光の記憶 魂の記憶 まさよのブログ -3ページ目

光の記憶 魂の記憶 まさよのブログ

不思議なこと、光のこと、愛のこと 神さま綴り 

人には必ずと言ってよいほど 困った人がおります。

心配な人 気掛かりな人と言うのでしょうか。

それは親だったり子どもだったり 兄弟姉妹だったりとそれぞれ

違っておりますが、必ず身内に一人はいるものです。


そういう場合 自分は幸せなのに、自分だけが幸せでいる事が

申し訳なく思ったりするもので、どうにかして気掛かりな人が

幸せになってくれないかなぁと常に心配し 気を揉まなければ

なりませんね。

人は本当は自分の事だけで精一杯なはずです。

けれど気掛かりな人の分まで 心配し気を揉まなければならないので

いつしか抱えきれない深い深い悩みとなって付きまといます。


身内だから放っておく事も出来なくて、自分ではどうする事もできない

事を心配して生きることは、とても辛い事だと思うのです。

でもね、わたしはいつも思うのです。

気掛かりな人は、本当はとても幸せなのかもしれないなぁと

思うのです。

その人は自分の事だけを考えて 自分の事だけを心配している

事が多いので、周りの事で気を揉む事もなく、周りがどれ程

心配しているかなんてあまり考えた事もないかもしれません。

本当は誰よりも幸せなのかも知れないなぁと思うのです。

何もしてあげられないと心配し気を揉んでいる周りの方が 

もしかしたら気の毒かも知れないなぁと思います。


わたしも20代からずっと身内の事で気を揉んでおりました。

困った人の行く末がどうなるのだろうと案じては 心配し気を揉み

けれど何も出来ない自分がいて、「心配」でも「何もしてあげられない」

いつもその事が頭の片隅から離れませんでした。

自分の家族はそれなりに幸せで 困ったちゃんさえしっかりして

くれたなら 心配する事はないのにとずっとそう思っておりました。

何でしっかりしてくれないのだろうかと腹立たしく思う事もありました。

でもね、ある日気付くのです。 

困った人を心配してる半面 本当は自分が安心したいから 気を揉み

たくないから ラクになりたいから自分の都合の良いようになって

欲しいと思っていたのだと

本当は自分がただ安心したいから、それを困った人に要求している

という事に気付いたのです。

それは永遠に合わないパズルを押し付けているようなものかもしれません。

それはね お互いにとてもしんどい事だと思うのです。




困った人がいる事は どうする事も出来ないのです。

あなたがどうこうする事なんて 出来なくてね

祟りだからと誰かに頼んで拝んでもらっても

カルマだ因縁だとお祓いをしてもね、それはどうする事も

出来ないのです。

そんな事では決して解決なんてねしないのです。


困った人と思っているのは、自分だけで当の本人は困っていないの

ですから、本当はその人は幸せなのです。

周りが安心しても 心配しても同じであるならば どうか気を

揉まずにいられたら良いですね。

必ず身内に一人はいるのだそうです。 

それは自分の魂の成長かも知れませんし、そこに捉われずに

上手に自分を安堵させる あなたやわたしの今世の宿題のような

ものかも知れませんね。





青い空とメタセコイヤの木がきれいで、信号待ちをしながら

写メを撮りました。

先日茨城のJさんに 「きれいなんていう木ですか?」と聞かれて

「ヒバか何かでしょうね」 と適当に答えてしまいました。

後から家族にメタセコイヤと教えられて 一度絶滅して化石の中から

生きた種子が見つかって いま沢山生息しているのだそうです。

あの木の向こう側が我が家です。

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皆さんが下さったリースや置物 階段の吹き抜けに飾っております

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寒い日が続くそうです、どうぞ風邪を引かないようにされて下さいね。

ありがとうございました。


 


22日の北海道のお天気は、曇りのち雨か雪の予報だった

そうで、朝 目が覚めたら雨が降っていてびっくり致しました。

不思議な皆さんに 「参加者の皆さまが濡れないようにしたいのです

一時で良いので晴れをお願い致します」と お願い致しました。

重い雲が広がっていたのですが、9時前には明るくなってきて

雨が止んでくれました。

ありがとうございました。 心から感謝致します。




いつも何かに急かされるように探し物をしている人がいます。

あっちにこういう人がいると聞けばそこに行き、向こうでこういう人が

いると聞けば会いに行き いつも何をそんなに探しているのだろうかと

何を求めているのだろうかと思います。

何かを身に付けたい ガイドと会話をしたい こうなりたい

あーなりたいと思うのかも知れませんが、何かを求めているうちは

捜しものをしているうちは、ご自分をあなたの神さまを粗末にし続けて

いる事になりますので、少し厳しい言い方になりますが

その人の探し物はきっと一生終わる事はないでしょう。

それもひとつの生き方なのかも知れませんけれどね

大丈夫かなぁ疲れないのかなぁと思うのです。

普段出来ないからと スピリチュアルな話をしたい方は多い事でしょう

皆で集まってわいわいする事も 最初は楽しくてうれしいですね。

でもね、そこから何かを得る事などないのです。 

そこに目新しいものや情報があったとしても、あなたを成長

させてくれるモノはそこにはないのです。

生きているとね、いろんな事があります。 その都度不安になり何かを

求めたいと思うのでしょう。 

でもその時に気付いて下さい 今自分の神様を信じていないのだと 

あなたと一緒にいる不思議な皆さんを粗末にしているのだと思い

出して下さい。 

こんなにもあなたを愛しているのに、こんなにもあなたを思っている

事にどうぞ気付いてあげてください。

人は安堵が好きなのです。

探し物をしている人に共通している事は、皆さん安堵を持って

いないのです。

人にはそれぞれ、今 しなければいけない事が必ずあります。

それは、年齢も 経験も 環境も違うので同じではないでしょう

けれどご自分を見た時に  家族を見た時に気付いて下さい。

あなたが今 しなければならない事は何ですか?

あなたが今一番大切に 大事に思っているものはなんですか?

