枯れること | 光の記憶 魂の記憶 まさよのブログ

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不思議なこと、光のこと、愛のこと 神さま綴り 

先日 皆さんにお祈りとレイキをお願いしたMOMOさんのお父さまが

お亡くなりなったそうです。

とても穏やかに逝かれたそうです。 MOMOさんが皆さんに感謝して

おりました。

お祈り下さった皆さま、レイキを流して下さった皆様有難うございました。




一昨日 Tさんと Sさんのご紹介で、息子さんを亡くされた方が

いらして下さいました。

MOMOさんのお父様もお亡くなりなったと知り、ここ数日 死について

考えてしまいました。

穏やかに逝くこと、それは本人にとっても残される家族にとっても

誰もがそう在りたいと願うものだと思います。

アメリカに住む脳腫瘍の女性が 安楽死を選んだ事でそれは自殺

行為だと賛否両論あるみたいですね。

でもどこからが自殺行為になるのだろうかと その基準は誰が

決めるのだろうとわたしは思います。

日本は尊厳死は認めていても 安楽死は認めてはいません。

延命治療を拒否したら死を早める事になるでしょう。

それは自ら死を選ぶ事になるのでしょうか

認められている尊厳死すらもしかすると 自ら命を絶つ事になるの

ではないのでしょうか。

そこの定義はとても難しく、どこからどこまでがOKで どこからが

ダメなのかは、誰かが決めるものではなく、個人が決める事だと

わたしは思います。

看取る側にとっては、どのような姿になったとしても一日でも良い

から長く生きていて欲しいと願う家族がいる一方で、静かに穏やかに

逝かせてあげたいと思う家族もいる事でしょう。


安楽死と言っても、まだ体力がある時はそう簡単には命が尽きる訳

ではないけれど、死期が近くなり次第に体力も無くなり 食物を体が

受け付けなくなったのならば、本人と家族が話し合い 安楽死を選択

することを認めても良いのではないかとわたしは思うのです。 

生きる自由が与えられているのならば、死ぬる自由があって良いの

ではないかと思うのです。

それを批判することなど 誰にも出来ないと思うのです。

宗教的観点からそれはいけないと思う人もいるでしょう

でもね、永遠の身体など誰も持ってはいないのですから、わたし達は

生まれた瞬間から死に向かっているのです。

人は死が怖いのではなく、苦しんで死ぬ事が怖いのです。

苦しんでいる姿を見続けて、看取る事が辛いのです。

死の間際まで苦しみ それを抑える為に麻薬の量を増やして

朦朧とした中で、意識がなくなり最後まで生きる事は称えられる事

でしょう。

けれど逝く瞬間まで意識がはっきりしているうちに、最後まで自分で

在り続けながら逝く事も 同じように称えてあげたいとわたしは思うの

です。

本人も家族もそれを受け入れられるのならば、それは穏やかな

死ではないかと思うのです。

人の体も木々と同じで その体が終わるとき栄養を必要とはしなく

なります。 食べ物も飲み物も受付ける事が出来なくなります。

そうして体が朽ちて枯れていき 最後に息を引取ります。

時々胃ろうについて聞かれます。 

点滴で持たせるか、胃ろうして少しでも寿命を長くしたいかで

本人の意識がない時、家族は選択を迫られるのだと思います。

とても迷われるかも知れませんが、実際はそんなに寿命は

変わらないのだと思います。

栄養を必要としていない体に、無理やり胃に栄養を送ることは、すでに

終えようとしている身体に苦しい思いをさせるのかも知れません。

それでも生きてさえいてくれたなら いつでもその温もりに触れる事が

出来ます。

ご自分がどのようにしたいかを考えて充分に納得した上で 決断を

される事がよろしいでしょう。 

それでもね、決断されても最後まで迷うかと思います。

どうぞ許されるのならば、時間に猶予があるならば答えを急が

ないことです。



家族を失う事は、どのような結果となっても後悔は付きものです。

