着の形成過程に問題があった

と考えられるようになる

 

子供の頃の母との関係

ぼくは母を満足させることができなかった

ぼくは母の期待に応えられなかった

ぼくは母を守れなかった

ぼくは母を助けられなかった

 

母が望む子供のあるべき姿

勉強ができて

スポーツもできて

友達がたくさんいて

友達には親切で

大人たちには礼儀正しく

品行方正

明朗活発

ぼくはそんな子供ではなかった

 

自分なりに努力したこともあった

勉強頑張って

テストで90点取ったり

98点とっても

母の笑顔はなく

どうして満点取れなかったのか

間違えたところを諌められた

ケアレスミスを咎められた

 

家事の手伝いしようとしても

邪魔だからあっちいてろと邪魔者扱い

 

時には

ぼくにも嬉しいことがあって

おかあさん きょうね あんなことがあってね

胸が膨らんで抑えきれない幸福な思いを

母に伝えたくて話し始める

 

母を黙って聞いている

目を細めて静かに

ぼくは感じる

お母さんはそこにはいない

どこか遠くへ行ってしまった

母の口からため息が漏れる

あんたはいいねぇ

そんなことでねぇ

ばか

ぼくの胸の内の幸福はみるみる萎んで

冷たいものが吹いてくる

いつしかぼくは寒々とした部屋の中にいる

何もかもぼくの思い違い

 

何度そういうことを繰り返しただろうか

そうして

いつ諦めたのだろう

 

母のあの時の表情は今も脳裏にこびりついている

あれは

軽蔑とか侮蔑とか

あるいは

あざけりだったり

虚無や空しさのようなものも

妬みや嫉妬

 

かわいそうな母には

持ち得なかったものを

ぼくがたまたま手にしてしまった

後ろめたさ

罪悪感

 

ぼくの小さな幸福感は

罪悪感に置きかわってしまった

 

 

 

 

愛着障害に関する本を読んでいて

目が開かれるような思いをした

 

共感力というのか

相手方の思いに引っ張られて

疲れてしまう人が少なからずいるそうで

わたしもそういう人のひとりだなと

 

対人関係において

普通に相手の話に耳を傾け

相手が考えてること思ってること

言葉にできないところの気持ちも汲み取ろうとして

それは努力というのではなくて

普通の当たり前の自分自身の姿勢で

他の人たちもそういうものだろうと

思ってたのだけど

 

この数年

あれ?と感じることが増えていた

 

だいたいの人は

自分ばっかりで

こちらのことなどお構いなく

自分がしてもらいたいことやってもらって

それがたりまえで

さらなる要求を重ねてくる

そういう人間関係パーターンが

めんどうくさくなって

こちらか距離を取ることが増えていた

 

その本を読んでいて

こういうパターンも

愛着スタイルに由来していて

原家族での人間関係で構築された

わたし自身のパターンらしい

 

不安定な関係性の中で育まれた

小さな子供が

生き残るために発達させたスキル

それがそのまま

大人になっても

しっかりと自分の中に根ざしている

 

不安型愛着スタイルというらしい

 

 

オレはダメだなぁ

オレはダメだなぁ

オレはだめだなぁ

 

夜中に目が覚めて

布団のなかで

口をついて出てきた言葉

 

昨夜だけではなく

ともすると出し抜けに

口から漏れ出る言葉

 

思い返せばもうずっと前から

呪文のように

自分を呪うかのごとくの言葉

 

口癖というには

あまりに粘着が強い

 

そんな自分に愛想が尽きた青年期

オレはダメじゃない

頑張ればできるんだ

少しずつ自分を好きになればいいんだ

 

頑張ってダメじゃなくなることが全てになった

ダメな自分を上書きするように

 

頑張って頑張って頑張って

行き着いた先が行き止まり

もう動けななくなった

文字通り

そこから動けなくなった

じっと横たわり

想念渦巻く夢の世界を巡り巡った

 