小学生のお子さんを残して亡くなられた方の手記を読みました。

そこに「普通でいい 普通に朝ごはんやお弁当を作れる普通の

事がしたい」 と書かれてあって普段気付かないかれど 普通の

事を出来る事が既に幸せなのだということ。

本当は足りないものなど何もないのにね、全て持っているのにね。

人は欲張りですね、何が足りないと言うのでしょうね。



最初から不思議な皆さんと 全てをお約束をして生まれて来たの

ですから、わたしは全てをお任せしております。

自分の未来も 命も何もかも。

だから自分の人生を悔いる事など致しません。

自分の寿命を長いとか 短いとか思いません。

すべては不思議な皆さまとのお約束、ただお任せで生きております。 





「親を看取る事が怖いのです」とメッセージを下さった方がおりました

怖くてね当たり前だと思うんですね。

お身内を亡くされる事、飼っているペットを亡くす事、そんな事に

慣れなくていいですし、慣れたらいけないですね。

誰もが怖いと思います。

怖さに慣れる必要などないけれど、でもねいっときあなたの前から

姿を消すだけです。

いっときあなたの目に映らないだけです。 ほんの一時だけです。

また必ず逢えます。 

その再会は、今まで経験した事のない喜びと 魂の振るえと

なるのでしょう。

でもそうなるには、涙のお別れが必要なのかも知れませんね。

たくさん沢山 涙が必要となるのかも知れません。

怖いと思うとそこから逃げたくなります。

けれどその時は誰にでも必ず来ますので、その時になったのなら、

ただ「時」に身を委ねるしかないのだろうなと思います。

魂の再会まで どうぞ精一杯ご自分の「生」を生きて下さいね。


きれいな青空の仙台です。

今日も良い一日と致します。ありがとうございます。
 

「神社の木に触れたらいけないのですか」とご質問がありました。

神社の御神木には、何百年とか 時に何千年という樹齢の古い木が

多くありますね。 御神木は神のよりしろだと思われているので

殆どの場合 柵を作って人が近づけないようにしている場合が多い

かと思いますので、柵を乗り越えて触る人はまずいないとは思います。

神社の木でなくても大きな古木は、凛としていて神々しさを感じますね。

木も生きておりますので、大きくはみ出した状態で生命があります。

それをオーラという人もいるかも知れませんが、人や 動物にも感情が

あるように 動き回らない生命にも感情はあります。


皆さん大きな木をみて何を思われますか?

木に触れる方は何を思われて触れますか?


木は人が多く集まるところに生えている木と 人が近づかない山の

奥に生えている木では その意識は全く違います。

動物も飼われているものと 野生のものでは違うように木々も

それぞれに違うのです。

人慣れと表現をしてよいかわかりませんが、人慣れしていない木は

人を拒む場合が多く、そういう木はとても冷たく感じるので、木を怖い

と思う時があります。

そういう場合、わたしはそこの木には近づかないように致します。


わたしが大好きな「せせらぎ公園」は、とても小さな公園ですが

夏には小さい子どもが水浴びしてはしゃぐ声が響いています。

そこに生えている木はとても穏やかで夏は木陰を作り 冬は

木漏れ日を注いでいる事を どこか誇らしげに感じるので

わたしはその木々たちの側に寄る事が大好きです。

けれど公園の一本道を挟んだ 小高い山の斜面に生えている木は

あまり人が近づかない事もあり、穏やかとは言いがたいのです。


神社や 公園の木 街路樹は人慣れしておりますので、人が

好きだったり、人に愛でられる事に喜びを感じている場合が多く

犬の散歩をしていたりすると、木と意識が合う場合がよくあります。

そういう時 木は気付いてくれた事にうれしそうにしますので、わたしは

声に出せない時でも心の中で褒めます。

「きれいですね」とか「ありがとう」と声を掛けると木は更に嬉しそうに

喜びのエネルギーへと変わります。

むやみやたらに木をみて声を掛ける必要はありませんが、ふと見上げ

たとき 目に付いた葉っぱや花 木がきれいだなぁとか、夏は木陰で

ありがたいなぁ、冬は木漏れ日が温かいなぁと思う時は、その木と

意識が合っている場合が殆どですので、そういう時は心の中で思う

事も良いですが、木に話しかけて頂けたら 木は自ら幸せの

エネルギーに包まれていきます。

それは触れていても 触れていなくても同じで、その近くにいる人を

優しいエネルギーで包み込むので、人も心静かに穏やかになります。



先日 犬の散歩をしていて、近所の街路樹の一本の木と意識が合って

見上げると 赤と 黄色 緑の三色の葉っぱが付いている事に気付き

「三色できれいですね。みせてくれて有難う」と話しかけました。

公園のさざんかが きれいなお花を咲かせていたので「ピンクのお花

きれいだなぁ」と声を掛けました。

古木で大きな木と意識が合った場合 木は人よりも遥かに長い命を

生きて来たのですから、敬意を持って「すごいですね、立派ですね、

どうぞいつまでも健やかにおられて下さいませ」とお伝え致します。 

人がいて恥ずかしい場合は 心で会話を致します。 

木も人に褒められる事が大好きなのです。


木に触れる方は 何を思われて触れますか

パワーとか何かを頂くつもりで触れるよりも その木を労わる気持ちで 

どうぞ心で触れてあげてくださいね。


わたしは動物でも 植物でも褒めるようにしております。

我が家にいらっしゃる方が口を揃えて言われる事に「植物が

生き生きしていますね」と言われます。

でもわたしはお水しかあげていないのですが10年以上も 

頑張っている植物が沢山あります。 

お水しかあげない家主ですが 「エライねすごいね頑張っているね」

そう言いながらお水をあげております。


我が家の犬や猫も 大して賢い訳ではないのですが、ご飯を食べて

エライね。 おしっこしてエライねと日に何度も褒められます。

外で他所のワンちゃんと出会う時も「エライね お利口さんだね」と

声を掛けます。

そうすると犬も幸せオーラ 愛のオーラに満たされるのです。



わたし達は、この身体に神さまをお預かりしておりますので

木も 動物も 植物も あなたという神さまに褒められる事が、

何より嬉しいのです。

あなたも誰かに褒められる事は、あなたの神さまが喜びで震える

のです。

でも人は 動物や木々と違うところは、自分で自分の神さまを

満たせす事が出来るのです。

他の誰かに褒められるよりも あなたがご自分を褒めてくれた方が

あなたの神さまが数倍も百倍も喜ぶのです。

「エライね、頑張っているね。知っているよあなたの事を 誰よりも

知っているよ。誰よりも愛しているよ」 そう言葉にして ご自分を

神さまを喜ばせてあげて下さいね。

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町内の緑地帯の木々です。 人がランニングしていたり 犬の散歩を

している人が木々の下を行き来しています。

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犬のゲージでおしっこする困ったみかんですが、それでもエライねって

