今朝は松山市中央倫理法人会に出席させて頂きました。
講話は萬翠荘の片上雅仁館長。
テーマは「萬翠荘建設とパリの縁」
館長に就任される前にもお会いしたことがあり、
今回はさらに愛媛県の幕末から明治にかけて、愛媛県の主要な歴史上人物の関係性をわかりやすく、そして詳しく面白く、教えて頂きました。
萬翠荘にある謁見の間にある【壁画】についての説明も大変興味深く、ぜひ機会があれば館長のお話を聞いて頂きたいですが、
まずは愛媛県の歴史についてお聞きした内容をまとめたいと思います。
松山藩の歴史は初代藩主加藤嘉明から、蒲生忠知、松平定行へ。
松平氏のもとの名は「久松」
(久松家は徳川家康とも関わりが深い)
松山藩は幕末、長州征伐で、奇兵隊の最新軍備に敗退。
(松山藩は鎧甲冑、対する長州藩は最新式銃だったとか。。)
そして幕府老中だった松山藩主定昭(当時22歳、老中では幕府史上最年少)は最後まで徳川家に尽くしながら松山藩は「朝敵」に指定されてしまいました。
定昭は徹底抗戦を構えるも正岡子規の祖父・大原観山の説得により恭順(→意味はつつしみ控えること)。
松山藩主は明治に入り「松平」から「久松」に姓を変えることを条件に「朝敵解除」され謹慎解除された定昭が藩知事に。
その直後養子に来たのが
萬翠荘を建設した久松定謨(さだこと)、当時5歳でした。
久松定謨が16歳の時パリの陸軍士官学校に留学。随行したのが加藤拓川(のちの松山市長)、その後秋山好古が随行しました。
新田長次郎(のちの松山大学創立者)がパリに視察旅行中、加藤拓川は代理公使だったというつながりがある。
そして新田長次郎の娘と結婚したのが木子七郎。
この木子七郎が萬翠荘と愛媛県庁など設計。
萬翠荘を建設した久松定謨の長男久松定武は愛媛県知事を5期務め、愛媛県のみかん栽培に力を注ぎました。
(定武はポンジュースの名付け親でもあります)
一時は「朝敵」といわれた松山藩ですが、秋山兄弟の活躍や正岡子規の文学での改革、ヨーロッパ文化と日本文化を融合させた建築をもたらした久松定謨、新田長次郎の事業発展と教育改革、そしてみかん王国へ。
館長のお話から今まで断片的に知っていた愛媛県の歴史をつなげることができました。
時代の混乱の中で、愛媛県のために力を注いでくださった先人の思いを受け継ぎ、新たな時代へ向けて県政に力を尽くしたいと感じました。
片上館長のお話、まだまだお聞きしたいことが山ほどありますが、館長の著書である「萬翠荘物語」もぜひ読んでみたいと思います。