家族の死は言葉にする事が出来ないほど、悲しい事ですし そして

とても辛い事です。

けれどもう死から逃れる事が出来ない時期になっているのならば、

安らかに逝ける事が、本人にとっても家族にとっても大切ではないかと

思うのです。

最後まで生きたかどうか、立派に生きたかどうかは人様が決めるの

ではなく、本人が決める事なのですから。


最後まで痛みと闘って耐えて亡くなっても

延命治療で意識がなくて亡くなっていっても

尊厳死でも安楽死を選んだとしても 神は同じように受け入れて下さる

今も神さまに包まれて共に在るけれど あなたが忘れている大いなる

意識に戻るとき、愛しきものとして再び包み込み慈しんで下さる。

沢山の愛を経験して還ってきた魂を労わって下さる。

自分で死を早めたから罪だと 拒否して罰を与えるのが神ではなく、

それは神ではなくてね人なのです。






金曜日は、ちかこさんのご紹介で茨城からJさんがいらして

下さって。 

息子さんを名前から透視していたら、Jさんのお母さんのお父さん。

Jさんにとっては亡くなったお祖父さまがいらしてさり、お顔の特徴を

お伝えしたら、やはり母方のお祖父さまでした。

「お祖父さんね息子さんの側にいるからね」 そうJさんにお伝えしたら 

Jさんが急に笑い出して、「息子をおじいちゃんって呼んでいるんです」

「生まれた時からおじいちゃんだと思ったけれど、大きくなるにつて

言う事も行動も爺臭くてね、お爺ちゃんに小言を言われている気分

になるです」って言うので、二人で大笑いを致しました。

Jさんは前々から11歳の息子さんを「お祖父ちゃん」と呼んでいた

そうで、ママ友からも「何故 おじいちゃんなの?」と聞かれるらしくて

「でも、おじいちゃんみたいだからとか言えなかったけれど 納得しま

した。」って、また大笑いでした。

わたしが霊視や透視をしなくても 結構皆さんご自分で気付いて

いたり、わかっている場合が多いのだと思います。

霊感は 誰しもご自分の中にあるものだと思うので、それを信じて

頂けたら良いのだと思います。

Yさんがいらっしゃった時も、名前から姿を透視していざ会いに行くと 

 

当たっているときと ハズレている

時が多くて やっぱりまだまだだと話していましたが、全くはずれて

いるのではなく、どこか一部分でも視ているのだと思います。

いつもお話するのですが、それを妄想や想像に終わらせてしまうか、

そこの部分を磨いて育てて確実なものにするかは、ご自分なのだと

思います。







ヒデさんのお母さんが歩けるようになったそうです有難うございました。

けいこさんのお母さん 開腹してみたら思ったよりも広がっていた

そうで、脾臓 胆のうを捕られたそうですが、とても回復が早いと

けいこさんが話しておりました。 お世話になりました。

もしご迷惑でなければ、わたしは朝と晩に流しておりますので

ご一緒に流して下ったらうれしいです。

yamachinさんが先週いらして下さった時に話していたのですが

エネルギーを入れる時 「持続継続」 そういって流すそうです。

それを聞いた時 あーなんて完璧なのだろうかと思いました。

それからわたしも真似をして、レイキを流すとき「持続継続で」と

流しています。





今朝は町内の落ち葉清掃がありました。

葉っぱが落ちている様子も きれいだから好きなのですけれどね。
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自宅から歩いてすぐのところに、田んぼが広がるあぜ道があります。

草の匂い 刈り取った稲の匂いが その季節毎に違っていて、

視覚だけでなく嗅覚でも季節を感じます。







いつもたくさんの人がお寄り下さいまして有難うございます。

我が家には、皆さんが下さったものが沢山あります。
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全てわたしの宝物です。 ありがとう。

長くなりましたね。 本日も読んで下さり有難うございます。