褒めてもらえるみかんです。









遠くからSさんがいらして下さいました。

ご両親も Sさん家族も宗教に入られていて、止めようかどうしようかと

悩まれておりました。

きっと止めたらご両親は心配されるでしょうし、止めた事で何か

悪い事が起こるかも知れないと気を揉むのならば、それは

とても切ないことでしょう。

信じているとか もう信じていないは関係なく そのままでいる事が

一番だとわたしは思います。

宗教に入る事で心の拠り所になるのならば、それはとても良い事だと

思いますが、やっかいなのは止めたらこうなるよとかご先祖が成仏

出来ないよと脅す事は、どうにかならないかなぁといつも思います。 


宗教に入っているから 毎月拝んでいるからご先祖さんが喜んでいる

と思われている方が多いのかも知れませんね。
 
又は永代供養をお願いしているから 先祖供養は大丈夫だと安心

されている方もいらっしゃるかも知れません。

でも本当にそれでご先祖さんが満足しているのならば、見ず知らずの

わたしのところにいらして 嘆く事などしないでしょう。

形式的な事で 事務的な事で拝まれても ご先祖さんはうれしくは

ないのかも知れません。

今の時代 遠くてお墓参りに行けないから 誰かに任せていたり

する事も多いでしょう。 

それは決していけないことではありません。

でもね宗教先にお願いしているから、永代供養をしているからと供養を

人任せにしたとしても、どうぞ心の部分まで人任せにしないで

下さいね。

ご先祖さまは形式的な事よりも 生きている人の思いに子孫の思いに

触れて安らかなのです。

「お墓参りに行けなくてすみません」 そう思いだして下さる事が、

想いを馳せて下さることが何よりうれしいのです。

ほんの些細なことですけれどね、そんな些細な事がご先祖さんは

うれしいのです。


家族の事を見ましたが、最後に飼っているワンちゃんを見た時

息子さんと嬉しそうにお散歩をしている姿が視えてきました。

息子さんとの散歩はうれしいみたいですが、娘さんがお散歩すると

グィッって何度も引っ張る姿が見えてきて「厳しい」と伝えて来ました。

息子さんは わんちゃんの意に添うようにお散歩してくれるの

でしょうね、だからやっぱり息子さんに一番懐いていて 娘さんと

散歩から帰ると、もう不満が溢れていて、気持ちがわかっていないと 

ワンちゃんはイライラするのかも知れません。

飼っているペットを視させて頂くと 可笑しかったり時に涙したりで

人の言葉を話さないだけで、何もかもお見通しなのだと思います。




どうして犬の足の裏は香ばしい 美味しそうな匂いがするのしょう。

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いちごと うりの匂いは微妙に違っていて、いちごは枝豆で

うりはとうもろこしのような匂いがします。
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今日の夕方 北海道に着きました。

仙台を出発する時 太陽がいつもよりも温かく眩しく感じて

何故だか初めて光を視た時を 光の声を聞いた時を思い出して

しまい、思わず涙が溢れてきました。

「神さま わたしはあの頃と同じですか?」

「あなたに恥じないわたしでおりますか?」

そう問うてみたら またぽろぽろと涙がこぼれてきました。

雲の上から彩雲が見れました。

いつも空を見上げてみる彩雲ですが、飛行機の中から

雲の上に彩雲を見れることを初めて知りました。



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北海道に着いたらもうすぐ日が暮れそうでした。

どこかに行きたいとか 美味しいものを食べたいとか思わなくて

住み慣れた仙台が落ち着くので 明日講座が終わったら夕方の便で

仙台に帰ります。


長くなりました。 夜遅くに更新してごめんなさい。

眠くて文章が支離滅裂かも知れません

秋田のTさん ご質問のお返事少しだけお待ちくださいね。





 

 

 

 

 

 

 