さて

昨夜の話しに戻り

オレはダメだなぁ

オレはダメだなぁ

オレはダメだなぁ

布団のなかで繰り返すうちに

甘美なものが胸の中に

トロトロと流れてきて

やんわり包み込まれるような

安堵感に包まれた

 

そうかこれが

自己憐憫の自己陶酔

というやつか

初めて合点がいって

遠い記憶が揺り起こされた

 

子供の頃

小学生中学年か高学年だろうか

オレはダメだなぁを

繰り返してると

その惨めさの中に耽溺できて

現実世界から

自分自身から

自分を切り離して

甘くて柔らかいところでうっとりできた

時々

そこへ身を寄せた

癖になった

 

うまくいかない自分

学校で

友達と

好きな女の子の前で

うまく振る舞えない自分を

そうやって慰めていた

 

自慰

初めてのマスターベーションは

性ではなく

自我の保持だった

そして

一種の嗜癖ともなったのだろう

攻めてはいけない

幼い自分を守る

子供ながらの精一杯の自己防衛

 

今これを

書いていて

胸が疼く

痛い

 

悲しいわたしの物語を綴って

読み返す作業

 

その先に光があることを信じて

 

 

 

オレはダメだなぁ

オレはダメだなぁ

オレはだめだなぁ

 

夜中に目が覚めて

布団のなかで

口をついて出てきた言葉

 

昨夜だけではなく

ともすると出し抜けに

口から漏れ出る言葉

 

思い返せばもうずっと前から

呪文のように

自分を呪うかのごとくの言葉

 

口癖というには

あまりに粘着が強い

 

そんな自分に愛想が尽きた青年期

オレはダメじゃない

頑張ればできるんだ

少しずつ自分を好きになればいいんだ

 

頑張ってダメじゃなくなることが全てになった

ダメな自分を上書きするように

 

頑張って頑張って頑張って

行き着いた先が行き止まり

もう動けななくなった

文字通り

そこから動けなくなった

じっと横たわり

想念渦巻く夢の世界を巡り巡った

 

さて

昨夜の話しに戻り

オレはダメだなぁ

オレはダメだなぁ

オレはダメだなぁ

布団のなかで繰り返すうちに

甘美なものが胸の中に

トロトロと流れてきて

やんわり包み込まれるような

安堵感に包まれた

 

そうかこれが

自己憐憫の自己陶酔

というやつか

初めて合点がいって

遠い記憶が揺り起こされた

 

子供の頃

小学生中学年か高学年だろうか

オレはダメだなぁを

繰り返してると

その惨めさの中に耽溺できて

現実世界から

自分自身から

自分を切り離して

甘くて柔らかいところでうっとりできた

時々

そこへ身を寄せた

癖になった

 

うまくいかない自分

学校で

友達と

好きな女の子の前で

うまく振る舞えない自分を

そうやって慰めていた

 

自慰

初めてのマスターベーションは

性ではなく

自我の保持だった

そして

一種の嗜癖ともなったのだろう

攻めてはいけない

幼い自分を守る

子供ながらの精一杯の自己防衛

 

今これを

書いていて

胸が疼く

痛い

 

悲しいわたしの物語を綴って

読み返す作業

 

その先に光があることを信じて

 

 

 

頑張ることへのこだわりから

意志を信じすぎたことによって

毎日の生活がままらなくなったことを

わたしは認めます

 

わたし自身よりも

高所にある存在が

多分それはかみさまであり

自然の力だったりが

わたしをまともにしてくれると

わたしは信じます

 

わたしはそのものの力に

わたし自身を委ねます

 

かみさま

わたしにお与えください

変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものを変えていく勇気を

そして二つのものを見分ける賢さを

 

今日一日を生き

苦しい世の中をありのままに眺めながら

命の光を信じて

身を委ねて生きていくならば

かみさまは

何事も良くしてくださると信じて