わたしは彼らのそむきをいやし、 喜んでこれを愛する。 わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。(ホセア書 14:4 口語訳)
神は北イスラエル、エフライム、即ち私達の背きそのものを癒し、喜んで私達を愛してくださっています。私達の全ての背きの罪に対する怒り、裁きは、ことごとく神の御子イエス様の上にくだったのですから。
It is finished❗️
神の怒りは私達から離れ去りました。
私達は永遠の赦しを得たのです。
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」(ヘブライ9:15 新共同訳)
キリストの血のゆえに、私達神のイスラエルは、その永遠の相続地であるイスラエルの土地に植えられました。
不倫妻ゴメルは、神によって、その背信の思いを取り去られ、イスラエルの土地で神の定めた夫ホセアとの結婚生活を回復しました。
私達は、イスラエルの土地でメシヤであるイェシュアとの結婚生活を回復したのです。
惨めな境遇に落ちぶれた不貞の妻が、紆余曲折を経て、元の家に帰るとき、、、つまり、気ままな偶像崇拝を繰り返し、相続地から追放された北イスラエル、エフライムである私達が帰還する時の言葉も、神は備えておられました。
惨めな境遇に落ちぶれた不貞の妻が、紆余曲折を経て、元の家に帰るとき、、、つまり、気ままな偶像崇拝を繰り返し、相続地から追放された北イスラエル、エフライムである私達が帰還する時の言葉も、神は備えておられました。
あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。
アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」(ホセア14:2-3 新改訳聖書)
ここに「くちびるの果実をささげます。」とありますが、「果実」は原語のヘブライ語では「牛」です。文語訳聖書では原語を生かし次の様に訳しています。
「我らは唇をもて牛のごとくに汝に献げん」(ホセア書14:2 文語訳聖書)
牛を捧げると言えば、全焼のいけにえです。
「そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分がヤハウェの前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。」(レビ記1:3-4)
私達が全焼のいけにえを捧げる時、祭司は決して私達をチェックしたりはしません。
私達の過去、現状、また将来性など一ミリも気にしません。
祭司がチェックするのは、いけにえに傷があるかどうかです。もちろん、この傷のないいけにえは、罪のない全きお方、私達の主イエス・キリスト様を現しています。
そして、私達のすべきことはただ一つ。そのいけにえの頭に両手を置くことです。それは、このいけにえが、私達の全てであることを認める信仰の行ないです。
キリストはこの私として十字架で死にました。
キリストは私達の身代わりになって死んでくださっただけでなく、私達として(as us)死んだのです。
キリストが三日目に新しい人として復活した時、墓から出て来たのは、真新しい私です。
キリストが三日目に新しい人として復活した時、墓から出て来たのは、真新しい私です。
そしてキリストが天に引き上げられ、神の右に座した時、その時、真新しい私が神の右に座したのです。
今や、神はご自身の右に座す栄光の復活のイエス様を見て、この者があなただと言っておられるのです。これが恵みです!
神の右に座している栄光のイエスが、本当のあなたであり、私です。
今や、神はご自身の右に座す栄光の復活のイエス様を見て、この者があなただと言っておられるのです。これが恵みです!
神の右に座している栄光のイエスが、本当のあなたであり、私です。
今こそ、神ご自身によって成し遂げられたこの事実を受け入れる時です。
そして、私達の唇で神様に同意し、この永遠の事実を絶えず宣言するのです!
もはや、みすぼらしい娼婦時代の面影は、ゴメルには跡形もありません。
もはや、みすぼらしい娼婦時代の面影は、ゴメルには跡形もありません。
ひたすら花婿の栄光を鏡の様に映しながら、栄光から栄光へと世に証しを続ける花嫁の眩さがあるばかりです!
あの放蕩息子も、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24 新共同訳) ということで、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」(同22節) となりました。
「望みをいだく捕われ人よ、あなたの城に帰れ。 わたしはきょうもなお告げて言う、 必ず倍して、あなたをもとに返すことを。」(ゼカリヤ9:12 口語訳)
私達は、以前より遥かに良くなって、イスラエルの土地に帰還します!