先日 皆さんにお祈りとレイキをお願いしたMOMOさんのお父さまが

お亡くなりなったそうです。

とても穏やかに逝かれたそうです。 MOMOさんが皆さんに感謝して

おりました。

お祈り下さった皆さま、レイキを流して下さった皆様有難うございました。




一昨日 Tさんと Sさんのご紹介で、息子さんを亡くされた方が

いらして下さいました。

MOMOさんのお父様もお亡くなりなったと知り、ここ数日 死について

考えてしまいました。

穏やかに逝くこと、それは本人にとっても残される家族にとっても

誰もがそう在りたいと願うものだと思います。

アメリカに住む脳腫瘍の女性が 安楽死を選んだ事でそれは自殺

行為だと賛否両論あるみたいですね。

でもどこからが自殺行為になるのだろうかと その基準は誰が

決めるのだろうとわたしは思います。

日本は尊厳死は認めていても 安楽死は認めてはいません。

延命治療を拒否したら死を早める事になるでしょう。

それは自ら死を選ぶ事になるのでしょうか

認められている尊厳死すらもしかすると 自ら命を絶つ事になるの

ではないのでしょうか。

そこの定義はとても難しく、どこからどこまでがOKで どこからが

ダメなのかは、誰かが決めるものではなく、個人が決める事だと

わたしは思います。

看取る側にとっては、どのような姿になったとしても一日でも良い

から長く生きていて欲しいと願う家族がいる一方で、静かに穏やかに

逝かせてあげたいと思う家族もいる事でしょう。


安楽死と言っても、まだ体力がある時はそう簡単には命が尽きる訳

ではないけれど、死期が近くなり次第に体力も無くなり 食物を体が

受け付けなくなったのならば、本人と家族が話し合い 安楽死を選択

することを認めても良いのではないかとわたしは思うのです。 

生きる自由が与えられているのならば、死ぬる自由があって良いの

ではないかと思うのです。

それを批判することなど 誰にも出来ないと思うのです。

宗教的観点からそれはいけないと思う人もいるでしょう

でもね、永遠の身体など誰も持ってはいないのですから、わたし達は

生まれた瞬間から死に向かっているのです。

人は死が怖いのではなく、苦しんで死ぬ事が怖いのです。

苦しんでいる姿を見続けて、看取る事が辛いのです。

死の間際まで苦しみ それを抑える為に麻薬の量を増やして

朦朧とした中で、意識がなくなり最後まで生きる事は称えられる事

でしょう。

けれど逝く瞬間まで意識がはっきりしているうちに、最後まで自分で

在り続けながら逝く事も 同じように称えてあげたいとわたしは思うの

です。

本人も家族もそれを受け入れられるのならば、それは穏やかな

死ではないかと思うのです。

人の体も木々と同じで その体が終わるとき栄養を必要とはしなく

なります。 食べ物も飲み物も受付ける事が出来なくなります。

そうして体が朽ちて枯れていき 最後に息を引取ります。

時々胃ろうについて聞かれます。 

点滴で持たせるか、胃ろうして少しでも寿命を長くしたいかで

本人の意識がない時、家族は選択を迫られるのだと思います。

とても迷われるかも知れませんが、実際はそんなに寿命は

変わらないのだと思います。

栄養を必要としていない体に、無理やり胃に栄養を送ることは、すでに

終えようとしている身体に苦しい思いをさせるのかも知れません。

それでも生きてさえいてくれたなら いつでもその温もりに触れる事が

出来ます。

ご自分がどのようにしたいかを考えて充分に納得した上で 決断を

される事がよろしいでしょう。 

それでもね、決断されても最後まで迷うかと思います。

どうぞ許されるのならば、時間に猶予があるならば答えを急が

ないことです。



家族を失う事は、どのような結果となっても後悔は付きものです。

家族の死は言葉にする事が出来ないほど、悲しい事ですし そして

とても辛い事です。

けれどもう死から逃れる事が出来ない時期になっているのならば、

安らかに逝ける事が、本人にとっても家族にとっても大切ではないかと

思うのです。

最後まで生きたかどうか、立派に生きたかどうかは人様が決めるの

ではなく、本人が決める事なのですから。


最後まで痛みと闘って耐えて亡くなっても

延命治療で意識がなくて亡くなっていっても

尊厳死でも安楽死を選んだとしても 神は同じように受け入れて下さる

今も神さまに包まれて共に在るけれど あなたが忘れている大いなる

意識に戻るとき、愛しきものとして再び包み込み慈しんで下さる。

沢山の愛を経験して還ってきた魂を労わって下さる。

自分で死を早めたから罪だと 拒否して罰を与えるのが神ではなく、

それは神ではなくてね人なのです。






金曜日は、ちかこさんのご紹介で茨城からJさんがいらして

下さって。 

息子さんを名前から透視していたら、Jさんのお母さんのお父さん。

Jさんにとっては亡くなったお祖父さまがいらしてさり、お顔の特徴を

お伝えしたら、やはり母方のお祖父さまでした。

「お祖父さんね息子さんの側にいるからね」 そうJさんにお伝えしたら 

Jさんが急に笑い出して、「息子をおじいちゃんって呼んでいるんです」

「生まれた時からおじいちゃんだと思ったけれど、大きくなるにつて

言う事も行動も爺臭くてね、お爺ちゃんに小言を言われている気分

になるです」って言うので、二人で大笑いを致しました。

Jさんは前々から11歳の息子さんを「お祖父ちゃん」と呼んでいた

そうで、ママ友からも「何故 おじいちゃんなの?」と聞かれるらしくて

「でも、おじいちゃんみたいだからとか言えなかったけれど 納得しま

した。」って、また大笑いでした。

わたしが霊視や透視をしなくても 結構皆さんご自分で気付いて

いたり、わかっている場合が多いのだと思います。

霊感は 誰しもご自分の中にあるものだと思うので、それを信じて

頂けたら良いのだと思います。

Yさんがいらっしゃった時も、名前から姿を透視していざ会いに行くと 

 

当たっているときと ハズレている

時が多くて やっぱりまだまだだと話していましたが、全くはずれて

いるのではなく、どこか一部分でも視ているのだと思います。

いつもお話するのですが、それを妄想や想像に終わらせてしまうか、

そこの部分を磨いて育てて確実なものにするかは、ご自分なのだと

思います。







ヒデさんのお母さんが歩けるようになったそうです有難うございました。

けいこさんのお母さん 開腹してみたら思ったよりも広がっていた

そうで、脾臓 胆のうを捕られたそうですが、とても回復が早いと

けいこさんが話しておりました。 お世話になりました。

もしご迷惑でなければ、わたしは朝と晩に流しておりますので

ご一緒に流して下ったらうれしいです。

yamachinさんが先週いらして下さった時に話していたのですが

エネルギーを入れる時 「持続継続」 そういって流すそうです。

それを聞いた時 あーなんて完璧なのだろうかと思いました。

それからわたしも真似をして、レイキを流すとき「持続継続で」と

流しています。





今朝は町内の落ち葉清掃がありました。

葉っぱが落ちている様子も きれいだから好きなのですけれどね。
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自宅から歩いてすぐのところに、田んぼが広がるあぜ道があります。

草の匂い 刈り取った稲の匂いが その季節毎に違っていて、

視覚だけでなく嗅覚でも季節を感じます。







いつもたくさんの人がお寄り下さいまして有難うございます。

我が家には、皆さんが下さったものが沢山あります。
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全てわたしの宝物です。 ありがとう。

長くなりましたね。 本日も読んで下さり有難うございます。

 

