愛しいマキー・アイラナよ
うみのしぶきのかかる島
いくつかのカップルそして私達
この魅力的な島にいるのは
水の音を聞くのが好き
音をききながら、私達二人は震えている
あなたがここに一緒にいてくれたならよいのに
ロッキングチェアに座りながら
この話は伝えられました
マキー・アイラナとその楽しい思い出と
ホノルルの今は動物園の駐車場になっているところあたりにメレで歌われている島、マキー・アイラナはあった。
カピオラニ公園の沿岸にあり、ちょうど、真水が海へと噴出していた場所だった。
この島は恋人達のデートの場所として有名だった。
愛するふたりは船に乗って島に渡り逢瀬を楽しんだとのことだ。
マキー・アイラナとは、マサチューセッツ州ウーバン出身のジェームズ・マキー船長が島の名前の由来となっている。
「フラ・オ・マキー」という曲もあるが、これは彼の持っていた船の名前だそうだ。
マキー船長は、1812年11月24日に生まれた。
1843年になると、マッコウクジラ船メイン号の指揮官としてハワイに入港している。
メイン号がマウイ島ラハイナに入港している間に、彼はコックに手斧や包丁で切りつけられ瀕死の重傷を負った。
この不幸な出来事のため、彼は船乗りとしての人生をあきらめ、ハワイと言う島に興味をもった。
当時31歳だったマキーは、ハワイ諸島に留まり、最初は捕鯨産業の商人として、後には牧場主や砂糖プランターとして、優れた起業家となった。
彼は捕鯨業界で成功した後、1856年、オークションでマウイ島のトーバーツ・プランテーションを手に入れる。
オアフ島のヌウアヌの住居を売却してマウイ島に移り住んだ。マキー船長は、購入した屋敷を、妻のキャサリンが好きだった花にちなんで「ローズ・ランチ」と名付けた。
この屋敷の元の名前は「ウルパラクア」というそうである。
彼の購入した広大な土地には、サトウキビの飼育と製糖のための限られた設備しかなかったが、その後、マキー船長によって牧畜場と砂糖プランテーションの両方が開発された。
また、酪農にも力を入れ、彼の「甘いバター」は上質なマーケット商品となった。1858年にはトーバートのサトウキビの再生を始め、1861年の収穫物はホノルルで販売された。
彼の大きな功績はこの地域の大きな問題である水を解決したことだろう。
マキーは木造の家を建て、家の脇に深い貯水池を作った。人々はこれから、水の確保に困ることは無くなった。
さて、マキー船長はカラーカウア王のポーカー仲間であり、カピオラニ公園協会の初代会長であった。
1876年の公園の落成式の日、カラーカウア国王とジェームズ・マキーは、近代都市が文明化するために必要な公共空間として、家族、子供や人々が静かに、自然の優しい環境の中で、休息し、気晴らしが出来る場となることを強調した。
しかし、カピオラニ公園が最初に構想されたとき、その動機はそのような公共の場を作ることではなかった。
カピオラニ公園は、カピオラニ公園協会による開発プロジェクトとして始まった。
その目的は、第一に、ワイキキの海沿いとダイヤモンドヘッドの斜面に、協会の株主のための住宅を建設すること、第二に、新しい郊外の中心地として一流の競馬場を建設すること、だったそうだ。
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さて、作曲したのはジェームス・K・イイ。
ハワイ島のマウナラニ・リゾートにはフランシス・H.イイ・ブラウン・ゴルフ・コースというゴルフ場がある。
このフランシス・H.イイ・ブラウン氏は有名なゴルフ・プレイヤーだそうで、もしかしてこちらの方と関係がおありなのだろうか?
♬ Makee Ailana by Dennis Pavao
参考資料
James Makee - Images of Old Hawaii by P Young
James Makee - Wikipedia
フランシス・ハイド・イイ・ブラウン - ウィキペディア