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。(1コリント1:30-31 口語訳)
キリストご自身が、この私の義です‼️
キリストご自身が、この私の聖めです‼️
キリストご自身が、この私の贖い、即ち、解放です‼️
キリストが本当の私❣️
キリストが私の新しいアイデンティティ❣️
この唇の告白と共に私達が、イスラエルの土地に帰るという預言は、ホセア書だけでなく、エレミヤ書にも繰り返し預言されていました。
「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。 主は言われる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地から導き出された主は生きておられる』とまた言わないで、 『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きておられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる」。(エレミヤ 23:5-8 口語訳)
主は我らの義との宣言が、イスラエル全家の帰還の中でなされます。帰還の流れの中で、復活のキリストこそは、私達の義であるとの信仰が啓かれます。
それにしても、イエス様が私たちの義であるとは何という力強い信仰の宣言でしょうか‼️
あの放蕩息子も、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24 新共同訳) ということで、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」(同22節) となりました。
「望みをいだく捕われ人よ、あなたの城に帰れ。 わたしはきょうもなお告げて言う、 必ず倍して、あなたをもとに返すことを。」(ゼカリヤ9:12 口語訳)
私達は、以前より遥かに良くなって、イスラエルの土地に帰還します!
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。(1コリント1:30-31 口語訳)
キリストご自身が、この私の義です‼️
キリストご自身が、この私の聖めです‼️
キリストご自身が、この私の贖い、即ち、解放です‼️
キリストが本当の私❣️
キリストが私の新しいアイデンティティ❣️
この唇の告白と共に私達が、イスラエルの土地に帰るという預言は、ホセア書だけでなく、エレミヤ書にも繰り返し預言されていました。
「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。 主は言われる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地から導き出された主は生きておられる』とまた言わないで、 『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きておられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる」。(エレミヤ 23:5-8 口語訳)
主は我らの義との宣言が、イスラエル全家の帰還の中でなされます。帰還の流れの中で、復活のキリストこそは、私達の義であるとの信仰が啓かれます。
それにしても、イエス様が私たちの義であるとは何という力強い信仰の宣言でしょうか‼️
義とは私達が神様からありとあらゆる祝福を受けるに相応しい存在である、ということです。
私は、今日、神の義です。私は、今日、神様の全ての祝福を受けるに相応しい存在です。なぜなら、イエス様が私の義であるからです‼️ハレルヤ‼️
これぞ、神が私達のために成し遂げてくださったことなのです‼️
エレミヤ預言にある「北の地からの帰還」とは、北方、即ち旧ソ連地区からの帰還というだけでなく、アッシリヤに引かれて行ったエフライムの帰還をも指しています。
「あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、 『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。 わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、 わたしはいつくしみ深い者である。 いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。」(エレミヤ3:12 口語訳)
今、私達に北に向かって呼ばわります。さあ、イスラエルよ、エフライムよ、自分達の土地、イスラエルの地に帰りなさい、と。
「その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。彼らは再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしない。 その日、ユダの家はイスラエルの家と合流し、わたしがあなたたちの先祖の所有とした国へ、北の国から共に帰って来る。」(エレミヤ3:17-18 新共同訳)
さあ、今、エルサレムへ。
エレミヤ預言にある「北の地からの帰還」とは、北方、即ち旧ソ連地区からの帰還というだけでなく、アッシリヤに引かれて行ったエフライムの帰還をも指しています。
「あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、 『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。 わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、 わたしはいつくしみ深い者である。 いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。」(エレミヤ3:12 口語訳)
今、私達に北に向かって呼ばわります。さあ、イスラエルよ、エフライムよ、自分達の土地、イスラエルの地に帰りなさい、と。
「その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。彼らは再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしない。 その日、ユダの家はイスラエルの家と合流し、わたしがあなたたちの先祖の所有とした国へ、北の国から共に帰って来る。」(エレミヤ3:17-18 新共同訳)
さあ、今、エルサレムへ。