こんにちは、果実帽子です。 

 

昔から歴史小説を読むのが好きだったので、中学生のときからNHKの大河ドラマは視てました。

 

今放送しているのが、平安時代の中期を舞台にした「光る君へ」源氏物語の作者とされる紫式部を主人公にした物語です。

 

以下は、ネタバレになるので、それが嫌な方は、こで閲覧を止めて離れて下さい。

 

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平安時代を扱った大河ドラマは、意外と多いのですが、ほぼ源平合戦の平安末期のことなので、それ以外は「光る君へ」を含め3作です。そう考えると少ないですね。

 

他の二つは、

「風と雲と虹と」、「炎立つ」です。

 

風と雲と虹と」は主に関東の平将門の乱と、瀬戸内の藤原純友の乱を描いたドラマなのですが「光る君へ」の時代より少し前の話です。紫式部はまだ生まれていません。歴代大河ドラマの中では扱った時代が最も古い作品となっています。

 

「炎立つ」は奥州(東北地方)の前九年の役から後三年の役を経て、奥州藤原氏の栄華の始まりと、最後は滅亡を描いてます。「光る君へ」より後の時代の話です。

 

二つの作品とも平安京の場面はありますが、主に地方を舞台にした武士同志の騒乱を描いたドラマでした。

 

 

今回の「光る君へ」は、戦争のない平安京を中心とした時代を描くと言う意味で、画期的だと思います。江戸期の大奥にも優る、綺羅びやかな平安絵巻の世界感を堪能できるので、楽しみでもあります。

 

前半の物語の展開で、上級貴族と下級貴族の藤原道長とまひろ(紫式部)の恋愛関係も面白かったです。紫式部は藤原道長の妾だったのではと言う話は昔からありました。

 

「紫式部」の名前は宮中の女房名で、もともと「藤式部」と呼ばれていました。女房名は、親族の官職名、国名・地名、その他関連する名から作られます。それで言えば、父親の藤原為時が式部丞だったので「藤原の式部」の女房名と言うことなのですが、父の為時が式部丞だった時は「紫式部」はまだ独身で、その後は為時は無官が続きます。

 

10年後に為時が越前の国司となり紫式部も父に随伴し2年間越前にいました。その後一人京に戻り藤原宣孝と結婚します。3年経って夫と死別して、それから道長の誘いで宮中に出仕したのですから、父の為時が式部丞だった頃からその間、20年ほど経っているのです。

 

宮中に上がったときは死別しているとは言え、夫の宣孝の官職である「右衛門佐」ではなく、父親の昔の低い官職である「式部丞」が女房名になったのはなぜなのでしょうか。

 

「式部丞」は正六位以下の官職で、父の為時は越前の国司になる前に従五位下に昇進しています。普通ならば夫の官職「右衛門佐」または任国「山城守」、そうでなければ父の任国「越前守」とすると思います。

 

「光る君へ」のドラマの中で「ききょう(清少納言)」が、中宮定子の女房として初出仕する場面がありましたが、その時は中宮定子の父親や母親も一緒に居て、「ききょう(清少納言)」の女房名は、定子が「清(原) 少納言」と付けたことになりました。

 

それと同じで、「まひろ(藤式部)」も初出仕した時に「藤式部」と、中宮彰子か、父道長か、母の源倫子が、女房名にそう呼んだと思います。父道長も、母の源倫子も、まるで20年前から紫式部と旧知であったかのようです。

 

そのため、ドラマでは道長も、源倫子も、紫式部とは以前からのお知り合いという設定にしています。倫子と紫式部はいずれも曽祖父が同じなので、身分の差はあれど遠い親戚であることも間違いありません。

 

それと、

藤式部ではなく紫式部と呼ぶようになったのは、源氏物語のヒロインとも言える「紫の上」がとても人気があったため、その名前から「紫」式部と呼ぶようになったとされています。

 

おそらくですが、女房名が藤原の式部だと当時は藤原氏出身や親族が式部丞だった女房がたくさんいるので、区別する必要があったのかな。と思ったりします。実際に「和泉式部」も同時代の女房ですしね。

 

ちなみに、和泉式部の女房名は夫の任国が「和泉の守」、父親が「式部丞」だったからと言われています。

 

ではでは。

 

Aiで作成した現代版に化粧した

紫式部↓

 

 吉高さんとは大分違いますが、これはこれで、かかか