ことの始まりは盗まれたウクレレだった。
それはエディが15歳の時だった。
バスの運転手をしていた兄が、乗客が車内に忘れていったものを持ち帰ってきたのだ。
エディ、本名エドワード・レイラニ・カマエは1927年8月4日、マウイ島ラハイナに生まれ、オアフ島ホノルルで育った。
60年代後半〜70年代にかけて、起きたハワイアン・ルネッサンス(ハワイ文化復興)の立役者の一人として知られている。
彼は人々に知られること無く、各地で埋もれていた19世紀の音楽を次々に録音し、世に紹介する活動をした。
現在、ハワイアンミュージシャンやフラダンサーがたくさんのトラディショナルなハワイアン・ミュージックを演奏し、踊ることが出来るのは彼のお陰と言っていいと思う。
さて、兄が仕事に出かけるのを待って、エディはウクレレを手に取った。
彼はラジオの前に座り込み、流れてくるいろいろな音楽に合わせて演奏し始めた。
スペインの音楽、イタリアの音楽、ジャズ、ラテン、しかしその中にハワイアン音楽はなかった。
カラーカウア王の宮廷でフラを踊っていた祖母を持つ彼としてはこの種の音楽はシンプルとしか感じられなかった。
エディが街角で演奏をしていた1959年頃、伝説のスラッキーギタリスト、ギャビー・パヒヌイと出会ったことは彼のその後の人生に大きな影響を与えた。
ギャビーからいかにウクレレという楽器がメレを物語ることが出来るかを教えられた。
エディの中でなにかがはじけた。
ジャズを演奏するのをやめ、もっと古い歴史をもつ音楽に夢中になって行った。
年老いた詩人、サム・リア・カライナイナについて教えてくれたのは彼の師であり、ハワイ語の分野における第一人者マリー・カヴェナ・プクイだった。
詩人はハワイ島のワイピオ渓谷に一人で住んでいた。
マリーは彼に言った。
「彼は最後の存在だ。昔ながらのやり方で歌を作っている。彼がどれだけの歌を作ったのか、それらがどこにあるのか、誰も知らない。彼はハワイ語で歌を作り、アロハの心を込めてそれを人々に贈っている。今の時代、彼のような人は他にいない」。
エディはそう語った時、彼女の目が潤んでいるのを見ている。
エディはククイハレレのそばの小さな木造の小屋へと、ヒロからハマクア・コーストを通って車で向かっていった。
エディの教えをこうために。
サム・リアはマリーから事前にエディの訪問の知らせを受けていた。
彼は正装してポーチに座って、エディを待ち受けていた。
老人は90年に渡る人生の中で、ハワイ語でメレを作り続けてきた。その間、レコーディングもせず、ロイヤリティも取らず、ただただ、アロハの心をもって、人々に曲を無償で提供してきた。
1975年、エディは彼のバンド、「サンズ・オブ・ハワイ」と共に再びハワイ島を訪れた。
彼らはサム・リアを称えるための特別なメレを、直接、彼に聴かせようとしていたのだ。
当時、サム・リアは糖尿病を患っていた。
医師からは、命を救うために足を切断しなければならないと告げられていた。
しかし彼はもう十分長く生きてきたからと、断った。まもなく、彼は亡くなった。
エディは彼を忘れなかった。
その後、18年かけて、サム・リアのドキュメンタリーを作成した。
そして、さらに続けて、9本の映画も制作した。
彼は師匠のピラヒ・パキのかつての言葉を忘れることが出来なかった。
「今すぐやれ。もう二度と機会はないのだから」。
それは、一人また一人と姿を消していく先達たちの姿を記録するためだ。
ジェイク・シマブクロが彼の人生についてこう語っている。
「エディは、私に影響を与えたすべての人々に影響を与えた人々を、さらに影響を与えたすべての人々を、奮い立たせたのです」。
まさにその通りだった。
大げさかもしれないが、ハワイアン・ミュージックを救ったのは、バスの中に置き去りにされていたウクレレだった。
だれかふさわしい人に見つけられる様にとあえて置き去りにされたのだろうか?
世界中のハワイアン・ミュージック・ファンはそのことに感謝しなくてはならない。
2017年1月7日、エディ・カマエはホノルルで家族に見守られながら、89歳の生涯を閉じた。
バックに静かに流れていたのは、彼が書き、最も愛した曲、エ・クウ・モーニング・デュー。
妻のミルナさんにささげた彼の代表曲だ。
私の愛する朝の露
待っておくれ
聞いておくれ
私の呼ぶ声を
待っておくれ
私のために
私はあなたとここに残る
愛と共に
夜が明けると
露はきらめき
バラ色にそまる
あなたの頬がマナの上の
霧につつまれた高地で
そこにあなたと私
永遠にとどまる
そこにあなたと私
永遠にとどまる
♬ E Ku'u Morning Dew by Eddie Kamae
♬ E Ku'u Morning Dew by Israel Kamakawiwo’ole
Hawaiian Legacy Foundation / Our Story