Sさんが先日いらして下さいました。

たくさん相談された一つに 「わたしと一緒にいる人は誰ですか?」

と聞かれました。 

Sさんの亡くなったお父さんも Sさんについて話して教えて下さった

のですが、改めて霊視してみたらSさんの実家の敷地が出てきて

大きな建物の裏に 小さい石が二つ並んでいるのが視えてきました。

向って左側がやや大きくて、その隣にもう少し小さい石があって

その石は 今はしめ縄などはしていないのかも知れませんが

昔からその場所にあったのでしょう。

家や人の為に働いた馬か何かをそこに埋めて弔ったのではないかと

思います。

今は馬の精霊さんというよりも 自然霊さんに近い立派な屋敷神だと

思いました。

それをSさんにお話したら、面白いですね。

目をキラキラさせて大きく頷いて 「確かに石が二つ並んであります。 

そしてその石が最近何故か気になっていたのです」 と言いました。

屋敷神さんは、Sさんが2,3歳の頃 長靴を履いて石の回りで遊んで

いた姿を視せて教えてくれたので、小さい頃からSさんを知っている

事、どこに嫁いでも幾つになったとしても見守っている事を Sさんに

知らせたかったのだろうなと思いました。 

実家に帰った時は 「ただいま 来たよ。いつも有難う」そういって

屋敷神さんを懐かしんでくれたら とても喜ぶと思いました。

何かを差し上げたいのならば、お花でも お酒でも構わないのですが、

本当は何もいらなくてね、「ありがとう こんにちは」だけで良いのだと

思います。

屋敷神さんは声を掛けてくれた事 思い出してくれただけでうれしいの

です。


あなたやわたしを守ってくれているのは、自分と共に生まれた時から

一緒にいる、この身体にお預かりしている神様なのです。

それはあなたという神さまです。

まずはお預かりしている事に感謝をする事が大切だと思います。

そして、幼い頃からご縁があって側で見守ってくれているご先祖さんや

屋敷神さんが側で見守ってくれている事が多いので

自分の神さまを大事にされて、そして身近な神さんを大事にして、

それから始めて神社仏閣に行って神様仏様に感謝する事が

大切ではないかと思うのです。

自分の神さま 屋敷神さまを疎かにしたらいけないなぁと思います。

大層に崇めたり祭ったりする必要はないですが、気付いてくれるだけで

うれしのです。




ある方がメッセージを下さり お知り合いの方が御神事と言って

神社に行ってお祈りしていて、それをするのは神さまの怒りを静めたり

しているのだそうです。 神さまの怒りを静めるのはその方が必要だと

言われたらしくて、その為に家族を放り出してまで あちこちに参拝して

神事ごとをしている事に疑問を感じてメッセージを下さいました。

まず以前にも書きましたが、神社の神さまは、決して人を呼びつけ

たりはしないものです。 

誰か個人を特定して何かを要求する事も致しません。

神の怒りを静めないと自然災害を起こすとか 誰かに祟るとか

脅かす事も致しませんし、お願い事をしたからと御礼参りを

強要する事もありません。

自分が行く事で神さまの怒りを静めていると思って参拝される事は

その方の自由ですので、それが良いとか悪いとは思いませんが

ただご自分の参拝が義務だと思いながら参拝する必要などないと

思います。


よく皆さん 神さまに呼ばれたと言って神社に参拝されてる方が

おりますが

自分が神さまに会いたいから 神社に行っているのですよね

神さまのお近くに行きたいから 自分が行くのですよね

日々の事を感謝したり 心のもやもやを神さまに聞いて欲しくて

ご自分で行くのですから、それを神さまに呼ばれたと言って神さまに

参拝をするのはどうなのだろうかと思います。

「神さまに会いたいくて参りました。」 そう言って手を合わせてもらった

方が神さまも喜びます。

法要や仏さまの事は、お寺の和尚様にお任せすれば良いことで、

神社のご神事は、神主さんにお任せすれば良い事だと思います。 

その為に神主さんや和尚さんがいらっしゃるのですから。

あなたに出来ることは、ご自分の神さまを大切にする事だと

わたしは思います。




 
車に乗ってエンジンをかけて走ろうとしたら、3がいっぱい並んでいて

面白かったので思わず写真を撮りました。
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いたずらなうりが近づくと、「うわ、来た」と思うみかんですが
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いつの間にか 二匹で並んで眠っています。とっても仲良しです。
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菊の花のおひたしが大好きです

茹でて大根おろしで和えて食べると美味しいです。

でも食用と観賞用の違いが良くわかりません

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食用ほおずきも 観賞用とどこが違うのかわかりませんが

食用ほおずき美味しいです。


 

 

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下のルルドのマリアさまに 光の繭と曼荼羅レイキのエネルギーを

入れておきました。

皆さんの大切な人を思いながら、大切な人にも届くように

曼荼羅レイキを7受け取って下さいね。



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ある方からメッセージを頂きました。

「自分は牛や豚さんのお肉を食べることに罪悪感を持っていて
止めているのに関わらず、魚介類はどんどんいただいています。
こういうのは 自分の感じるままに従ってよいのでしょうか。
小学六年の娘にも、どう伝えたらよいのか。
いつでも どんな形でもよいので まさよさんのおもいを聞かせて
いただけたら嬉しいです。」



