こんにちは、果実帽子です。
昔から歴史小説を読むのが好きだったので、中学生のときからNHKの大河ドラマは視てました。
今放送しているのが、平安時代の中期を舞台にした「光る君へ」源氏物語の作者とされる紫式部を主人公にした物語です。
以下は、ネタバレになるので、それが嫌な方は、こで閲覧を止めて離れて下さい。
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光る君へでも登場している「清少納言」、『枕草子』の作者で超有名ですが、ご存知の通り『枕草子』は日本の3大随筆※の名作で、源氏物語の作者「紫式部」と並び称される女流作家です。
※鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』
枕草子は、中宮定子に仕えた清少納言が宮中での様子などを、時系列を順不同にして記したエッセイ集です。
時系列が順不同なのは、清少納言が意図的に構成したのではないかと言われています。
中宮定子の父道隆の中関白家が没落し、叔父の道長の御堂関白家が隆盛を迎える中で、一条天皇の寵愛を受けながら、不遇の身となった中宮定子。
もし、枕草子を時系列に描いたならば、こうした背景を描かねばならず、中宮定子の美しき日々を損なうことになりかねません。枕草子は中宮定子への鎮魂の書でもあります。
「長徳の変」で流罪となった兄と弟、悲痛のなかで身重のまま落飾してしまう中宮定子。里に下がった二条第も焼け落ち(当時、流罪人を出した貴族の館は何故か放火されたらしい)て、母親も亡くなってしまう。
父の関白道隆が生きていた頃の中関白家の春の時代。その道隆の死から一年で凋落する家の様は、まさに奢れるものは久しからずなのでしょうか。
もし道隆が関白の権限を振りかざして身内ばかりを贔屓せず、公私をわきまえた政治姿勢を貫いて息子達にもしっかり伝えておれば、公卿たちの反感も買わずに済んだかも知れません。
ドラマでは長徳の変の始まりを、検非違使の別当である藤原実資が、中関白家の伊周らと花山院との、色恋沙汰の勘違いからの揉め事の詳細を一条天皇に報告し、一条天皇が怒って伊周と隆家を謹慎させるところから始まります。
もし、中関白家が公卿達の反感を買わずにいたなら、公卿から擁護する意見もあったかもしれません。そうなれば一条天皇も事を穏便に済ませたかもと思ってしまいます。
当の花山院とて、出家した身で女性の元に通っていたのがバレてしまい、引きこもっていたくらいなので、事を大きくするつもりはなかったと思います。
最終的には、一枚上手の道長の御堂関白家に氏の長の座が移ったとしても、中関白家はもっとソフトランディングできなかったのか、と思ってしまいます。
内親王出産後、一条天皇の強い希望もあり中宮定子も宮中に戻りますが、後ろ盾を失い、一度落飾しているため内裏での扱いは酷く、居場所は内裏の端に置かれました。
道長の娘の彰子も一条天皇に入内し、やがて彰子は中宮職となり、定子は皇后職となります。同天皇の二人皇后となりますが、これはかつて定子の父道隆が定子を中宮にするために行った事を、道長が先例として上手く利用したものです。
再び出産のため里下がりする皇后定子ですが、実家の二条第が焼けているので、中級貴族の平生昌の邸に下がります。
この時、平生昌の邸の北門が狭くて皇后定子の女房たち(清少納言含む)の牛車が通れず、歩いて門をくぐった事が枕草子にも書かれています。この時、皇后定子は東門の急ごしらえの四足門の俄作りの板門屋を御輿で通りましたが、皇后が板門屋を通るなど、当時の貴族達の間でもかなりスキャンダルな事柄だったようです。しかしこのことは枕草子には書かれていません。
皇后定子は、ここの平生昌の邸で一条天皇の第一皇子を産みますが、一条天皇の初めての皇子なのに大きな祝いも行われなかったようですので、後ろ盾を失うということの影響はとても大きいことがわかります。
皇后定子はその後も懐妊し、二番目の内親王を出産して亡くなります。25歳の若さです。
「よもすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき」(終夜お約束なさったお言葉をお忘れなさらぬならば、今亡き私を恋い慕われる帝の涙の色を知りたいものです)
皇后定子が亡くなった後、兄の伊周らが御帳台の帷子の紐に結びつけられていたのを見つけました。皇后定子の遺詠です。
ではでは
Aiで作成した現代版に化粧した
清少納言↓
ファーストサマーウイカさんとは大分違いますが、これはこれで、ききき