文禄の役と釜山 ー東莱邑城ー | 架け橋人の会―韓日翻訳グループ

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こんにちは。架け橋人メンバーの横田です。

前回は釜山における文禄の役の最初の激戦地であった釜山鎮城をご紹介しましたが、今回も釜山の史跡についてご紹介します。

 

  東莱邑城は釜山市中央部東莱区福山洞、安楽洞一帯にあり、釜山駅の北方約11kmの地点にある朝鮮時代の城跡です。周囲は1,962m, 城壁の高さ 0.5∼3m。内部は市街化が進んでいますが、東莱府東軒や郷校が残っているなど、当時をしのぶ手がかりが残されています。『高麗史』によると本来は倭寇対策のために築かれた施設のようですが、朝鮮時代には城市としての性格を備え、当時の釜山地域の重要拠点でありました。

 


          東莱邑城北門

           東莱府東軒

 

 東莱邑城が有名なのは、秀吉の侵略(文禄の役)の際の初期の激戦地のひとつだったことがあります。文禄元年(1592年)4月に釜山に上陸した秀吉軍(小西行長・宋義智)はまず釜山鎮城を陥落させます。この時秀吉軍は城内にいた老若男女から犬、猫にいたるまで虐殺し尽くしたと伝えられます。その勢いで次に襲いかかったのが東莱邑城でした。

  秀吉軍は「戰則戰矣 不戰則假道」(戦いを望むなら戦い、望まぬなら道をあけろ)と書いた立て札を南門に立てると、東莱府使宋象賢率いる軍は「戰死易 假道難」(戦って死ぬことは容易いが、道を開けることは難しい)との文を木板に書いて抵抗の意思を表したといわれています。そして秀吉軍が邑城を囲んでから15日で戦闘がはじまりました。宋象賢は軍士を率いて抵抗したが衆寡敵せず、城が陥落すると宋象賢は自決し、城内にいた人々は殆どが殺されたとのことです。

  落城時の状況を示すような遺構が釜山地下鉄2号線建設工事の折に、寿安駅予定地で発見されました。この場所は東莱邑城の南端にあたり、邑城の南側の堀の一部と石垣が発見されました。堀は幅5m、高さ1.7〜2.5mで、ここから多量の武器類と人骨などが発見されたのです。人骨は老若男女さまざま、そして大半の人骨には鉄砲で頭を打たれたり、刀で首を切られたりした痕跡が見つかっています。人骨は落城時の犠牲者と思われ、ここで城内の人々に降りかかった惨事を想像させるに十分なものです。


        東莱邑城壬辰倭乱歴史館

           東莱邑城堀

          東莱邑城復元模型

 

 現在、寿安駅構内には東莱邑城壬申倭乱歴史館が開設されており、発掘調査で出土した堀の露出展示とともに、出土した武器類の展示、映像による解説なども行われています。釜山訪問の折にはここも訪れ、歴史を体感されるのはいかがでしょうか。