わたしはもともと偏食が酷くて お肉もお魚も苦手で口に入れる事は

おろか触る事も出来ませんでした。

お肉も お魚も口にいれると ウぇってエズいてしまうのです。

魚卵も鶏卵もリアルな命のようで、玉子焼きはどうにか食べられても、

目玉焼きは気持ち悪くて、黄身の味が生命の味のような気がして

やっぱりウぇってエズくのです。

大人になった今は殆どの物が食べられるようになりましたが、今でも

生卵や半熟卵は食べられません。

「まさよさんお肉食べるのですか?」とよく聞かれますが、わたしは

お肉も お魚も今は食べます。

マクロビとか スピリチュアルなど様々な理由で お肉を食べない人が

いるかも知れません。 それはそれぞれ皆さまのお考えがあるの

でしょうから何も言えませんし、わたしも子どもが幼い頃は

東城百合子さんの自然療法に添って生活しておりました。

でももし命を奪う罪悪感からお肉を食べないと言うのならば 

命をつなぐには 命を頂くしか方法がないのです。

牛や 豚だけではなく、鳥や 小魚 樹や 植物 貝や海草さえも

命があり、命を奪われる恐怖はどんなに小さな生命でも必ずあります。

大きいから知能が高いからダメで 小さいから良いというのは

小さいから その苦しみがわたし達に伝わり難いだけの事です。


人は残酷だなぁって思います。

高速を走っていて牛を運搬する車をみると とても胸が苦しくなります。

そして人はなんて残酷なのだろうと、それを食すわたしも残酷な人間

なのだと思わずにはいられません。

無意識にごめんね、 ごめんねって思います。

どうか最後の瞬間まで命を精一杯生きてねと ごめんね

許してねとレイキを流します。

肉を食す事が良いか悪いか 食べるか食べないかの問題は、

その人が決める事で どこからどこまでがOKかの判断は

ごめんなさいね、わたしには出来ません。

でも人の命は 今も何かの命を奪いながら生かされている事を

わたし達は忘れているのかも知れません。


わたしがお肉やお魚を食べれなかった頃 人は何故生き物を殺すの

だろうかと思っていました。 

お野菜だけ食べれば良いのではないかと 思っていました。

でも日本人も古くから狩りをして 熊や イノシシ 鹿 うさぎ キジ

など生き物を殺して食べていた事に変わりはなくて、いま個人で

殺して食べる事はないけれど、代わりに誰かがその仕事を引き

受けて下っている。

わたしはお米も 野菜も作れないし お魚も 貝も取れなくて、

牛や 豚や 鳥も殺せません。

でも誰かが変わりに大変な思いをして下さったものを頂戴しています。

命を頂く事は わたし達はいつも知らない誰かのお世話になっている

事を忘れたらいけないなぁてね、思うのです。



子どもの頃 魚を釣っている人を見た時いつも思いました。

もしこの地球に大きな宇宙人が来て、地球人はねずみ程の小さい

生き物に見えたなら、人間狩りや 人間釣りする事を何とも思わずに

わたし達は殺されるのだろうなぁと、子どもの頃に考えていました。

今の医療もそうです、人間に効果があるかどうかは 小さい生き物の

命で試されているのです。

そのお陰でわたし達は こうして病気になっても助けられております。

命は 命を奪う残酷の上に成り立っている事

残酷だけど そうしてわたし達が生きているのです。







魂は神さまからの預かり物だから 神さまにお返しします。

人や 動物や 植物や命に境界線はなくて全てが神さまに還ります。

あなたが精一杯生きた経験も神さまに捧げます。

喜びも 悲しみも 苦しみも神さまに捧げます。

身体は地球に育ててもらった物だから 死んだら地球に捧げます。

そうして本当は自分というモノなど どこにも存在しなかったの

だろうなって思うのです。

だから人は天に祈り 大地に祈り 感謝するのかも知れないなぁってね

思うんです。

Iさんのご質問 何だかあまりちゃんと答えられなくてごめんなさいね。







犬と猫がいると それぞれに性格が違っていて 面白いなぁって

思います。

みかんは犬のように のしのし歩きながら 排水溝などがあれば

必ず覗いて確認しています。

いちごはお散歩中 歩くよりも臭いを嗅ぐ事が多くて いろいろ探検が

大好きです。

うりはおもちゃで人と遊ぶ事が大好きで、サッカーやバレーボール

キャッチボール一番のお気に入りは輪っかやフリスビーを投げて 

キャッチしたり 拾ったりするのが大好きです。 


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誰でもいいから、ねぇ投げてよって持ってきます。

うりがいると家が賑やかです。

家族が うりちゃん我が家に来てくれて有難うって言います。

うりちゃんを手放した飼い主さん有難うって思います。



冬季限定のラミーを食べながらコーヒーを飲んでいます。

お酒が全く飲めないのですが、ラミーチョコが昔から大好きです。

どうぞ皆さまも 今日も良い一日とされて下さいませ。

感謝でありがとう

ランキングに参加した事で ブログの更新を多くしました。

「ブログの更新が多くなってうれしいです」とメッセージを頂きますが

少しだけ 自分に無理をさせて更新していました。

これから12月までに しなければならない事がありますし

個人相談も7月まで埋まっております。

少しだけ時間が欲しいと思うようになりました。

我がままを言いましてすみません。

4月から参加したランキングですが、一旦お休み致しますね

沢山応援して下さった皆様 心から感謝致します。

また来年にでもランキングに参加するかも知れませんが

その時は、またどうぞよろしくお願い致します。




先日 平泉に行ったのは10年振りくらいでした。

中尊寺には薬師堂 大日堂  阿弥陀堂など沢山の仏様のお堂が

あります。 

10年前に行った時は、下の子の事で苦しんでいた時でもあり

とても辛い気持ちを抱えたまま 何となくお堂にお参りを致しました。

あー懐かしいなぁと思いながら月見坂を歩いていたら 不動堂の

前に来ました。 
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何かお願いする事もなかったのですが mutumiさんが行ったので

後を歩いて行ったら、お賽銭箱の所に護摩木が置いてありました。

それをみてそういえば10年前 わたしはここのお不動さんに自分の

苦しさをお渡しした事を思い出しました。 

自分が抱えきれない苦しみをお不動さんに 押し付けた事を思い出し

「お久しぶりでございます。あの時はありがとうございました」 と

お伝えしたら、お不動様がわたしの事を覚えて下さっていました。

他のお堂にも参ったのですが、他の仏様は無言だったのに

お不動さまだけがちゃんと憶えていて下さった事に、苦しかった頃を

思いだし、思わず泣きそうになりました。

今回は けいこさんのお母さんが病気になってしまい、けいこさんの

気持ちを思うと辛くて、けいこさんのおかあさんの事をお願い致しました。

そして護摩木には自分の願いを書こうと思ったら、今のわたしは 

何も願うものがありませんでした。 

わたしは今に満足している事に 改めて気付かされました。

上をみたら切がなく 望みを言えば終わりはないかも知れませんが

わたしはいつも今に満足です。

明日死になさいと言われても 残していく家族を思うと心残りでしょうが

きっと悔いはないでしょう。

だからわたしが知っている方々のお顔を思いだし、ブログを読んで

下さっている方々を思い出し 「どうか皆様が幸せでありますように

大好きありがとう まさよより」 と護摩木に書いて置いてきました。



中尊寺に行った翌朝は とてもきれいな空でした。

けいこさんのお母さんの胃の左側に視えたモノ 症状を思い出して、

そこをつまんでポイッて空に放り投げたら虹が出ました。 

本当の虹か それとも不思議な方々が視せてくれた虹なのかの 

一瞬わからないので、目を凝らして何度も見てみて、あー

不思議な皆さんが 見せて教えてくれた虹だとわかりました。


生きているとね いろんな事がありますね。

病気になったり 怪我したり望んでいないアクシデントが時として

起こる事があるかも知れません。

でもね、どんな事があっても病気になったとしても その中で最善を

選べること 選んでいる事をどうか忘れないで下さい。

この世に生まれてきて、愛されていない人などいないのです。

親や 家族や 不思議な皆さんに 神さまに愛されているから

生まれて来たのです。

そしてね愛されているから いつか誰もが還るのです。



けいこさんも mutumiさんも いっつも気を使われるのです。

いつも3人が3人でお互い気を遣い合いながらだけど、それがまた

おかしくてうれしいのです。

温かくてほっと出来る時間を有難うございました。




「五月雨の 降残してや光堂」の句碑の隣に立っていた

芭蕉翁像

「ねぇねぇ 忍者だったのでしょう? ねぇねぇ本当?」って

失礼な事を訊ねてみましたが、もちろん無言でした。

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いつ行っても誰もいない せせらぎ公園です。

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小川に小魚が泳いでいるのが見えて、日を浴びると魚がキラッと
光るんです。
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小川でジャリ石を見ていたら 文字を書ける石を見つけました。
子どもの頃 川で見つける "書ける石"は宝物でした
道路にお絵かきや ケンケンパを書くのに必要でした。
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チョークみたいに書ける石 うれしいかったです。
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大人になったわたしのワクワクの全てが 子どもの頃の思い出だと

いう事に最近気が付きました。 
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ドーナツのような雲

感謝でありがとうございます。





 


