徳島県徳島市の徳島城です。
徳島市の中心部に位置し、JR徳島駅のすぐ北側、現在の徳島中央公園がかつての城域です。
室町時代、阿波国(徳島)は幕府の三管領の一つである細川氏が支配していましたが、戦国時代には細川氏の重臣である三好氏が台頭、1540年代三好長慶の代に最盛期を迎え、阿波国は三好一族が治めることになります。
しかし、長慶の死後三好氏は衰退し、天正10年(1582)土佐の長宗我部元親の侵攻にあい、元親は阿波を含め、四国全土を手中にします。
ところが、その直後の天正13年(1585)に羽柴秀吉による四国征伐があり、元親は土佐一国のみを安堵され、阿波を含む土佐以外の三カ国は没収されてしまいます。
秀吉はこの四国攻めに戦功があった蜂須賀正勝(小六)に阿波国を与えようとしましたが、正勝はこれを固辞、代わりに嫡男の家政が18万6千石で阿波に封ぜられ、徳島城を築きます。
築城工事には降伏した長宗我部元親も秀吉の命により加わったそうですから皮肉なものです。
家政と息子の至鎮は秀吉の死後は徳川家康に味方し、関ケ原の戦い後は至鎮が初代藩主になります。
さらに大坂の陣後には、淡路国7万1千石を加増され、石高25万7千石の大大名となりました。
以来、徳島城は明治維新を迎えるまで、蜂須賀家の居城であり続けました。
秀吉から与えられた領地を、関ケ原、大坂の陣を経て、幕末まで実に290年にわたって一大名14代が治めたという極めて珍しい例です。
徳島城は吉野川河口にデルタ地帯を形成する寺島川(現在のJR線路)と助任川にはさまれた標高61メートルの渭山(いのやま)とその山麓部分に築かれました。
城山に本丸、西二の丸、西三の丸、東二の丸を置き、山麓には御殿が造られました。
当初天守は本丸にありましたが、元和年間(1615~24)に取り壊され、一段下がった東二の丸に天守代用の御三階櫓が建てられました。明治6年(1873)の廃城令で鷲の門を除く全ての建物が撤去されました。
北東の公園駐車場から内堀を時計回りにポイントをご紹介します。
数寄屋橋
徳島城の鬼門(北東)にあたる門と橋です。
別名、不明門ともよばれていた通り、普段は閉められており、城内で死人が出たときなどに使われました。
堀川
徳島城の東を守るために造られた人工の川で徳島城の内堀となっています。
いまも助任川の汽水域から水が引かれており、堀にはクロダイやボラなど海の魚も見られます。
徳島城石碑
内堀の脇に建っています。
徳島城の特徴は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩で石垣が築かれていることですが、この石碑も緑色片岩で作られています。
この石は雨に濡れると青色が際立ち、その色がとても美しいといわれています。
この日はお天気でしたが、やはり普通の石と比べると青みがかって見えます。
石碑の後方に見える石垣の上には、かつて二重三階で廻縁がつく月見櫓が建っていました。明治初期に撮られた古写真には月見櫓とそれに連なる多門櫓が写っています。
月見櫓は千鳥破風と唐破風を備え、下見板張りの優雅な造りの櫓でした。
鷲の門
徳島城の正門にあたります。もとの門は藩祖・蜂須賀家政の頃に建てられました。
鷲を飼うための門だったという変わった理由が名前の由来だそうですが、真偽は定かではありません。
明治になり、徳島城が廃城となった後も、この門だけは残されていましたが、昭和20年(1945)の徳島大空襲によって焼失してしまいました。
現在の門は平成元年(1989)に徳島市制100周年を記念して木造復元されたものです。
舌石(したいし)
旧寺島川沿いの石垣から突き出ている石は、屏風折塀の支柱石で「舌石」と呼ばれています。
屏風折塀とは、塀の一部を屏風のように折り曲げて堀の方向に突き出させたもので、この折塀に鉄砲や矢を撃つための穴(狭間)を設けることによって正面のみならず側面方向への攻撃(いわゆる横矢)が可能となり、城の防御性を高めていました。徳島城には6個の舌石が残っており、全国的にも類例の少ない遺構です。
下乗橋(げじょうばし)
御殿への正面出入り口にあたり、この橋を渡ると大手門がありました。
下乗橋の名前は橋の前で駕籠や馬などの乗り物から降りて歩いて渡ったことに由来しています。江戸城や弘前城にも下乗橋がありますが、同じ理由によるものです。
もとは木製の太鼓橋でしたが、現在は石橋に改造されています。
大手門枡形(黒門)
鷲の門が出来るまではここが徳島城の正門でした。
両脇には東に月見櫓、西に太鼓櫓がありました。
加工された緑色片岩が積まれた枡形虎口になっています。
この写真ではひとつだけピンク色の巨石があります、これは紅簾片岩(こうれんへんがん)と呼ばれる種類で、緑色片岩の層にまれに挟まっている層から採石され、「阿波の青石」に対して「阿波の赤石」と呼ばれています。
太鼓櫓跡
太鼓櫓も月見櫓と同様、望楼型の3重4階で、天守のような造りをした大型の櫓だったといわれます。
櫓内には太鼓が置かれ、その音で城下に時間を知らせたり、藩士の登城を促したりしていました。
山上の城跡に登るには西・東・北の3つのルートがあります。
今回は銅像奥の東側から登って、西へ降りてくるルートを選びました。
標高61mなので、さほど高い山ではありません。
東二の丸
現在は何も残されていませんが、築城時本丸にあったとされる天守は元和年間(1615年–1624年)に取り壊され、一段低いこの東二の丸に天守の代用として御三階櫓が建てられました。
天守台はなく、地面に直接建てられていました。
明治6年(1873)の廃城令により撤去されています。
県では天守の木造復元計画も議論されているようですが、図面などが残されていないため、具体的には何も決まっていないようです。
この東側の石垣は初代藩主家政の時代に築かれた野面積みの石垣で、城内最古といわれています。
石垣の上部は崩落防止のため、金網がかけられています。