けいこさんと mutumiさんと行った平泉とっても楽しかったです。 

「平泉のご報告を楽しみにしていますね。」 と言って下さった方が

おりましたので 今日中に更新致しますね。


mutumiさんは昨年の5月に 初めていらして下さいました。

丁度その日の午前中 けいこさんのパステル教室がカルチャーで

ありました。

どうせならと、お近くのホテルに泊まっていたmutumiさんをお誘いして 

一緒にけいこさんの講座を受講したのがきっかけで、それから幾度か

お会いする機会がありました。

今回は、大崎にある醸室に続いて3人で平泉に行ってきました。


昨年の今頃mutumiさんと定義山に行った時は ざんざん降りの

雨だったので 今日も一日雨かなぁと思っていました。

朝から結構雨が降っていましたので、晴れたらうれしいな 曇天でも

雨が降らなければうれしいなぁと呟いていました。

車を走らせて30分くらいして 気が付いたら雨が上がっていました。


福岡から来てくれたmutumiさんと けいこさんにも伊豆沼をみせて

あげたくて途中築館ICで一旦下りたら、とても可愛い野生の姫りんごが

たわわに実っていました。

3人で摘んで食べてみました。

ちょっとすっぱいけど可愛らしいりんごでした。
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伊豆沼に着いて 蓮のお花はもう咲いていないけれど 変わりに

白鳥が迎えてくれました。 
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「クワクッルクワックックル」と適当な白鳥語で「もっと側に来て 

近くで写真を撮らせてね」 と話しかけたら 白鳥がのそのそと

触れられるくらいわたしの近くまで来て 写真を撮らせてくれました。

そして撮り終わったら「もういい?写した?」 そんな感じでこちらを

チラッとみてまた のそのそと沼に入って行きました。

白鳥は 人の気持ちや言葉がわかるのかなぁと三人で

びっくりしました。




平泉についてお昼はわんこそばを食べました。

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お店の方が 「よろしければどうぞ」とご好意でお蕎麦を追加して

下さり、もう3人でお腹いっぱいでした。



平泉で懐かしい瓶入りのファンタを見つけました。
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わたしが子どもの頃ファンタもコーラも ジュースは瓶に

入っていました。

子どもの頃を思い出して感動して一人で騒いでいたらmutumiさんが

瓶入りファンタを買って下さいました。

でも勿体無くて飲めませんね。






平泉は所々葉が赤くなっておりましたが、紅葉にはまだ少し早くて

でも、樹のエネルギーというか 木々のオーラを視たりしながら 

参道を歩きました。

雨上がりだったせいか 空気が澄んでいて木々もとてもきれいで

木や植物のエネルギーがよく視えました。
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わたしは普段 エンジェルナンバーとか気にしたりしないのですが

444 333 555 111と何度もぞろ目をみて、最後に11、 11と

続けてみた時は、3人で「ぞろ目の立て続けだね」と 何だかうれしく

なりました。

3人にそれぞれいる 不思議な皆さんのお力を今日も沢山お借り

したのだろうなぁと思いました。 感謝でいっぱいでした。

 

 

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秀衝が義経を匿わなければ 奥州藤原は滅びる事はなかったの

だろうかと思いを馳せてみましたが、歴史にもしもはないのでしょうね。



大日堂の如来さんです
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今日も良い日でした 感謝でありがとうございます。

お休みなさい

 



先日のブログでご先祖さんにお水を上げる事を 低級霊が来ると

聞いたので、気になってしまうという方の事を書かせて頂きました

ご先祖さんは お水を欲しがるとよく聞きますね。

でも亡くなった人が何故 お水を欲しがると思いますか?


お釈迦様がこの世を去る時に 水を欲し弟子の汲んだ水を

美味しそうに飲んだという言い伝えがあります。

日本人は生まれた時は、お宮参りや七五三で神に祈り 亡くなると

仏に帰依しますので、そこから来ているのかも知れませんね。


死に水は、もともと亡くなる間際に「最後の水」という事で行っていた

ものが 今では亡くなった後であげる事が多くなりました。

魂は肉体を手放す時、熱を伴う事が多いので一口の水で 喉や口を

潤わせたいのかもしれません。

身体というよりも 喉が水を欲するのだと思います。


わたしの父も亡くなる直前 意識が無くなる前にお水か お茶が

欲しいと言っていました。 

でも、病院側は誤飲を心配するのでしょう、点滴をしているので水分は

足りていると言って、口から水を飲む事は許してもらえませんでした

そして意識が無くなり 父は水を飲む事が叶わないまま亡くなりました。 

あの時 お水を一口でも飲ませてあげれば良かったと 後からとても

悔やみました。


父が亡くなって間もない頃 母は口寄せというイタコのような方を

知人から紹介してもらい、亡き父の言葉を聴きに行きました。

その頃のわたしはまだ20代で、自分が亡き人の声を聞ける事を

すっかり忘れておりました。 

きっと皆さんも 同じように忘れている人が多いのだと思います。

その口寄せさんは、亡き父が 「お水がほしいと」言っていると

教えてくれました。

その時に思いました。

亡くなった人の殆どがお水が欲しいと言い そして年数が経っても

同じように「お水」と言うのは何故だろうかと ずっと疑問に思って

いました。

いま このお仕事をさせて頂いき、沢山の方を視せて頂いて

不思議な皆さんに教えられてやっとわかりました。

お水が欲しいのは、亡くなる間際の人の意識や記憶で 魂自体は

お水を欲しがってはいないのです。

魂は、生きている今この瞬間も 亡くなる瞬間もあまり大きな違いは

なくて、身体が急に軽く風のように自由になったと思った瞬間 

亡くなっているそうです。

暫くは行きたいところに行き 会いたい人に会いに行き そして次第に

自分のお役目が何だったのか、自分が決めた最後の死期というのを

思い出すのだそうです。

そして魂だけの存在になり、生まれた時から終わりまで共にいた

不思議な皆さんと一緒に 記憶の源へと還っていきます。

それは自分のお役目を終えた事であり 源の温泉に癒しに還るような

もので、魂は一瞬で粒子が分解するように戻るのだそうです。


ただ人として個人として長い間 顕在意識で生きてきましたので、

家族に伝えたいこと 最後にしておきたかったこと 心残りの事など

伝えたい事が誰にでもあります。 

その一つに、喉が渇いたまま亡くなったら、喉が渇いたと伝えて

きたりするのでしょう。

わたしが亡くなった人に意識を合わせる時は、御名前からお姿を

確認してお話しを致します。

個人に意識に合わせると、とても具体的に生前の事、思っていた事を

伝えて下さるので、皆さんが 「あーパパだ」 「おばあちゃんだ」と

実感して下さいます。 

それは 「その人」 として生きた唯一の証だからです。

でもそれは、お水を欲しい 何かが欲しいと言っても実際には 

「欲しかった」 「懐かしい」 というような事なのです。


そして「魂」に意識を向けると殆どが、全く違う答え方をされます。

魂は全てを知っておりますので、お役目を終えた事で魂の言葉に

変わります。

それは人でも、可愛がっていたペットでも同じで 仏や神の御言葉と

なります。



「記憶」や「意識」がお水を欲しがるのは、亡くなった人だけではなくて、

実は生きているわたし達も同じだったり致します。

わたしが子どもの頃 運動中はお水を飲んだら行けないと教えられて

いました。

今でも憶えているのは、小学校の運動会の練習をしていて

炎天下の下 もう喉がカラカラでお水が飲みたいと心底思いました。

あの時 お水が欲しかったなぁと今でも思います。

今わたしは、こうして温かいお茶を飲みながらここにおります。

でもその時の 子どもだった記憶にアクセスすると「喉がカラカラで

お水が飲みたい」と出て来ます。

今わたしが どんなに沢山のお水をもらっても その時のわたしの

喉が潤う事は決してありません。

ご先祖さんがお水が欲しいという事も それと一緒なのです。 

だからもしご先祖さんに水を差しあげるのでしたら、

「お水が欲しかったですね、でももう大丈夫ですね」 そう言って

差し上げて下さいませ。

魂ではなく その人が亡くなる間際の 生と死の狭間の記憶が欲して

いるのです。

そしてね、仏様にお水やお供え物を差し上げるのに、何か怖い者が

来ると不安がっていたり、怯えながらあげられても ご先祖さんは

きっと嬉しくはないでしょう。 

ご先祖さんを思うあなたの思いを どうか心を込めて気持ちよく差し

上げて下さいね。






源の中にあって、自分の体すら無い場所では、魂は達成感のような

安堵感に近い感動に変わるのだそうです。

自然災害などでお亡くなりになった方々や ご遺族のお気持ちを

思うととても切なくなります。 神はいないのかと苦しくなります。

でももしかしたら、その方が担ってきたお役目だったりする場合も

あるのです。

死んで無念や後悔が残っているから 地縛霊や 浮遊霊になって

成仏出来ないと思っている人が多いかも知れませんが

魂には地縛霊も 浮遊霊もいないのです。

この世に、地球には 人の無念や後悔が至る所にあるでしょう。

それは個人の影のような 分身のようなものなので 時に人は

それを感じたり見たりするかも知れません。

でもね、それはどんな人だって今まで生きて来たのですから

悔いも無念もいろいろあって当たり前でしょう。

それは亡くなったから残っている訳ではなくてね、生きていても

残しているのです。 

そこに死者と 生者の区別はないのです。

あなたが精一杯生き切った あなたという神様の記憶を

あなたやわたしが生きて残した記憶を 汚らわしいものとして

扱われたらとても悲しいです。




わたしが亡き方々へ お伝えする弔いのお言葉は

「しっかりと生きましたね 偉かったですね、お疲れ様でした」と

お伝え致します。

それは長い短いに関係なく 亡くなり方に関係なくそう伝えてもらう事が 

何よりの魂へのエールだと思います。

たくさん悲しい思いもしました

たくさん悔しい思いもしました

裏切られたことも 騙されたことも 後悔したことも

沢山あって自分の人生を振り返ってみたとき

それは誰にでも沢山あるでしょう

そんな思いをして還られたのですから 「偉かったね」そういって

誉めてあげたいと思いますし わたしもそう誉められたいと思います。




この記事を書きながら、ふと「永訣の朝」を思い出しました。

”この雪は どこを えらばうにも       あんまり どこも まっしろなのだ
あんなおそろしい みだれたそらから   このうつくしい 雪が きたのだ
 (うまれで くるたて         こんどは こたに わりやの ごとばかりで  
くるしまなあよに うまれてくる)
 おまへが たべる この ふたわんの ゆきに       わたくしは いま 
こころから いのる       どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に変わって やがては おまへとみんなとに 聖い資糧をもたらすことをわたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ"    
※宮沢賢治「永訣の朝」より





猫も犬も もふもふした冬用のベッドが大好きです。
一匹で広々と使いたいみかんですが、
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必ずうりが邪魔しに来ます。
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明日は 徳島からyamachinさんがいらして下さいます。

明後日は、福岡からmutumiさんです。

いつも有難う 本当に遠くから会いに来て下さり有難うございます。

心から感謝致します。 




昨日 個人相談にいらして下さった方は、沖縄の離島から来て

下さいました。 

5年近く個人相談をしておりまして、申し訳ない思いと有難い思いで

複雑ですが、皆さん全国からいらして下さいます。


年齢もほとんど同じだった事もあり、何だか懐かしい旧友に会った

ようなそんな錯覚を致しました。 

生まれた土地も 育った環境も全く違うけれど 同じ時代をこうして

生きてきた事 そして初めて会うのに今こうして向き合っている事が

とても不思議な気持ちが致しました。


沖縄は、わたしが小学生の頃に日本に返還されました。 

子どもの頃の沖縄は 遠い遠い外国のような気持ちでおりました。

昔の学校の先生は 戦争を経験している人が多い事もあって よく

戦争の話をする先生が多かったように思います。

小学校の担任の福田先生も 戦争で沖縄戦地に赴いた時の話を良く

聞かせて下さる方でした。

その話の中には必ず ”さとうきび” をかじる話が出てきて

戦争のお話しなのだけれど さとうきびをかじる話に子どものわたしは

いつも胸がわくわくしました。

「”さとうきび” をかじると じゅわーっと甘い汁が出て、そして プッと

カスを出して またかじってじゅわーっ」て。 

子ども心に ”さとうきび”って一体どんな物なのだろうって、子どもの

わたしには  ”さとうきび” が いつの間にか憧れのナンバーワンの

食べ物になっていました。


その担任の福田先生は 始業のベルが鳴っても教室に来ない事が

度々あって、そういう時 先生はいつも学校の裏山に行って 

春はわらび 秋はきのこ採りに夢中になっていて 授業するのを

よく忘れていました。

みんなで先生を探しに行こうと言って、裏山に先生を探しにいって

「おーいせんせいを みつけたよー」 と誰かが見つけた頃には、

もう授業時間が終わっている事がよくありました。 

子どもの頃は 木くらげや 木の実 やまなしや 山ぶどうを 簡単に

見つけていたように思います。

今の時代 きっと大問題になるかも知れませんが、当時はそんな事が

許された時代でした。  

親も子どもも のん気でおおらかな時代だったのかも知れません。

昨日 そんな懐かしい子ども時代を思い出しておりました。






メールやメッセージのお返事を溜めていて すみません

明日までには 皆さん全員にお返し出来ればと思います。

いつも 本当にありがとうございます。

感謝でいっぱいです。